神戸麻薬事件Ⅰ
ジンが事務所から出ていくと、神崎は目を細めた。これは彼が本気になったときの癖である。
「で? その麻薬とやらのことを詳しく聞かせてもらおうか?」
ジンが出て行ったことを確認すると、神崎は再び専用の机に戻り、部下に説明を促した。この話を少年にするのは酷だと思った彼なりの心遣いである。出来ることならば、少年には極道の世界で生きてほしくないと彼は常々思っている。
「はい。実は三宮で学生を中心に麻薬が出回っとるんです。なんでも、“アタラクシア”っちゅう名前のやつでして、強烈な幻覚作用があるらしいですわ」
幻覚作用ならば、麻薬では珍しくない。警察とぶつかることの多い部下たちがこれほど訴えてきたのには他にも何かあるのだろう。
「せやな……お前ら、他になんぞヤクの特徴、あるんか?」
「それが……信じられんかもしれんのですが」
「ええ。話せ」
「そのクスリをキメた奴らは身体的に何らかの変異が起こっとるんです」
「化けもんにでもなっとるっちゅうんか?」
「少なくとも人間辞めとるレベルですわ。クスリやった奴を車で追い回しても振り切られたんですから」
神崎は一瞬目を見開いた。
「……事実やろな?」
「俺の他にも、星崎や倉間がその目で確かめとります。間違いなく事実です」
手を打たざるを得ない。神崎は即断する。
「よっしゃ。サツは一旦無視せえ。ワシが抑えはつけとく。とりあえず、テメエらはクスリの流通元を洗え。出来るんなら叩き潰せ!」
威勢のいい号令に部下たちは威勢のいい返事をする。組織を鼓舞することが事態解決への必要条件だ。
「組長、サツ無視してもええんですか? 俺らが捕まってもうたら、元も子もありませんぜ?」
部下の問いに神崎は
「心配せんでええ。警察にはちと知り合いがいるんでな。そいつにあたってみるわ。まあ時間稼ぎ程度にしかならんやろうけど、何もせんよりマシやろ」
と笑って答えた。その表情にはまだ余裕が見えた。それは彼がこの麻薬事件に絡む人間を知らなかったからに他ならない。
「軍馬厳太郎警部補やったら話は通じるはずや。今、手筈を整えるから、ちょっと待っとれや」
神崎がスマホをいじって、しばらくするとその電話口に軍馬が出た。その口調は父親に似て重々しい。
「神崎。ヤクザが昼間から何の用だ? 自首する気にでもなったか?」
「アホぬかせ。ワシはお前に依頼したいことがあって電話しただけや。どや? 警察組織は慣れたか?」
軍馬厳太郎は若干二十五歳である。若きエリートが裏でヤクザとつながっているとは誰もが思っていなかった。それは軍馬の生真面目な正確によるものである。
「世間話がしたいのではないな? 私にさせたいことというのをさっさと言ってみろ。私は暇じゃないんだ」
「なんや、つれへんのう。まあええわ。軍馬、お前の力でしばらく警官隊がワシらの行動を察知しても動けんように縛っとけ。せやな、ほんの一時間で構わん。それ以上はお前でもでけへんやろ」
あの鋼鉄署長のせいでな、というのは言外に含まれている。
「……取引成立にするには私にメリットがない。それをしろというのなら、相応の代償をいただこう」
神崎が気に入っているのはその性格もそうだが、この頭の回転の速さもである。警察内部でも彼ほどの頭脳を持つ人間はそう多くはない。
「くくく……ええやろ。三宮で起こっとる麻薬事件の情報をこっちが掴んどる分だけ流したるわ。そっちでは“認識できん”ようになっとるんやろ?」
電話口から歯ぎしりの音が聞こえたような気がした。警察は正義の組織などでは決してない。上層部が腐敗しているならば、それは十分にヤクザ以下の組織に簡単に成り下がる。
「……分かった、それで手を打とう。その情報を寄越せ」
「取引成立やな。一度しか言わんからよく聞いとけや」
こんにちは、星見です。
これが投稿されているころには私は病院に行っているでしょうか。
それはともかくとして、改稿した第四話目です。アタラクシアは出さないわけにはいかないので、名前だけは残してあります。あとは全面改稿しました。
ではまた次回お会いできることを祈りつつ……