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美しい人 母

僕の母は綺麗だった。


母は看護婦をしていた。

僕は結構鍵っ子だったのだけれど、学校の催し物の時には、母は必ず時間を作ってやってきてくれた。

運動会、発表会、父兄参観、そしていつも着物を着て来た。


貧しい家庭だった。

父は真面目一本やりの人物で、煙草とコーヒーだけが趣味だった、酒は呑めなかった。

本棚に並んだ本は仕事関係や人間形成のハウトウものばかりだった。

しかし、真面目さがたたって、会社に慣れ、そこそこのポジションに就くたびに、

人間関係や仕事上の事で悩み、転職を繰り返していた。

その度に家族は、慣れた場所や人と別れ、社宅や借家やアパートを転々と移転し続けた。

しかし、そんな父も僕が中学に上がるころに一軒家を建て、家計も安定して、その後はずっとそこで暮らした。

いつも思い出す父の姿は、雪見障子から小さな庭を眺めながら何も言わず、何時間も煙草を燻らせ、コーヒーを啜っている姿だ。

そんな父とは何も解り合えず、父がいつも何を考えて居たのかは結局解らぬまま、15年前67歳で死んでしまった。


そんな貧しい時代に母は子育ての状況により、内職をしたり、看護婦の仕事をしたりしながら家計を助けていた。

その母が運動会などにやってくる着物姿の時は、周りの人々が振り返る程、凛として美しく、まるで女優のようであった。

僕は母の着物姿が大好きで、母を皆に見せたくて、そんな学校の行事を心待ちにしていた。

特に運動会などで、母がお弁当を持って来てくれる時は、天にも昇る気持ちだった。

母は料理も上手く、母の作るお弁当は、他の友達の弁当とは別の次元の物だった。

忘れもしない。おにぎりは綺麗な俵型の小ぶりな物で、海苔の黒、ごま塩のブチ、タラコをまぶした赤、お稲荷の茶などが綺麗に並べられていた。

豪華なおかずだった訳ではない、普通の卵焼きやウインナーやから揚げなどが、本当に美しく並べられていた。


僕が小学生時代の母の想い出は、強く、美しく

今も心の中に焼きついている。


そんな母の一周忌を昨年10月に終えました。

母は享年73才で亡くなりました。


「私 離婚しようと思うんだけど・・・」


ある日、母が突然言い出した。


母が50前後の頃だったと思う。母は子宮筋腫にかかり、子宮を全摘出した。

その後数年たった頃、突然母はそんな事を言い出した。

「どうしたの? 急に?」

「私はもっともっと旅行に行ったり、色々な事をして楽しみたいんだけど、お父さんは何を言っても付き合ってくれないから、疲れちゃった・・・」

結局その話はそれきりになったが、

数年後、父はすい臓癌で三ヶ月の闘病後亡くなってしまった。

そして・・・その後の母は凄かった。


子宮摘出後何が変わったのか、確かに母は変わっていた。

以前からやっていた、お茶とお花の先生にはより力が入り、町内の卓球クラブに入り、その仲間達とカラオケに行き、宴会を楽しみ、山登りを始めた。


そして父が死んでからは、益々その勢いに拍車がかかった。

その後の15年、母はやりたい事を全てやる勢いで、生き抜いた。

母は僕の姉夫婦と2世帯住宅に住んでいたのだけれど、姉夫婦は二人とも公務員で共働きだった。

母は家の家事全般(姉夫婦とその子供3人、6人分)をこなしながら、お茶とお花の先生で収入を得ていた。

そして、

卓球クラブ 週1度(結構厳しい本格的なもの)

カラオケ(飲酒)週1〜2度

山登り 月1〜2度(100名山こそやってないだろうが、中部地方の山はほとんど、北アルプス、南アルプスもほとんど)

海外旅行 年1〜2度程(30カ国ぐらい・・・凄いよ。オーロラまで見に行っているアフリカも行っているネパールも行っている)

そんな、ぶったまげ張り切りババアになってしまったのです。


服のセンスも変わっていました。

僕が見かねて、「そんなに派手なの着るなよ〜」っと言うと

「年取ってるからこれぐらい着ないと駄目なんだわ〜」と聞く耳も持たなかった。

特にカラオケに行く夜はケバかった・・・


友人達は皆年若く、母とは10〜20歳ほど離れている人ばかりだ。

(ま〜この辺は、僕は彼女の血をひいているのだろうけど・・・)


そんな元気な母も一昨年の夏8月に入り、

背中と腰が痛いと鍼灸院に通っていた。


母は8月の20日過ぎに、山に登った。姉夫婦も一緒だった。

途中挫折する人も居た中、母は山頂を踏んだらしい。


9月に入ると、母は近所の町医者に行く。

大型の病院を紹介される。入院、検査。

9月の半ば、僕は姉に呼ばれ見舞いに行き、初めて癌だと聞かされる。

しかし、母は元気だ。

姉が言うには、医者は「このままなら長くて3ヶ月、早ければ1ヶ月持たないだろう。取り合えず、1度施術をして詰まった大腸を通してあげないと、すぐに何も食べられなくなり、痛みも酷くなる」

と手術を進めているらしい。

しかし、母が嫌だと言って聞かないらしいのだ。

僕は姉と母を説得して、母に手術を受けさせた。


それが、良かったのか、悪かったのか・・・

手術後、母はメッキリ弱ってしまった。


姉から手術後やっと「見舞いに来てやって」と連絡があり、僕は名古屋まで見舞いに行った。

(それまでは、今来ても眠っているだけだから・・・と断られていたのだ)


僕が見舞いに行くと、母は以前に会った時より明らかに弱っていた。


僕の手を握り、「おねえちゃんにお礼を言ってね・・・おねえちゃんしかもう居なくなるんだよ・・・」

などと、死ぬ気まんまんだった。


そして2週間後

2005年10月25日 母は逝ってしまった。


僕は通夜から告別式そして火葬場と、母の顔を見る度に涙が溢れて止まらなかった。

母を思うたびに涙が溢れ出て、いやになるほど泣きまくった。

本当に何も親孝行してやれなかった。

母の気持ちを他所に、実家を姉夫婦に任せて、養子として家を出てしまった。

いい歳になっても世話ばかりかけて、どうしようもない駄目息子だった。

旅行1つ、山1つ一緒に行ってやれなかった。

連絡などは正月に会いに行く以外はほとんど取らなかった。

母の日に毎年花を送るぐらいで、誕生日など覚えてもいなかった。

本当に何もしてやれなかった。


その後1ヶ月ほどは、真昼の渋谷で信号待ちをしていても、テレビを何気なく見ていても、ふとした瞬間に、涙が溢れて来た。

1日に何度も鼻の奥がツンとなった。

何を思うでもなく、涙が溢れて来た。


あれから14ヶ月が過ぎた。

僕は来月50歳になる。


それでも

今も、母が恋しいです


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