狼男の恋~ブランディッシュの笛の音~
いい話なので、ホラーなシーンはありますが、是非最後まで読んでみてください。
「狼男の恋~ブランディッシュの笛の音~」
筋肉が、みしみしと音を立て、グロテスクなほど歪に膨らんで行く。血管は樹木のこぶのようだ。肌は岩のように硬い。吐息は獣のように荒く、歯茎の間から大量の涎が流れ落ちてゆく。まるで骨ごと膨らんでいくような、不気味な光景だった。
ゴキ、バゴ、グキ……。
男は鎖に繋がれていた。腕や足に、鋼鉄の輪が填められており、そこに鎖が繋がれている。鎖は、頑丈な鋲によって、灰色の石壁に止められており、男を完全に束縛していた。
「ああああああああー!」人間の声だった。しかも、のたうち喚くような壮絶な響きを感じさせる。まだ辛うじて、その化け物のような体に人格を残そうと、必死に足掻いているように聞こえた。
牢獄は狭かった。人一人分の空間は、あっという間に、鋼のような四肢によって埋め尽くされた。肌の表面から、波が飛沫を立てるように広がり、針のような毛が生えてゆく。
男は絶叫した。その声が、変声機でも当てるように、別のものに変わってゆく。それは、この世のものとは思えない、おぞましい野獣の声だった。
彼は俗に言う、狼男である。ただ、ヒグマの二倍もあるような巨体だ。腕や足を、めちゃくちゃに振るが、鎖はびくともしない。なにせ、その巨大な四肢には、それぞれ三つの束縛具が填められているのだから。
狼男は、正面を睨んだ。鉄格子を透かして、石畳の広間が見えている。そこに、天窓から降り注ぐ月光が、神秘的な光りのプールを作っていた。
恐ろしい叫び声。飛び散る糊のような唾液。
彼は、満月の夜に、思いっきり野原をかけずり回り、獲物をあさりたかった。野ウサギや狐、羊に牛だって、彼からしたら簡単に捕らえられる、最高のご馳走だった。
ナイフのような爪で、石壁を引っかき回す。牢獄の中に、爆竹でも放ったような、赤い火花が飛び散る。それでも、石面に深さ一センチほどの傷跡がつく程度である。
彼は、明らかに危険な存在だった。そして、異様である。誰がここに縛り付けたのか……。自分でやったのか、第三者がやったのか。この狼男以外、広間の中はいたって平和で、酷く閑散としていた。堀窓には、蝋燭がしたたり、赤々と群生している。
「グオオオオオー!」
狼男は、渾身の力で体を捩り、泣きわめいた。
その叫び声を、誰よりも嘆き悲しむ男がいた。黒いフードに顔を隠し、手にするランプが、その脂ぎった頬を照らしている。
(我が息子よ。耐えてくれ。今宵も直ぐに終わる……)
まるで心臓に杭を刺すように、その言葉が胸に響いた。そうやって幾晩、満月の夜を耐えてきたことか……。
広間の隅にあるドアが、ぎいと閉まった。ローブを翻し、闇を滑るように、男は階段を上った。階段は細長く、どこまでも続いて行く。男は、ようやくドアを開け、外に出た。
まだ闇は続く。平衡感覚を奪い去るほどの、壮絶な闇だった。ランプのオレンジ色が、辛うじて闇に穴を開けている。それを、闇雲に振りかざし、帰路を探った。水が堀に流れ込むように、ランプの光りが壁を照らす。壁は、ひどくデコボコだった。
そのデコボコの正体は、無数の窓か、鳥の巣のようなものだった。その穴から、闇の住人が顔を覗かせている。
髑髏だ。
男は、無数の髑髏によって埋め尽くされた石壁の通路を、滑るように歩いて行く。
そこはまさしく迷路だった。何の躊躇もなく、階段や次のドアを見つけ突き進む男は、ここの管理者か住人に違いなかった。
ようやく明るい場所に躍り出た。そこは、先ほどとは違い、生者の息吹が感じられる。頻繁に、ここで誰かが営みを繰り返している、肌で感じる温かみがあった。
石造りの祭壇や、十字架に聖体の像。部屋はさほど大きくなく、天井は低い。そこから更に階段を上り、ドアを開けると、巨大な大聖堂に躍り出た。
男はせかせかしていた。時計はないが、もう時間が迫っていることを知っている。
ローブを床に擦りながら、慌てた様子で、身廊を走り抜ける。ランプは、男の意志を表すように、火の玉みたいに飛んでゆく。腕をゴムのように伸ばし、前のめりに走った。
「バンバンバン!」と、大聖堂に不気味なノック音が轟く。
タイミングは完璧だった。
男は、フードを外すと、息を整え、正門を開けた。
「これはこれは、毎夜、ごくろうさまです」
男は、まるで人格が変わったように、冷静な声で言った。
「神父様。こんばんは。どうでしょう?変わったことはございませんか?」
正門の隙間から、松明を手にした、農夫風の男が立っている。二人組で、片方は猟銃を持っていた。
神父は首を振り、丁寧に十字を切って見せた。それを見るや、農夫達は頭を下げ、恭しく簡単な祈りを捧げた。
「神のご加護を……」神父は無感情に言った。
「神父様の祝福があれば、恐くないです。ましてや、神の家に、あの醜い化け物は入り込まないでしょう」歯の欠けた農夫が、えらく信心深い様子で言った。ドアが閉まる。
神父がほっとした、次の瞬間。どごん、どごん……と、くぐもった振動が、足下から聞こえてきた。彼に休む暇はない。
ランプを弧状に振り、回れ右をする。その足は、先ほどよりもせっぱ詰まった緊張を乗せ、大股に飛んでいった。
目の前には、荘厳な礼拝堂が聳え立っている。正門から、正反対の位置にあった。マリア像の手前には小さな祭壇があり、そこに鋼鉄製の箱が置かれている。
箱を開く時、神父は悪魔の形相に変わっていた。その手が、箱の中身を引っ掴む。それは明らかに、この教会の聖物だったが、それを恭しく扱う様子は、一切ない。
隼のように速く、黒い影は地下牢へと向かった。ローブが闇を吸い込み、神父につきまとう。
髑髏達の目が彼を追う。
神父は、鋼鉄のドアを開け、広間に雪崩れ込んだ。狼男が、狭い牢獄を、今にも破壊しそうだった。
広間は小刻みに揺れている。牢獄のドアに填め込まれた鉄柵も、かなり拉げている。
「やめろ、ニック!また笛を吹くぞ!」
神父は、手の中の聖物を掲げた。それは、銀色に輝く横笛だった。神秘的で、その荘厳さの中に狂気を感じさせるほど、美しい装飾が施されている。
肉の茨のような口。狼男が牙を剥いた。
神父は悲痛な表情を浮かべると、笛を口に付けた。儚げなメロディーが流れる。それと同時に、狼男が別の鳴き声を上げ、牢獄の中で蹲り始めた。苦しんでいる。
「ウガアアアアアー!」
その声が、ただの化け物の断末魔に聞こえたら、どんなにいいだろう。神父にとって、笛を吹く一息一息は、針で喉を刺すほどの苦痛に感じられた。
笛を下ろす。神父の顔は、十歳は老けたように、見るに堪えない皺を刻んでいる。その手が、牢獄の鉄格子を掴んだ。膝から、力なく崩れ落ちる。
「神よ。どうして我が息子に、このような仕打ちを……」
そこに、神父の姿はなかった。ただ、一人の父親だった。その目が、牢獄で気絶する狼男の巨体を見つめると、乾いた涙を流した。乾いた鳴き声。焦燥感と喪失感。
すすり泣く声……。
神父はそのまま、夜が明けるまで、その場を離れなかった。
長い長い夜が明けた。鉄格子の扉を開ける神父の手つきは、悲壮感に溢れていた。
石塊に溢れた牢獄の中に、上半身裸の男が倒れている。手や足には、鋼鉄の輪が填められているが、枝のように細い体には、少しやりすぎのような気もした。
天窓から、清らかな、または灰を撒いたように仄かな光りが差しこんでいる。
神父の老体でも、そのひ弱な体を持ち上げることは、あまり苦ではなかった。闇は、昨夜と比べて、幾分か弱まっている。
カタコンベの中は、いつの日か復活を夢見る信徒達の髑髏で溢れかえっていた。その神聖な骸の通路を、神父は歩いてゆく。息子の頭が、お尻の方でぐらぐらと揺れていた。
精魂使い果たす。
神父は、朝が来る度に、魂を一つ抜かれたような、恐ろしい疲労感に襲われた。それは、肉体的なものではなく、精神的なものだった。
「神よ。この子が、次の満月の晩まで、安息の日々が遅れますよう、切に、切に祈ります」
この祈りは、神父にとって何度も繰り返した、血の祈りでもあった。そして、破けた衣服を着て、ベッドで横たわる息子の姿を見る度に、神に対する恨みと、救いを求める切なる心が、同時に込み上げてきた。
部屋の中は、どこにでもある簡素な佇まいだった。書斎とベッドがある。この家は、大聖堂の近くにある、農家風の住まいだった。簡素に生きなさい。その教えを実践させるため、神父が息子に与えた部屋だった。
神父は、金色の卵を取り出した。振り香炉である。中には、福音香が焚き詰められており、もくもくと煙を吐いている。それを、ベッドの上で振りながら、ラテン語で福音を唱えた。
神父は、一連の儀式を行った後、息子に服を着替えさせた。下着を着せ、シャツを通し、クラバットを首元に結ぶ。
この呪いはいつ解けるのだろう。神は何をお考えか。
息子が狼男であるという事実を知る者は、この小さな町でも、自分だけである。父親である自分が、この子を守らなければならない。息子が例え悪魔の下部でも、それが父として、当然の勤めのはずだ。神父はそう信じて疑わなかった。
体を拭いた濡れタオルと桶を片付け、神父は壁に掛けてあるロザリオを持ち上げた。それを、息子の手に握らせた瞬間……。
小さな部屋に、「ワッ!」と怯える声が轟いた。
神父ではない。ベッドに横たわる青年だった。包み込むように、ふくよかな弧を描く切れ長の目が、恐ろしく血走っている。吸い込まれるように青い瞳が、ぐりぐりと部屋の中を見渡した。その手が、神父の手とロザリオを、痛いぐらい握りしめている。ようやく呼吸ができたみたいに、息は荒々しい。
「父さん……」
青年は、ハンサムな野狐のような顔を歪ませると、体を起こそうと奮闘した。
「止めなさい。昨日はかなり暴れたのだぞ。それに、笛を聞かせた」
神父は、目の中に溢れる涙を堪えると、静かな声で言った。青年は、体に走り抜ける激痛に耐えかねると、諦めて、ベッドに横たわった。そして、神父の言葉に驚いたのか、眉間に強烈な皺を寄せる。
「そんなに酷かったの?」その声に、生気は感じられなかった。かなり震えていたし、息も絶え絶えだった。綺麗なブラウンの髪だけが、青年のありし姿を、残光のように光らせている。
静かな部屋に沈黙が流れる。神父は項垂れ、無言で息子に語りかけた。しかし親子は、ロザリオを互いに握りしめる手だけは離さなかった。
「……父さん。今日は、エリザベスの誕生日なんだ。町のみんなが、祝うんだよ。僕、出席しないと。手伝って……」
青年は、父親の手を握りながら、それを力なく持ち上げた、ロザリオの数珠が、じゃらじゃらと揺れる。しかし、刺すような激痛が、体を走り抜ける。息子の呻き声と蒼白な顔に、神父は心を痛め、優しく声をかけた。
「ああ、楽しみにしていたからな。しかし、誕生会は夜になってからだ。それまでゆっくり休め。母さんほどうまくないが、ジャガイモと鴨のスープを作ろう。それを飲んで、元気を出すんだ」
空腹で仕方なかった。青年は、父親の温かい言葉と、スープの話に、すっかり力が抜けた。「ドンドンドン!」
神父は、顔を上げた。その音は、階下から聞こえてくる。
「おかしい。こんな早くに、面会の予約はないが……」
とりあえず、息子を残すと、神父は階段を下り、小さな居間に躍り出た。そして、粗末な木製のドアを開けた。そこには、水色のドレスを着た女性が立っていた。
「神父様、おはようございます。こんなに早く、おじゃまではないでしょうか?」
息子そっくりの瞳に、やわらかな湾曲を作ると、神父はかぎ鼻に皺を作り、微笑んだ。
妖精が立っている。
水色の高級な生地の上に、白雪のようなフリルが乗っている。少女の肌も、同じくらい白く、肩に流れる髪は、本当に金を解かして撫でたように、神々しかった。顔はとても小さく、こぼれ落ちるようなアーモンド型でだった。目は、その場を華やかに切り取るほど大きく、瞳の中に、天の川の欠片を落としたように煌めいていた。彼女が雪原に立てば、服を残して、後は透明に見えたことだろう。
「どうぞ入って。息子も喜ぶ」
神父の返事に、若い女性は、子供のような笑顔を溢した。軽く膝を折って、上品に挨拶すると、部屋の中にすたすたと上がり込む。
「神父様、これを。昨日、ニックの顔が、あまりにも優れなかったので。飲み薬とスープです。スープは母から教わって私が作りました。お口に合うといいんですけど」
女性は、手提げの籐かごを、テーブルの上に置いた。かごの中には、飲み薬の小瓶と、陶器の鍋が入っている。シーツを取り払うと、女性は天使のような愛くるしい微笑みを見せた。
「ありがとう、エリザベス」神父は感謝した。
「きっと、今日が君の誕生日だから、舞い上がっていたんだろう。それで、風邪をこじらせたのかも。今は寝入っているから面会は難しい。勘弁してくれ」
神父の言葉に、エリザベスは頬をぽっと赤らめた。神仏じみた肌の白さに突然、人間的な温かみが灯った。
「いえ、その……。友人として、当然のことですから」
「さっそく、スープを温めよう」神父は鍋の取っ手を掴み、それを竈まで運んでいった。
「神父様、私がやります。看病で疲れているでしょう?」
「しかし、せっかくのドレスが、煤で汚れてしまう。それに、こんな早くに家事を任せるなんて、申し訳ない」
「いえ、大丈夫です。家では、家事なんてやらせてもらえないですから」
「それでは、せめて、私が火をおこそう」
「……エリザベス……」
その声は、突然、階段の方から聞こえてきた。苦しさを必死に耐える、痛々しい声だった。
階段の手すりに、弱々しく青年がもたれかかっている。顔は真っ青で、言葉一つ発するのも大変そうだったが、瞳だけは生気を戻し、優しく微笑んでいた。
「ニック……」思った以上に衰弱している青年を見て、エリザベスはショックを受けた。
「駄目だ。ニック。まだ寝てるんだ。体の調子がよくないんだから……」神父は抱えていた薪を放ると、慌てて息子に駆け寄った。
そこに、恐ろしい怒号が響き渡った。男らしい声だった。まるでライオンが吠えるように、よく通る。開いている戸口に、栗色の柔らかいオールバックが、ぬっと現れた。それは、立っているだけで、木枠を押しつぶしそうなほどの巨体だった。筋肉隆々の若者である。
「大変だ!」
大男は、せっぱ詰まった顔をしている。がっしりとした骨格、柔和な顔に、不穏な影が落ちていた。
「神父様。来て下さい!町の一大事です。セラヴィック氏が、お呼びです!」
「どうした、ブランドン。また、家畜のための祈りなら受けないぞ。あれは先日やったばかりで……」
「違います。狼男についてです!セラヴィック氏が急いで来るように言っています!」ブランドンは、空気を破るような大声を発した。
「お父様が……?」
エリザベスは、神父の横に駆け寄ると、不安そうに尋ねた。
一同は、テーブルを囲んだ。しかし、朝食の食べ物は、一つも並んでいない。ブランドンだけ、鼻息を荒くし、テーブルの前に立っている。そして、新聞紙を卓上に叩きつけた。
「彼が来るんです。いよいよ我が町に!」
その新聞は、大きな都市から、一週間遅れでこの町に届く、有名な週刊だった。
ブランドンの肉食動物のような眼孔が、テーブルの面々を覗き込んだ。彼らも、ブランドンが持ち込んだ新聞の一面を、興味津々に覗き込む。新聞からは、インク臭い香りが、ぷんぷんと漂っていた。ニックは、一面に指を置いた。
「彼が来るのか?」
「そうだ、ニック!是非、神父様に、祈祷をしてもらって、大々的な『狩り』の成功を祝してもらいたいんだ。セラヴィック氏は、エリザベスの誕生会を延期して、彼を迎える壮行会をしたいらしい。その時に是非、神父様のお言葉を」
ブランドンは、筋肉を震わせ、嬉しそうに叫んだ。ニックの肩をばんっと叩くと、青年は今にも骨になって崩れてしまうんじゃないかと思うほど、弱々しくテーブルに蹲った。
「やめて、ブランドン。ニックは今、風邪で体調が悪いの」エリザベスが非難した。ニックの肩を、心配そうに掴む。
「それはすまない……。でも、お前も『狩り』に出るよな?羊飼いの連中は、こぞって参加するよう、セラヴィック氏は臨んでいる」
ブランドンはにかりと笑った。
神父は、腕組みすると、新聞紙を取り上げた。カササギの巣のような黒い癖毛を掻くと、新聞紙をテーブルに置いた。その向こうに、鼻の穴の膨らんだブランドンの顔が見える。
「しかし、これはあまりにも危険なのでは……」神父の目は、悲壮さを増し、息子の顔を捉えた。刺すように冷たい眼光は、ニックの瞳を凍りつかせた。
新聞紙の上には、イングリッシュ・マスタッシュの口髭を伸ばす、長身の男が見て取れる。
優雅に立ち上がると、エリザベスはソファに駆けてあるブランケットを持ってきて、ニックの肩に優しく掛けた。その美しい瞳も、新聞を訝しげに覗いている。
「そうよ。神父様の言うとおり、そこまでする必要はないわ。狼男の被害は、ここ一年、一度も起きていないのよ」
「しかし、奴の醜聞は、そこら中から聞こえてくる。前よりも、住民は怯えているんだ。そして、一連の事件には、必ず彼が関わっている。彼の名前を聞かない日は、ほとんどなかった。勇敢な戦士だよ!」ブランドンは、新聞紙に、拳をドンッと置いた。
神父は顎に手を添えると、どうしたものかと考えた。ブランドンは、その表情を、やや困惑して反抗的に捉える。
《ジョージ・タウンゼント、再び町を救う!》《狼男ハンター、ブランディッシュの町へ向かう》
その男は、最近ちまたを騒がせている、有名な狩人だった。ただし、森や山の獣を狩る狩人とは違う。彼は、カルフォルニア州全土で、猛烈な驚異を震う狼男を、次々と退治して回っていることで有名な、凄腕のハンター《狩人》だった。
覚悟を決めたように、ニックは唾を飲み込んだ。丸太のような腕を彼の背中に回すと、ブランドンは狼男の狩りを手伝えることに、喜びの声を漏らした。
ニックの視界は、急激に狭まった。テーブルの上の新聞が、死神からの招待状のように感じられた。部屋中に響くブランドンの大声も、ぼやけて聞こえる。
新聞紙の男は、肩にライフルをかけ、あるものの隣に立っている。それは、ロープで吊し上げられた死体だった。上半身の服が破れ、肌は泥にまみれている。その男の額に、銃弾の打ち込まれた跡があった。一面には「ゴーウェルの住民、三十人死亡。タウンゼントだけ生き残る」と書かれている。それを何度も読み上げ、ブランドンは力強く、まるで彼の崇拝者のように言った。
「どこの村でも、彼は狼男を仕留めたんだ。その代わり、狩りに参加した人は、ほとんど狼男に殺されているんだ。彼だけ生き残った。凄い奴だよ!」
「野蛮だわ!」エリザベスは、ニックの肩を掴みながら、非難がましくブランドンを見上げた。
気がつくと、戸口の前に、神父が立っていた。さっきまで外していたローブを、黒いスータンの上に羽織っている。
「行ってみよう。これも、私の仕事だ」
数分後……。ブランドンは、肩で風を切りながら、意気揚々とブランディッシュの町を歩いていた。後ろには、神父様を従えている。彼は、町で一番の名士、ジェラルド・ヴァン・セルヴィック氏の使いだった。ジェラルドは、ブランディッシュ近郊の牧場を経営する大地主だった。ブランドンは、そこで働く一羊飼いだが、腕っ節のよさに、よくセルヴィック氏から使いを任される。
「やあ、よく来てくれた。ありがとう、フィリップ!」
その声は親しみに溢れていた。「フィリップ」、神父のことをこう呼べるのは、小さな町でも、彼だけだった。「フィリップ」の響きの中に、浅はかな誇りと見栄がふんだんにこもっていることに、神父は気づいていた。彼は、町で二番目に豪奢な建物の前に立っている。町役場だ。ちなみに、一番豪奢な建物の所有者が、目の前に立っている。
十字を切ると、フィリップは、恰幅のいい初老の男と握手をした。男は、上物のジェストコールとジレの下から、巨大な太鼓腹を突き出している。
高級な葉巻の匂い。それは、嫌らしいぐらい、ジェラルドの体に染みついている。神に仕えるものとして、全ての人を愛し、寛容な態度で受け入れることは、職業柄、当然のことだった。しかし、フィリップは、このジェラルドという男があまり好かなかった。肥えすぎた体に、豪華な装飾品、嫌みな香水、それが金持ちという人種だと思えば、別段気にもならないだろうが、彼が大の狩猟好きということに、フィリップは嫌悪感を抱いていた。
マスケット銃が十丁ほどある。
若い男達が集まっていた。彼らは、ジェラルドが認めた、生粋の名手たちだった。十名ほどが、ウール製のチュニックを着て、狩りの格好をしている。ジェラルドのお気に入りの人形みたいだった。
「ブランドン、ご苦労」ジェラルドの言葉に、若い巨漢は頬を赤らめた。
「フィリップ、新聞を見ただろう?あれは都市から、一週間遅れで輸送される週刊だ。あの記事によると、ジョージが―私は親しみを込めて、ジョージと呼ぶが、彼がゴーウェルの町を出て、八日が経っているらしい。旅の馬車で移動していると考えると、丁度、今日辺りに着くはずだ。そこで、彼を歓迎する壮行会を開きたいと思っている。見ろ、この戦士達を!」
ジェラルドは、お気に入りの人形達を示して、嬉しそうに言った。彼の肉付きのいい腕に肩を掴まれたフィリップは、窒息しそうな顔を漏らす。
「彼らを見て、私の意気込みが伝わればいいのだが。何せ、あの野獣をやっつけることが、私の生き甲斐でもある。あの夜、奴に喰らわせた銃弾の感覚が、今でも忘れられない。今度は、この手で―いや恐らく彼が先に仕留めてしまうと思うが、奴の亡骸を必ずこの目に収める。それに、住民の気が休まる。ようやく、この忌々しい悪夢に終止符を打つことができるのだ」
「お言葉ですが、セルヴィックさん」
「水くさい。ジェリーと呼んでくれと言っただろう?君には、特別にその名前を許しているんだ」そうやって、プディングみたいに脂肪のついた胸に顔を押しつけられる度に、フィリップは豚の乳を啜らされているよな気がした。
「……ジェリー。一年前に狼男が現れた時、彼は……あの野獣は、誰も傷つけなかった。被害は家畜だけ。多くの住人が目撃したが、奴は誰も襲わず、逃げていった」
「そんなこと!いずれ、町の全員を殺すことは目に見えている」ジェラルドは語尾を跳ね上げた。
「奴のために一年間、自警団を夜な夜な警備に当たらせているんだ。それに、他の町での狼男の噂は、酷いものだ。その全てを、あのジョージ・タウンゼントは解決している。『駆除』には夥しい犠牲者も出たが、彼らは自分たちの町を守ろうとした、勇敢な若者達だった!」
「はぁ、そうかも知れませんが……。あまり、過剰になるのも」
「はははっ。神に仕えるものなら、悪魔には無慈悲にならねば、フィリップ。君のそういうところが、気に入っているんだ。その情け深さが」
フィリップは困り果てた。胸の前で十字を切る。
自警団。そう言ってジェラルドは、自分の息の掛かった若者達を筆頭に、町中の志願者達に、猟銃の使い方を教えていた。彼は実費でマスケット銃を大量に買い込み、狼男を仕留めるための訓練を、若者達に受けさせていた。実際は、狩りの興奮を味わいたいだけだということを、フィリップは見抜いていた。狼男を仕留めたとなれば、ジェラルドの鼻は高い。それが町の若者でも、かの有名なジョージ・タウンゼントでも構わない。とにかく、狩りの興奮が、彼の生き甲斐だったのだ。
はち切れそうな胸を仰け反らせ、ブランドンは仲間達から、颯爽と猟銃を受け取った。彼もチュニックを羽織り、狩人の威厳を装う。
役場の前には、今朝の「ジョージ・タウンゼント来訪」の話題で興奮した住民達が押し寄せ、彼とジェラルド・ヴァン・セルヴィックが顔を合わせるその時を、今か今かと待っているように見えた。
「今日は幾らでも待つぞ。明日でもだ。興奮して眠るどころではない!町長に頼んで、彼が来訪するまで、ここで寝泊まりする許可も取った。とにかく、町をあげて彼を歓迎せねば。壮行会には、是非、君の祈祷が必要だ。君がこの『狼男討伐隊』の専属顧問になって欲しい。もちろん隊長は、この私だが、ジョージ・タウンゼントは特別隊員という役割だ。君の息子のニックにも、是非、わが隊に入って欲しい。まあ、その件はブランドンに任せよう。彼は、一番の幼なじみだし」
ジェラルドは本当によく喋る。いつもそうだが、今日は興奮が舌の潤滑油になり、更に拍車がかかっている
物々しい雰囲気。しかし、それ以上に、「狩り」に対する悪戯な興奮が、何よりも勝っているように感じられた。実際、狼男の被害は、ここ一年間、まったく確認されていない。それに、近隣から聞こえてくる狼男の噂と、彼らを駆逐してきたジョージ・タウンゼントの武勇伝が、住民の好奇心を、奇妙に掻き立てていることは間違いなかった。とにかく、金持ちの娯楽に、「狼男」が祭り上げられていることに、フィリップは甚だいい気分がしなかった。
ロザリオを握りしめる。
フィリップは、ジェラルドにさんざん肩を叩かれると、しぶしぶ「専属顧問」の依頼を承諾した。彼には考えがあった。息子にとって敵となる「狼男討伐隊」の懐に潜り込んでいれば、彼らの動向や考えを全て見抜くことができる、結果、息子を守るために必要な情報を得ることができる、というわけだ。
そうして、フィリップが教会に向かい、帰ろうとしている時だった。
早くも、死神の足音が聞こえてきた。しかし、ジェラルドには、それが天使のファンファーレに聞こえたことだろう。
町役場から延びる、大きなメインストリート。その上を、一台の馬車が走ってくる。物腰軽やかな貴族の気品を湛える黒馬車だった。
馬蹄の金属音。車輪が土を削る、荒々しい音。ジェラルドは、興奮を無理矢理その分厚い胸に引っ込め、慌てた様子で、狩人部隊を整列させた。
それはまさに、かのジョージ・タウンゼントの馬車だった。
黒馬二頭に引かせた、趣のある馬車は、町役場の手前で停車した。フィリップは、苦虫を潰した顔で、住民達の陰に隠れた。
それは大男だった。そしてひょろ長い。
馬車のドアが開くと、男が飛び降りた。煌びやかなジェストコール、それに羽根飾りのついた、けばけばしい三角帽子。その全身から発するオーラが、「私は、あのジョージ・タウンゼントだ」と言っているようだった。
「既に、私を歓迎してくれているようだ。話が早い。一部の町では、私が災難を持ち込むと、揶揄するものもいるが、ここの人達は分かっているようだ。誰かね?私を雇ってくれる人は?」
かなり傲慢な言い方だったが、不思議とそれが容認される雰囲気を纏っている。三角帽子を放ると、召使いがそれをさっと受け取る。その貫禄に、ジェラルドは気押されたが、期待通りの強者であることに、その目は爛々と輝き、興奮を抑えられないようだった。
市役所の前、マスケット銃を抱える若者や、町中の人々が見守る中、二人の契約は交わされた。二人の握手は固く、暫く離れることがなかった。
岩のようにガッシリとした骨格に、肉付きのいい頬。印象的な口髭に、ごわごわの眉毛。正に彼は、伝説の狩人を名乗っていい、素晴らしい風格の持ち主だった。
「ジョージ・タウンゼントだ」
彼はそう名乗ると、手を振り上げ、住民にアピールした。彼を祝福する歓声と、割れるような喝采が、早朝の町を包み込んだ。ただ、フィリップの表情は、すこぶる優れなかった。
夜になった。その日は、住民達の仕事の手も覚束なかった。誰もが、夕闇に心を奪われ、町一番の酒場で開かれる壮行会に思いを馳せていた。
壮行会といっても、その実体は、田舎者達の酒飲み騒ぎだった。「狼男討伐隊」に参加の決まっている選りすぐりの名手達と、町の名士達が座る特別な席を覗けば、ほとんどが農民か家畜番の人々が騒ぐ舞踏会になった。ジェラルドの奢りで酒が飲み放題、しかもかの有名な狼男ハンターが見れるとあらば、彼らに参加しない理由はなかった。
騒々しい音楽。ヴァイオリンが、嵐のような狂乱の旋律を奏で、そこにピアノがアップテンポなメロディーを加える。それに乗じ、服を乱して踊るものや、ビールを掲げて飲むものまで、喧嘩さえ起こさなければ何でもありな状態だった。
ジョージは王様気分である。
彼は、雇い主のジェラルドと、彼の取り巻き連中と一緒に、豪華な食事が並ぶ丸テーブルを囲み、高価なワインに舌鼓を打っていた。
「いいか、ニック。何もしなければ、お前が狼男だとばれる心配はないんだ。ただ、満月の夜、いつも通り隠れていればいい。こんな馬鹿げた騒ぎも、いつか終わる。とにかく、怪しまれる行動だけは取るな。『狼男討伐隊』には入れ。私に考えがある」
ジェラルド達からそう離れていない席で、親子は額を付き合わせ、話し込んでいた。フィリップのかぎ鼻は、今にもテーブルクロスを切り裂きそうなほど、ぎらついている。
「分かったよ、父さん。でも、もし彼らにばれたら……。父さんに嫌な思いはして欲しくないんだ。父さんは神父だし、僕をかくまっていたことがばれたら、ただじゃ済まない……。神が決めるよ。僕は呪われているんだ。もしばれそうになったら、僕を……」
「馬鹿をいうんじゃない!」
フィリップは剣幕を荒立てた。息子の意見に、これほど腹が立ったことは、今までに一度もなかった。そして、周りの様子を気にした後、いつも通り、柔和な顔つきに戻った。
「神の意志なら、私も知っている。どうして、あの教会の祭壇に、我々聖職者しか知らない聖物が祭られていると思う?あれは、神のご意志だ。あの笛は、我々親子のために与えられたのだ。魔物を退治するための、神聖な武器だ」
フィリップは、丁寧に兎の肉をナイフで切り分けながら、淡々と言った。
「『聖マシューの笛』は、あの教会の聖職者だけに、代々受け継がれてきた。それが我々に対する神のご意志だ」
「だとしたら、神は相当の皮肉屋だよ」
ニックは半ば、吐き捨てるように言った。その言葉を聞いて、フィリップは、複雑な表情を漏らした。
「ニック……。ニコラス・ジョンソン。それじゃ聞く。お前がこの町で、人を殺したことはあるか?」
ナイフの手を止めると、フィリップは、グラスに赤ワインを注いだ。
巨大な酒場の広間は、庶民と名士達の席に、明確に区分されていた。ニック達が座っている席は、まさに名士達の席だった。ニックが三時の方角に目を向ければ、彼女がいる。セイウチがめかし込んだみたいな、ジェラルド・ヴァン・セルヴィック氏の隣には、スイレンのように美しい、エリザベス・メアリー・セルヴィック嬢の姿が見て取れる。
「一度もないよ。父さん。僕は狼男になって、人を殺したことは、一度もない……」
ニックは目を伏せると、鴨肉の続きを食べ始めた。
「その通りだ。お前は危険じゃない。たとえ、野に放たれても、お前が食べるものといえば、家畜や野獣だけだ。人は襲わない」
「でも、他の町では、狼男は人間を襲っている。大勢が死んでいる。例え僕が大人しくても、彼らは僕を容赦しないよ」
「……もしお前が、人間を襲ったら、私はお前を殺していたよ。あの『笛』でね。そして、私も死んだだろう」
「父さん。自殺は、地獄へ行くんだ。そんな事言わないで……」
「息子よ。お前が死ねば、この世は地獄と変わらない。私は、人の情を捨てるぐらいなら、神を捨てる……。さあ、食べなさい。ニコラス」
そんな親子の深刻な話を無視して、広間は陽気な混乱で溢れ返っていた。対岸の火事とはよく言ったものだ。隣町の不幸は、自分のこととは考えない。狼男の残虐非道な行いは、彼らの耳にも痛いぐらいに届いていた。しかし、ブランディッシュの町では、一年前に家畜が十八頭も殺された事件を境に、ぱったりと黒い野獣の噂は途絶えていた。
彼らは密かに、このスリルを歓迎していたのだ。かの狼男がこの町に潜んでいるかも知れない、しかし誰も死んでいない。それは、ほどほどに嬉しい狂気だったのだ。
それに拍車をかけたのが、狩猟好きのジェラルドであることは、前にも言った。
ジョージの瞳が血のように発光した。
ジョージ・タウンゼント。この男が、この町に不幸をもたらすのか、名声をもたらすのか、今は誰にも分からない。
ニックは、逐一、ジョージ達の席を気にしていた。宿敵になるであろうタウンゼントが気になるのではない。そこに座っているエリザベスに、関心がいった。
ポケットに手を入れると、中からストラップを取り出した。とても素朴だ。何の飾り付けもない。その先には、木彫のマリア像がついていた。その顔はどことなく、エリザベスに似ていた。
「結局、この壮行会だ。彼女の誕生会が延期になったのは、残念だったな……」
フィリップは、息子がマリア像を見つめる姿を哀れそうに眺め、低い声で言った。
「僕が彫ったんだ。彼女のことを思って……」
ニックの熱い眼差しは、美しいエリザベスを捉えると、直ぐに眼前のテーブルに戻った。
「……だが、彼女とは結婚できないぞ、ニック。その思いは、留めておきなさい」
フィリップは、少し冷徹に言った。
ジョージ達が囲む特等席の周りには、特別に、マスケット銃の名手達の席が設けられていた。彼らの目当ては、もしかしたら狼男ではなく、エリザベスの可能性がある。ジェラルドは、エリザベスを商売の道具として、どこかの名士と結婚させる可能性があった。しかし、狩猟好きの彼を満足させられれば、たとえ羊飼いだろうが農夫だろうが、結婚できる可能性はあった。まさしく、逆玉の輿である。
ニックは板挟みだった。狼男は自分だ。もともと、彼女と結婚できる素質など、はなからないのである。皮肉にも、普通の男だったならば、あの「狼男討伐隊」に入りたいという思いが、彼の中にも少なからずあっただろう。
この片思いで、胸を焦がして死ねれば、それ以上の幸せはないとニックは思っていた。
そう思うと、どうしようもない焦燥感が、彼を襲った。もう少し、自分の心を痛めつければ、涙だってこぼれただろう。手の中で微笑む、木彫のマリア像を眺めながら、青年は目を少し虚ろにした。煩いヴァイオリンの音色、ピアノの笑い声に乗っかって聞こえる、庶民の弾けるような話し声……。全てが歪んで聞こえる。おかしな時空の裂け目に吸いこまれるように、何もかも、掻き消えてゆく……。
「ニック……。ニック!」
ニックは我に返った。振り向くとそこに、憧れの女性が立っていた。彼女の鼻と自分の鼻がくっつきそうなことに、ニックは酷く焦った。それは、彼女も同じようだった。
互いに赤くなると、暫く沈黙し、再び目を合わせた。そして、同時に、
「あの」「僕……」
言葉が被った。先に表情が砕けたのは、彼女の方だった。
「何よ、ニック」おかしさを堪えるように、エリザベスが聞いた。
「あの、その……。これを」
青年は椅子を引いて、ぎこちなく立ち上がると、片腕を差し出した。指を花弁のように広げると、中から小さな木彫が現れた。
「君の誕生日だから。十八歳、おめでとう。僕、こんなものしか作れなかったけど、一生懸命彫ったんだ。ほら、マリア様がいれば、君を守ってくれるから……」とニック。最後の言葉だけ、しどろもどろになった。
フィリップは、二人を悲しそうに見つめている。手の中のマリア像を見ながら、エリザベスは暫く、言葉をなくした。むしろ、言葉がつっかえて出ないようだった。その胸に灯った温もりが、どれだけ彼女の心を焦がしたか、ニックは目を逸らしていたので、気がつかなかった。
彼女は、何も言わないで、自分の手をニックの手に重ねると、優しくマリア像を掴んだ。
「ありがとう。私……私、本当に嬉しいわ。待って、今つけるから」エリザベスは、ストラップの金具を外し始める。
「エリザベス、僕がつけるよ」
彼女は、背中に流している金糸のビロードのような髪を掻き上げた。この瞬間が、永遠だったらいいのに。エリザベスの小さな肩や細い首から、永遠に心を虜にするような、安息の香りが漂ってくる。
青年は、ストラップの金具を止める自分の指を、愛おしげに見つめた。ほんの僅かだけど、僕は彼女の世界に入れた……。僕の人生はこれで満足だ。本当にそう思った。
エリザベスが、髪を下ろす。振り返ると、胸の前に、彼女そっくりのマリア像が垂れ下がっていた。
「私、あなたから初めてプレゼントをもらったわ」とエリザベス。
「ごめん。みんな毎年、凄い豪華なプレゼントで……。正直、誕生会が延期になってなかったら、恥ずかしくて渡せなかったんだ」
苦笑いする青年。彼女は微笑みを隠せなかった。
「……着て。お父様が呼んでるの。あなたにも、お話を聞かせたいみたい」
エリザベスは、遠くを眺めるような眼差しで、ニックを見つめた。そして、彼の手を掴む。「神父様も、どうぞ。お父様が、またあの話を聞かせたいみたいなの」
そうやって、エリザベスに腕を引かれるままにしていると、ニックの肩を、激しい激痛が襲った。「うっ……」
青年は少し蹌踉めいた。エリザベスは驚いて、彼の胴を支えた。
「どうしたの、ニック?」
「ああ、大丈夫。幼い頃の傷が痛むんだ。肩に、鉄柵が刺さった時の……」
「おい、ニック。何してるんだ!セルヴィック氏がお呼びなんだ。お前を気に入ってるんだぞ!この機を逃すな。絶対に、『狼男討伐隊』には入れよ。俺がお前を扱いてやる」
そこに、気のいいブランドンが走ってきて、彼の肩に腕を回した。
「ああ、ブランドン。行くよ。焦るなって」
ニックは、熊のように逞しい友人に攫われ、ジョージ・タウンゼントが座る席に、無理矢理招待された。それを心配そうに眺めると、エリザベスはフィリップと一緒に、二人の後を追った。
長いパイプをくゆらせながら、ジョージは深々と煙を吐いている。そして、でっぷりした体を持ち上げて、威厳たっぷりに胸を仰け反らせるジェラルドを、興味深げに覗いている。
店の中でも、一番大きな暖炉の前に立つと、彼はわざとらしく咳をしてみせた。
これから何が始まるのか、ジョージ・タウンゼント以外、町に住む人間なら誰もが知っていた。彼は大勢が集まると、必ずあの話をする。
テーブルの何人かは、呆れたようにワインを飲んで、話に興味がなさそうであるが、そんなこと、ジェラルド本人はまったく気づいていないようで、完全に陶酔しきっていた。
「ゴホン……」
これは合図である。誰かが不自然に、「ジェラルド、聞かせて下さい」とか「お願いします」と言い始める。
「ミスター・タウンゼント。みんなこう言うので、お話ししてもよろしいですかな?あの夜の話を」
「ええ、私も興味があるので、是非」
ジョージは赤ワインでほろ酔いになり、少し舌が絡まっていた。
「あれは、つい一年前。森の生き物が、酷く惨殺される事件が相次いだ時でした。狼の仕業じゃない。何せ、熊から鷹に至るまで、あらゆる生き物が食い殺されていたんだ。そして、その魔の手は、ついに農民達の家畜にまで及んだ。それで、我々は自警団を作り、夜のパトロールを始めた。そして、あっけなく、奴は見つかった。案の定、牧場の羊たちを襲っている所だった。そいつは凄い速さで走り、町の方まで逃げていった。我々は奴を追った。そして、なんと!奴は街中で私の娘と出くわしたんだ。そうだろう、エリザベス?」
ジェラルドは、できるだけ話を劇的に盛り上げたいらしい。もったいぶった様子で、我が娘を見つめた。戸惑うように視線を泳がせると、エリザベスは渋々口を開いた。
「ええ、お父様。あの狼男は、私を襲ってきました。丁度、お供のものを連れて、友人の家から帰る所でした。本当に恐かったですわ。でも彼は……」
「エリザベス、彼ではない!あれは野獣だ。ともかく、奴はエリザベスを襲おうとしていた。娘をじっと見つめると、唸りながら、暫く立っていたのだ。恐らく、どっちを先に食べようか吟味していたのだろう。娘か下女が。しかし、そこに我々が駆けつけた。私は必死になって、猟銃を撃った。そして、弾丸は、奴の肩に当たった。確かにはっきりと見た。それにおののき、奴は逃げていった。娘を避難させた後、我々は奴を追ったが、とうとう森の奧で見失った。あれは恐ろしい事件だった。それからというもの、満月の夜のパトロールを怠ったことは、一度もない。私はこの自警団に誇りを持っている。次に、住民達が襲われないよう、我々が戦わねばならんのだ!」
「そうですとも!」ブランドンが、ビールジョッキを掲げて言った。
この武勇伝には効力がある。みんなも興奮していた。
単なる自慢話かも知れないが、ジェラルドが町のみんなを守っていることは、尊敬に値することだった。
と、そこで、ジョージ・タウンゼントが髭を撫でながら、ゆったりと話し始めた。
「お見事な話ですな。ミスター・セルヴィック。しかし私は、十二の町で、十六の狼男達を仕留めました。どこの町でも、家畜の被害や、目撃情報はありましたが、本格的な駆除はしていませんでした。それに私が手を貸した。大々的な狩りは、狼男の気を逆なでします。奴らは、我々が本気で殺しに掛かると思いきや、その本性を現します。多くの町では、狼男が暴れ、町の人達を殺しました。それでも私は、奴らを仕留めてきた。町の平和のためにね」
赤ワインを血のように掲げ、ジョージはそれを飲み干した。誰もが息を呑んだ。
「でも、こちらが手を出さなければ、彼らも大人しくしていたのではないでしょうか?」
ニックが意見した。フィリップは肝が冷えるようだったが、このテーブルを囲む人々の中にも、同意見を持っている人はいた。ジョージ・タウンゼントは、町に厄介ごとを持ち込む。少なからず、新聞で取りざたされた彼の記事に、死亡者の記載欄が乗っていないものは、一つもなかった……。
「それが狩りというものだ。相手を、そこら辺の狼と一緒にしてもらっちゃ困る。奴らは魔物だ。家畜の被害に手をこまねいていたら、次は人間がやられる。彼らの存在に、一生怯えて暮らすか?それとも戦うか?私なら、奴らを倒すことができる。ただ、被害は覚悟しておくことだ。次の満月の夜は、戦争になるだろう」
その場が凍りついた。なんて恐ろしい男を招き入れてしまったのだろう。そんな空気が、テーブルの上に漂い、食べ物を腐食させてゆくようだった。
「がははっ!」そこでジェラルドが大笑いした。
「何とも逞しい。安心しなさい。次の満月の夜は、住民を、私の屋敷や町役場に避難させよう。そして、警備を大勢つける。マスケット銃も大量に買い込もう。そして、『狼男討伐隊』を大々的に組織する。あなたには是非、彼らのお手本となって欲しい。そして、彼らを自由に使って欲しい。無論、私が隊長だが」
「いいですとも」ジョージはジェラルドの話に興味がなさそうだった。
「それに、隊の専属顧問は、フィリップ・ジョンソン神父に頼もうと思う」
フィリップはワイングラスを掲げ、ジョージに会釈した。
酒とタバコの匂い。その日の壮行会は、堕落した雰囲気に飲み込まれ、うやむやに終わった。
しかし、ジョージ・タウンゼントとの契約者であるジェラルドが満足すれば、全てよかったのかも知れない。彼は町長よりも力があったし、彼の言うことなら、住民は大抵のことなら従った。彼はさほど賢くないが、嫌な男でもなかった。
かくして死神が町に居座った。
ニックが、肩を痛そうにさする姿を、エリザベスはしきりに気にしているようだったが、そんな些細なこと、誰も気にしなかった。
翌る日から、「狼男討伐隊」の徴収が始まった。
志願者のほとんどは庶民だった。彼らは、新聞に載っている「ジョージ・タウンゼント」の勇姿に見せられ、そのカリスマ性だけを標榜し、志願しているように見えた。
元々いた自警団の二十名に、更に三十名が加わった。それも、最初の一日だけで。
その中には、ニックの姿もあった。
そして、日が経つにつれ、メンバーの数は、雪玉式に膨れていった。「町を守ろう」という意気込みが、若者達を煽ったのである。それに、これは格好の気晴らしでもあった。
カボチャが、種や実を飛ばして、弾け飛ぶ。豪快な銃声と共に……。
ブランディッシュの平和な九月の空に、危険な煙が昇ってゆく。徴収から五日も経つと、「狼男討伐隊」のメンバーは百人を超えていた。
彼らは、お昼になると、マスケット銃を握り、カボチャを的にした射撃訓練を行った。
ジョージは確かに、猟銃の名手で、百メートル先の指ぬきを、正確に打ち抜ける凄腕だった。
しかし、指導者としては失格だった。
彼は、ろくすっぽに教えてもくれなかった。ただ、自分が撃ちたい時に、的を狙い、楽しむだけだった。しかし、それがほとんど神業だったので、みんな躍起になって練習に励んだ。
(なんで僕は、僕を殺すための訓練を、毎日しなくちゃならないんだ?)
この疑問は、ニックにとってかなりのフラストレーションだった。それに追い打ちをかけるように、ブランドンが熱心にニックを指導した。お陰で、十日も経つと、ニックのマスケット銃の腕前は、かなり上達していた。
訓練が始まって十五日も経つと、ジョージは討伐隊のメンバーを、二チームに分けた。
一つは、狼男を直接追い詰めるチーム。つまり、ジョージの補佐をするメンバー。
そしてもう一つは、住民を守るため、警備に当たるメンバーだった。
彼は彼なりに、狼男を倒す三段を考えているらしく、気まぐれに見えて、実は凄い策を練っているような雰囲気を醸し出していた。
そして、ニックは警備チームに入ることを志願したが、ブランドンの熱意ある指導のため、その銃の腕前が評価されて、ジョージを補佐するチームに入れられた。
フィリップはそれを聞かされた時、相当困った顔をした。
「分かった。ジェラルドに相談してみる。一人息子だと言えば、チームから外してもらえるだろう」
その願いは、容易に聞き入れられた。ただし、ブランドンは残念そうな顔をした。
それからというもの、森の近くでの射撃訓練が、ニックには重荷ではなくなった。
ただ、町の何処を歩いても、針の筵の中にいるような気がしてならなかった。前々から、彼の肩身は狭かったのに、こうなると、いよいよ居場所がなくなる。
牧場の羊飼いの仕事も覚束なくなった。ブランドンや他の仲間達と寛いでいても、そわそわしてどうしようもなかった。楽しい会話の最中も、心のどこかで、闇が叫ぶのである。
《満月の夜、お前は死ぬ》―と。
ニックはみるみる窶れていった。それを心配した牧場のオーナーは、彼に二三日の休暇を与えた。しかし、そんなニックを誰も怪しまなかった。満月の夜が近づくにつれて、討伐隊に所属する若者達は、誰もが少なからず、怯えているように見えたからだ。
ニックが休暇をもて余している間に、フィリップは勝負に出た。
(ああ、神様。どうか、お救い下さい)ニックは思わず、そう祈らざるを得なかった。
二人は家の納屋にいた。そこで藁を食べているはずの馬たちは、外に出されている。
適当な木の枝を掴むと、ニックは口にくわえた。フィリップは、彼が練習している猟銃を手に取り、弾丸をゆっくり装填した。
その数秒後。銃声が納屋の中から響いた。真っ昼間で、誰もが気づくような破裂音だった。
「ううう……」
ニックは、なくなった自分の指を見つめた。左手の薬指と中指が、ふっとんでいる。折れた骨や肉塊から、血がどくどくと溢れ出している。
目の前に、フィリップの姿はなかった。納屋の奧にある、裏口のドアが開いている。ただ、藁の上に、煙を吐くマスケット銃が放ってあった。
それから、人々が様子を見に来た。証人は大勢いた。まず何より、町の人々は彼に同情した。指をなくしてしまった青年を避難したり、疑ったりすることはできなかった。ましてや神父の息子である。猟銃の手入れをしていたら、暴発して、指をなくした。この噂はたちまち広まった。
警備から逃げたい口実だと揶揄する者もいたが、そういう奴を見つけるとブランドンが、力こぶを膨らませたので、みんな口を噤んだ。それに、たったそれだけの理由で、指をなくす意味が、彼らには分からなかった。
「お前を守るためだ」
父親のその一言が、悲痛に満ちていることに、ニックは居たたまれなくなった。いっそ、討伐隊に殺されてしまおうか、そんなことさえ考えた。
そして、ニックは本当に死んでもいいと思った。それは、彼が生涯最高の幸せを感じていたからだ。
傷が癒えるまで、家で休んでいると、エリザベスが毎日のように、見舞いに来てくれた。
必ずスープと、代々セルヴィック家に伝わる飲み薬を持参して、ベッド脇の椅子に座ってくれた。長い時は、三時間ぐらい話し合った。それが、三秒にも満たないほど、あっという間に感じられた。
そして、何も話さず見つめ合う時もあった。それが例え三秒でも、三時間ぐらいに感じられた。エリザベスは何か話したそうだったが、肝心の所で口を閉じると、必ず部屋を出て行ってしまった。
あと三日。満月まで日はなかった。
指をなくすという代償の替わりに、ニックはエリザベスとの貴重な時間と、「狼男討伐隊」に加わらなくていいという、二つの利点を得た。
討伐隊以外の住民が、ここでジョージ・タウンゼントの呼び出しを受けた。彼らは農夫だったが、かかしを二百体ほど作れと命令を受けた。
酷い雨の日が続いたが、彼らは、納屋の中でせっせとかかしを作った。収穫していたカボチャを頭にし、藁を服に仕立てた。
そして、満月まで、あと一日に迫った……。二百体のかかしは、森の近くの平原に設置された。十メートル四方の間隔で、二百体全てが森の方角に向かって立てられた。それは、想像を絶するほど異常な光景だった。
誰もが息を呑んだ。
ジョージ・タウンゼントは満足げに笑みを溢すと、かかしの列の間をそぞろ歩いた。手には、特別仕様の猟銃が握られている。
彼の計画はこうだった。狼男は、満月の夜になると変身する。まったく理性が効かなくなり、本能の赴くままに獲物を狩る。すごい怪力で、ちょっとやそっとの鎖や金具は破壊されてしまう。そのため、狼男なる人間は、満月の夜になると、大抵は民家を避け、森の中に潜む。奴の鼻先に、かかしを大量に設置したのは、奴を攪乱させる狙いがあるのだ。
ジョージは、あらかじめ農夫に用意させた、あるものを持っていた。
それは、羊の臓物だった。樽の中に、大量に用意させている。鶏の血も混ざっていた。農夫達や討伐隊のメンバーにも協力させ、その血や臓物を、かかしの一つ一つに浴びせかけた。
狼男は、このかかしに気が散って、無防備になる。そこを、狙い撃ちにするのだ。
「すばらしい計画です。思いもしなかった!」
ブランドンは、討伐隊の中でもジョージ・タウンゼントの一番の信望者で、すっかり彼の計画に魅了されていた。彼のよいしょにかけては、右に出るものがいなかった。
「これで、幾頭もの狼男を殺してきたのだ。今回も必ず仕留める」
薄暗い森の中。ジョージは、その微笑むような目で、森の奧をじっと見つめた。
町の中は、いよいよ仕事どころではなくなっていた。今日の夜、「狩り」は実行される。
昼間から、人々は騒ぎに騒ぎ、既に避難の準備を始めていた。避難所は、町役場と、セルヴィック家の屋敷だった。どこも大きな建物で、町中の人々が入るほどのの余裕があった。
家畜も不穏な空気を読みとったように、しきりに泣き叫び、農夫達は彼らを納屋に避難させることに躍起になった。
ジェラルドは意気揚々としていた。
不謹慎にも、彼は歪んでしまう唇を、隠すことができなかった。町中を巻き込んだ狩りである。最高のショーだと思っていた。
午後五時。全ての住民の避難が終了した。その報告を、ジェラルドは自宅の前で受け取った。
「いよいよ、我々の出番だ。エリザベス、こっちへ」
ジェラルドは、「狼男討伐隊」の若者達を励ましているエリザベスを、猫なで声で読んだ。
「我が娘よ。約束しておくれ。明日の朝まで、絶対に、外に出ないと」
「ええ、お父様。もちろんよ」
秋が深まろうとしている時分。虚しい風が、落ち葉をいくらか纏って、外にいる人々の髪や服を揺らしてゆく。エリザベスの髪が、溶け出した黄金のように、美しく靡いた。
それを見て、よけい娘が愛おしく思ったのだろう。ジェラルドは、念を押した。
「新聞は、よく見ているだろう?わしは自警団をただの興として発足したわけじゃない。みんなそう言っているが、実は違う」
ジェラルドは溶けるように笑った。
「これを見なさい。狼男は、刃向かった若者をことごとく殺している。ただ、そうじゃない場合もある。理由は知らんが、まったく部外者の女性も殺している……。女性だけ、骨も残らないほど、食い殺している。女性だけ、執拗にだ。これに気づいた時、わしは自警団を、狼男を倒すまで続けようと決心した……。エリザベス、お前のためにだ」
エリザベスは、父親の差し出す紙を覗き込んだ。それは、スクラップ記事だった。どれも、狼男の被害にあった女性について書かれた内容の記事で、溢れていた。
「お父様……」
エリザベスの声には、改心の響きがあった。何せ彼女も、父親が狩りのスリルのためだけに自警団を続けているとばかり思っていたからだ。
セルヴィック家の豪邸の前で、親子は抱き合った。脂肪がついて丸々太ったジェラルドの体は、娘を抱擁するには、充分な広さがあった。
「さあ。今日こそ、私の不安に終止符を打つ時だ。娘を守ることが父親の勤めだ」
エリザベスは、父親の手の甲に、深くキスをした。
胸に響く感謝の気持ち。そして、ある後悔の念……。
「でも、お父様。もう一度、お考え直しはできないの?私なら大丈夫よ。あの時、狼男にだって、襲われなかったわ」
「馬鹿なことを言うな。お前は、殺されかけていた。さあ、お前がジョージ・タウンゼントを連れてきておくれ。彼も、お前に呼ばれた方が嬉しいだろう」
「私、あの方が、あまり好かないの」
「いいから連れてきなさい。彼なら、全て解決してくれるから」
上品に会釈すると、エリザベスは大理石の大きな階段を上り、自宅に入っていった。
屋敷の中は、人で溢れ、身動きできない状態だった。窮屈な人波を泳ぎ、階段を上って、四階ぐらいまで必死に駆けていった。
最上階の五階だけ、しーんと静まりかえっている。彼の警護に当たる若者が二人、猟銃をもって、扉の左右に立っている。ここまで静かだと、ぞっとするものだ。階下には、町中の人々が押し寄せているのに、ここはまるで別世界だった。
「お父様の使いです」
エリザベスは、警護の二人に了解を得て、部屋の中に入った。すると、ジョージ・タウンゼントが窓の前に立って、傾いてゆく太陽をじっと眺めている様子が見えた。
間もなく、あの太陽が、血のように真っ赤な夕日に染まり、闇を引き連れて、黄泉の世界へ沈んでゆくのだ。満月を輝かせるために……。
(なんて恐ろしいお方……。背中だけでも、まるで野獣みたい)
エリザベスのジョージに対する印象は、この町に着た時から悪かった。決して本性を見せないような狡賢い微笑みと、周りを圧倒する豪快な気性に、うさんくささを感じたのだ。
部屋は、セルヴィック家の中でも、最高の客間だった。貴族の部屋と言っても過言ではない。
彼女の瞳は、知らず知らずのうちに、ジョージを睨み付けるように輝いている。
エリザベスは、敢えて足音を立てなかった。この男の本性を見抜こうと、ゆっくりトルコ絨毯の上を移動してゆく。
彼の書斎に入った。
エリザベスは、一瞬、「わっ!」と叫びそうになり、口を両手で押さえつけた。
それは本来、この世にあってはならない光景だった。
書斎机の上に、試験管が何本も並んでいる。それはまるで、コレクションのようだった。
瓶の中には、薄気味悪い培養液が入っており、その中に肉片がぷかぷかと浮かんでいた。
すべて、指だった。しかも、ほっそり長くて美しい指が、標本のように入っている。ざっと三十近くあった。狂気としか言いようがない。
彼女は後退った。
しかしそこで、ジョージ・タウンゼントが話し始めた。一度も振り返らず、窓の外を見つめたままで。
「それは、私のコレクションだ。ミス・セルヴィック」と言って振り返る。
彼は笑っていた。人を安心させるような笑顔だが、それは表面だけだ。瞳がまるで、ガラス玉のようで、感情が感じられない。
「こういう趣味は珍しいが、私は愛好している。指が好きでね。無論、死んだ女性から、親族に許可を得て、拝借したものだ」
彼女は視線を逸らした。ジョージは髭をいじっている。
「狼男の被害にあった女性の遺体から譲り受けている。しかし、狼男は女が好きと見える。なにせ、原型が分からないぐらい噛み殺されているのだから。綺麗に残っているのは、指とか歯ぐらいだ。私は、彼女たちがいたたまれなくて、こうしてその亡骸を連れ歩いている。自分への戒めでもあるのだ」
迸る緊張……。ジョージは、パイプを吸い込むと、煙を豪快に吐き出した。
「森の入り口で、狼男を仕留められる確率は、五十パーセントといった所だ。そこから逃せば、まず『討伐隊』が被害を被る。そうなると、ほとんどは死ぬだろう。そこから奴が逃げ出せば、町の人達が危うくなる。これは大勝負なんだ。こういうときに、この指を見ると、命をかけて仕事に当たらねばならん、そう思えてくる……」
エリザベスの瞳は、痛々しく試験管の指を捉えた。ジョージの手前には書斎机があり、その上に愛用の猟銃が置いてある。
彼はひょいっとそれを持ち上げ、弾を装填し始めた。槊杖で、弾丸と火薬を、銃身の中に詰め込んでゆく。エリザベスは、一言も彼と口をきいていなかった。喋った瞬間、殺されるような気がしたからだ。
その口髭が、酷く汚れたタールか、凝固した血液のように見えた。
マスケット銃の装填が終わる。
彼はその他にも、拳銃を何丁か装填し、腰のホルスターに差してゆく。
「私が、狼男を確実に仕留めらるのは、銃の腕があるからじゃない。もちろん、それもあるが、私には特別な武器がある」
そう言って彼は、シーツの掛かった「何か」を持ち上げた。それを机の上に置く。
シーツが取り払われる。眩しい光り……。
三角柱のガラスケースだった。それが横になって置かれ、真鍮製の枠が土台となり、ケースを支えている。中には、巨大な筒状の銃器が入っている。その銃器に、砲口はなかった。
鋭い鋼鉄製の牙を持った、顎のようなものがついている。
「これで狼男を仕留める。あいにく、操作が難しく、一台しかないため、私にしか使いこなせないが。これが秘密兵器だ。この武器で、私はこの町を守る」
「……とにかく、父がお呼びです。ミスター・タウンゼント。お早くお越し下さい」
その言葉を言うのに、三秒ほどの間を要した。いつも羽のように美しくこなすお辞儀も、みっともないぐらいぎこちなかった。
ライオンの檻のような部屋を後にすると、エリザベスは階段を下り、蒼白な顔で人波を掻き分けていった。それからの記憶が、彼女にはほとんど存在しなかった。
まるで、死の旋律が彼らの足を動かすように、「狼男討伐隊」の面々は、隊長であるジェラルドと、特別隊員のジョージと一緒に、傾く太陽に向かって歩き出していった。
風が冷たくなっている。闇が徐々に迫ってきている。
全てが不快に思えた。
エリザベスはそれを窓越しに眺めている。ジェラルドは、ジョージを信用しきっていたし、隊の士気は最高潮に達していた。今更、ジョージが、精神的におかしい男だなんて、話し出せるわけもない。それに、ジェラルドは彼女に見送りを許さなかった。たった今から、明日の朝まで、彼女は完全に外出を禁止されたのだ。
屋敷の周りを、警備の隊員達が囲み始める。この屋敷の周りだけでも、合計三十人の猟銃を持った若者が警備に当たる。屋敷の中の住民達の話し声は、ピークに達していた。いよいよ、狼男の狩りが始まるのである。
エリザベスの心許ない気持ちを、誰かの声が揺さぶった。
驚かざるを得なかった。急に後ろから声をかけられたのだから。その柔らかな声の主は、ニコラス・ジョンソンだった。
「ニック!ねえ、聞いて。やっぱり、ミスター・タウンゼントは、どこかおかしいのよ!」
ニックは彼女の手を掴んだ。
「エリザベス、聞いて欲しい。もしもだけど、もしも……」
ニックの声は震えていた。その異様な様子に、エリザベスは自分の話を引っ込めざるを得なかった。
「君は世界で一番大切な人だ。だから、これを持っていて欲しい」
彼の目はせっぱ詰まっていた。あまりに突然のことで、エリザベスは戸惑った。
「どうしたの、ニック?」
窓から溢れるオレンジ色の陽光に、二人はステンドグラスの聖人達のように切り取られた。
彼女の手には、革袋が握られている。ニックが、彼女に渡したのだ。
「これは、教会に代々伝わる、聖物なんだ。もし狼男が君を襲うようなことが……。絶対にないと思うけど。こんな時だから、何が起こるか分からない。だから、これを持っていて欲しい。僕も安心するんだ。お守りと思って。そして、もし危険な目にあったら、これを使って。これが君を守るから」
ニックはそれだけ言うと、踵を返して、人波に消えた。
「待って、ニック!」エリザベスは叫んだ。
彼女の手が、ニックの手を掴もうとしたが、彼は直ぐに消えてしまった。屋敷には、全住民が閉じこめられているはずだから、どこに隠れても、必ず見つかるはずである。しかし、いくら探してもニックを見つけることはできなかった。
「これって……」
エリザベスは、革袋を開けて、中身を取り出した。それは、銀色に輝く美しい笛だった。
フィリップは、教会の神父である。彼は特別な許可をもらって、「狩り」の成功のための祈祷をすることを許されていた。一部の助祭を従え、この祈祷に当たっていた。正門には、猟銃を持った若者が二人、警備に当たっている。ニックは、教会まで駆けていった。
「祈祷を続けていなさい。ニックを念のため、地下の礼拝堂に閉じこめておく」
フィリップはそう言って、助祭達に祈祷を続けさせた。
「この日のために、特別な猿轡を用意した。それに、鋼鉄の輪も更に増やした。怪しまれないように、わざわざ二つ隣の町の鍛冶屋に作らせた。今日はどんなことがあっても、暴れられないぞ」
フィリップの声には怯えもあったが、それ以上に勝ち誇ったような響きも感じられた。
カタコンベの不気味な通路を歩きながら、親子は互いに慰め合った。こんなことは直ぐにも終わる。今日一日の辛抱だ。焦ることはない。
蝋燭の焦げる匂いが、不気味に充満している。石畳の広間が、冷たく広がっていた。狼男を閉じこめる専用の牢獄は、フィリップ神父の日曜大工によって、前より頑丈に作り変えられていた。
「いいな、息子よ?」
フィリップは、確認を取った。ニックは軽く頷き、上着を脱いでズボンだけになった。そのか細い手や足に、頑丈な鋼鉄の輪が填められてゆく。それぞれの手足に、五つづつ、輪が装着された。鎖は前の倍太くなっていた。極めつけは、猿轡だ。鼻先の尖った特注品である。
ニックの顔が、そのおぞましい鉄仮面の下に隠れた。牢獄の扉が閉じられる。中には、ひ弱な青年が立っているだけだ。そこまでして、厳重に縛り付けておくには、あまりにも滑稽な光景に見えた。
フィリップは、鉄格子の扉に鍵をかけると、鋼鉄のドアまでゆっくり歩いてった。
「誰もこの教会には入らせない。約束する。私がお前を守る」
そう言って、フィリップは扉を閉めた。髑髏達の視線を集めながら、神父は通路を、恐々としながら歩いていった。
この町は狂気に溢れている。すべてあの男のせいだ!
何事もなかった顔で、大聖堂に戻ると、助祭達を脇に従え、フィリップは再び祈祷に戻った。頭の中では、あのジョージ・タウンゼントの気味の悪い笑顔が浮かんでいた。恐怖を商売にする、ただの悪たれではないか!なぜあのような男に、人々は熱狂するのだ?
フィリップが礼拝堂に戻ったその時。
地下深くの牢獄では既に、変化が起き始めていた……。
ニックが蹲っている。しかし、亀の甲羅ほどの肩が、まるで大樹の根のように、ぼこぼこと膨らんでゆく。腕は豚の胴ほど肥大化し、血管は鋼鉄製のレリーフみたいに喨々と浮かび上がっている。あっという間に、筋肉の化け物が出来上がった。身長は四メートルほどになっている。その表面に、針のように鋭い体毛が、ぶわっと生え広がった。
狼男になりかけていた。
「あああああああああああーぐあ、グワアアアアアアアアアアア!」
ニックは、僅かに人格を灯していた瞳を、苦しそうに閉じた。開いた瞬間、それは不気味なぐらい青く輝き、魂を宿していなかった。
しかし、猿轡を填められていることや、鋼鉄の輪が増量されたことで、狼男も自由に身動きできないようだった。雄叫びも抑えられている。鎖が、石壁の鋲から外れることは、まずあり得ないことだった。狼男にも、それなりの理性がある。この状況でどれだけ暴れようとも、無駄な抵抗ということは分かっているらしい。
くぐもった叫び声。鎖がじゃらじゃらと揺れる音。
彼が今宵、人々を襲うことはあり得ない。結局、全ては茶番劇のまま終わる。それは確実だった。
フィリップ神父も、そのことに気づいていた。大聖堂にいるが、床の揺れや、雄叫び声も感知することはできない。助祭達が気づくわけもない。この下に、渦中の魔物である狼男がいるなんて……。
しかし、胸騒ぎがしてしょうがなかった。長年、神に仕えていると、普通の人間より第六感がはたらくようになるものだ。そして、その第六感が、何かを告げていた……。恐ろしい何かを。
「神よ。どうか、この町をお救い下さい……」
そう言って、フィリップは十字架と聖体の像を見上げた。そして、この町に漂う暗雲をすべて凝縮したような皺を、その眉間に刻んでいた。
大聖堂はいたって静かである。不気味なぐらいに……。まるで、ひっそりと誰かの首を絞め殺すような、圧迫した静粛さに満たされていた。
キリスト像の額に巻かれた、黄金の茨が、神父をあざ笑うかのように煌めいた。
お香が、十字架の周りを怪しく漂っている。まるで夜霧のようだ。暗闇から突然現れ、何もかも奪い去る悪魔のような狂気をはらんでいる。
「ニック……」
フィリップは呟いた。しかし、助祭達には何も聞こえなかった。
フィリップが、ニックを牢獄に繋ぎ止める少し前……。事態は思わぬ方向に動き始めていた。
空が赤らんでいる。森の上に浮かぶ西の雲は、毒々しい紫色に染まっていた。
風が舞い、それが一同の三角帽子を吹き飛ばしそうなほど、激しく吹いていた。
カササギが巣から離れ、虚空を不気味に旋回している。平野の土も、腐った臓物や血によって黒ずみ、腐臭と悪色を放って、無数のカボチャ頭をグロテスクに演出していた。
冥府の入り口のようだ。
若者達は、猟銃を握りしめながら、恐る恐る歩を進めた。「狼男討伐隊」の精鋭達は、二十名前後。ジェラルドとジョージに従い、森の入り口にまで歩を進めている。二百体ものかかしがひしめき合い、森から黒い怪物をおびき出そうと、不気味に立ち竦んでいる。
(俺が必ず、狼男を仕留めてやる!)歯を食いしばり、必死にそう願っているのは、巨体と猟銃の腕が自慢のブランドンだった。
四方を、血によって黒ずんだかかし達が囲んでいる。その間を縫うように、他の仲間達が前進してゆく。狩猟用のチュニックが、激しい風に揺れている。
「全員、散らばれ!」そう叫んだのは、ジョージ・タウンゼントだった。
ブランドンは、打ち合わせ通り、森の入り口近くでみんなと別れた。手頃なかかしの下でしゃがみ込むと、息を潜め、森の暗がりを見つめた。他のメンバーも、同じようにしている。いざとなって怯えだしたのか、ジェラルドはジョージの服を掴み、彼の脇で縮こまりながら、弱々しくしゃがみ込んだ。
もうすぐ、日が沈む。夜の戸張が何もかもを支配する時分。
ジョージが突然、立ち上がった。そして、怯えるジェラルドを残し、一人森の入り口まで歩いてゆく。誰もが、その奇行を見守った。
彼の作戦だろうか?誰もがそう思った、次の瞬間。ジョージは、先ほどから背負っていた、巨大な革袋を、地面に下ろした。中から、筒状の銃器を取り出す。鋼鉄の顎がついた、見たこともない銃器だった。それを、足下に落とす。
「諸君!ご苦労だった。どうせ君たちは、生き残れない。まずは、誰から殺されたい?」
今度は、別の革袋を開けた。その中には、十丁ほどのマスケット銃が入っている。その内の一つを手に取り、構えた。
彼の後ろで、森が戦慄いている。鋭い枝葉を揺らし、それを牙のようにカチカチとならして、突風を吐き出し始める。
全員が、凍りついた。彼が何を言っているのか、まったく理解できなかった。ジョージ・タウンゼントは、適当な野ウサギを一匹見つけたような顔で、一人の若者を覗き込んだ。彼は、ブランドンの隣にしゃがみ込んでいる。短い金髪を几帳面に整える、比較的華奢な青年だった。
「ドーン!」
ブランドンは目を広げた。目の前で、血液が綺麗な弧を描いて、宙を舞ってゆく……。ジョージのマスケット銃が煙を噴いていた。青年は額を打ち抜かれると、そのままかかしの下で、バタリッと倒れた。
「どういうつもりだ!」真っ先に叫んだのは、この隊の隊長でもあるジェラルドだった。凄い剣幕で、震えながら立ち上がっている。
「どうもこうも、今から君たちを殺すのだ。私の楽しみのためにね」
ジョージは、「当然だろう?」といった面持ちで、足下に散らばるマスケット銃を、屈んで拾おうとしている。
「裏切ったな!全員、構うな!撃て、撃て!」
ジェラルドの命令だった。二十名あまりの隊員達は、突然の状況に戸惑ったが、仲間が一人殺されたとあれば、黙っているわけにはいかない。全員、標準をジョージに合わせると、一斉にトリガーを引いた。しかし、銃声は一つも轟かない。ジョージは、のんびりとマスケット銃を拾い上げ、再び適当な青年に標準を合わせている。
「事前に細工をしてもらったが、気がつかなかったかね?火薬ではなく、匂いを付けた黒砂を配ったのだ。それでは、いくら足掻いても、銃弾は発射できないよ」
そう言って、赤々とした紫色の空に、再び煙が立ち昇った。銃声と共に、若者が一人、仰向けに倒れる……。
その頃、エリザベスも気が気ではなかった。
「大丈夫……。今までだって、逃げてきたんだから」窓の外を眺めながら、静かに、確信めいた声を漏らす。しかし、その声は不安でいっぱいだった。彼女は全て分かっていた。
窓ガラスに映る自分の顔が、ニックの顔と重なった。その顔が、みるみるうちに、真っ黒な毛に覆われ、青々とした瞳を輝かせる、狼の顔に変化した。
その手は、窓ガラスの方へ自然と伸びていった。そして、闇に染まるガラスが、まるであの時の夜へと繋がっているように溶け合い、現実と想像の世界を一つにした。彼女はガラスの中に手を伸ばし、一年前の夜風にその指を溶け込ませた。
焼き尽くすような荒々しい吐息、地獄の岩を転がすような唸り声。しかし、エリザベスは不思議と恐くなかった。目の前に、四メートルの巨体を持つ、二足歩行の野獣が立っているのに、その息は驚くほど静かだった。下女は腰を抜かして、彼女の後ろで倒れている。あまりにも恐ろしくて、身動き一つとれないらしい。
「あなたは……」
そう言ってエリザベスは、人形のように綺麗な手を、狼男の鼻に伸ばしている。
その、ガラス玉のように感情のない野獣の瞳に、一瞬、何かが灯った。
石畳の歩道で、野獣と美女が静かに見つめ合う。氷の彫刻のように透明な手が、狼男の鼻に触れると、野獣は少し唸って、鼻先を引いた。しかし、エリザベスは手をひかない。それに答えるように、灼熱の熱気を発する鼻孔が閉じ、その黒い鼻を、女神のような指先に触れさせた。
最初は、人間と動物の、いいようのない友情だったかも知れない。しかし、二人を惹きつけた原因が何か分かった時、互いの瞳の中で、静かな確信が宿った。
「まさか……」
エリザベスは、吸い込まれるように、狼男の瞳を覗き込んだ。その時だった……。
「エリザベス!」
その声は、ジェラルド・ヴァン・セルヴィックのものだった。
「お父様!」そう言って、彼女が後ろを振り返った瞬間。
ジェラルドの銃口から、弾丸が発射され、空気を貫き、闇夜を粉砕しながら直進し、エリザベスの顔、三十センチほど隣を横切ると、その鉛は見事、狼男の左肩に命中した。
エリザベスはびくんっとなった。それは、彼女を現実に引き戻す合図だった。窓の外は、いよいよ闇を深め、沼地に浮かぶ血液のように、僅かな赤を残すだけである。
セルヴィック家の屋敷の中は、避難する住民達で溢れかえっている。酷い雑踏と、興奮冷めやらぬ声。そして、彼女は、あるものがないことに気づいた。
それは足下に転がっている……。胸のストラップが切れていた。
ニックからもらった木彫のマリア像が、床に落ちている。その自分そっくりの顔が、エリザベスの眼差しを捉えた。それが異様に悲しそうに見え、エリザベスは無性に恐くなった。ニックが何か、言おうとしている……。そう思わざるを得なかった。
人々の雑踏が、彼女の不安を、黒い炎のように煽った。言いようのない焦燥感。波のように蠢く人海を押しのけ、エリザベスは必死に進んだ。
彼女は間もなく、屋敷のキッチンに辿り着いた。そして、調理場の奧に駆け込む。そこには、エリザベスが幼い頃、悪戯をして外出禁止になった時に、秘密の抜け穴として使った出口があった。四角形の石壁をどかすと、穴が現れ、そこから中庭に躍り出る。生け垣の彫刻や壁が、迷路のように並んでいる。息は荒い。庭師が使っていた梯子を登り、生け垣を乗り越える。スカートが枝に引っかからないよう、綺麗に畳んで、屋敷の外へ。
民家の角から、赤い光りがぼわっと広がる。猟銃を持った人影が、白壁のスクリーンに映し出された。スカートの裾を掴むと、エリザベスは警備に見つかる前に、必死で走った。
「ニック……」息は荒々しくて弱いが、その発音ははっきりとしていた。
「ズドーン!」
ジョージは、惜しげもなくトリガーを引いている。
弾丸は、平地に入り乱れるかかしの間を器用に擦り抜け、何百メートルも直進する。大気を切った跡が、かかしの藁を巻き上げさせる。必死で駆けてゆく青年の後頭部を、その弾丸があっけなく打ち抜いた。狼男ハンターは、マスケット銃の銃口を天に向けた。濁った血のように黒い髭を歪ませ、残酷な笑みを作る。
ジェラルドやブランドンを含め、「狼男討伐隊」のメンバーは、ほとんどが離散していた。ジョージの足下に落ちているマスケット銃は、十丁あるが、今し方、全ての発射を終えたばかりだった。つまり、少なくとも既に、十名の隊員が死んでいた。
「手間をかけさせるなよ」ジョージはマスケット銃を放った。
彼は、あの銃器を手にしている。それは、つい先ほど、エリザベスに披露した、特別な武器だった。大きな筒状の銃器で、砲口がなく、先端に鋼鉄の顎がついている。
「逃げても無駄だ!」ジョージは叫んだ。
(くそったれ!)
かかしの迷路を、ブランドンが全力で走っている。他の隊員も何人か一緒だった。既に、奴のマスケット銃で、半分の隊員が死んでいる。次は自分の番かも知れない。その巨体が、夕闇の風を切り、とにかく町へ逃げようと必死に走っていた。
そこから二百メートルほど離れた場所。森の入り口では、ジョージが謎の銃器のレバーを引いていた。鋼鉄の顎が、まるで砲弾のように発射される。顎はほぼ水平に開き、磨き抜かれた牙を無数に輝かせている。顎には、頑丈な鎖が付いており、銃器と繋がっていた。
ブランドンの隣で、一緒になって駆けている青年が二人いる。
その二人が一列に並んだ時、銀色の顎が、二人の体を貫通した。というより、バラバラに引き裂き、ぶちまけた。顎は、二人の胴体を真っ二つに切断し、幾片もの肉塊を、虚空にぶちまけた。滝のような血しぶきが飛散し、精肉店でしか見たことのないような赤い肉が、これでもかと言うほど、ブランドンの体に叩きつけられた。彼は、そこで泡を吹き、気絶した。
「逃げても無駄だ!」
ジョージは、機器を持ったまま、かかし畑の中に入ってゆく。長いレバーを引くと、鎖が回収され、銀色の顎があっという間に戻ってきた。
「お前達は、俺の偽装工作のために、死んでもらう」
そう言って、今度は銀色の顎を、足下に向けた。足下には、先ほどマスケット銃に撃たれた青年の亡骸が横たわっている。その頭に向けて、顎を発射した。
「さあ、次は誰が死ぬ?」血液が顔に飛び散ると、ジョージはにやりと笑いながら言った。
その頃。フィリップ神父は、祈祷の最中だったが、嫌な予感を振り払えずにいた。
(いったい、何なのだ。何かが、狂ってきている……)
その直感は、彼に神の英知を与えた。その眼差しがふと、目の前の祭壇に惹きつけられる。祭壇には、頑丈な鋼鉄の箱が置かれている。その蓋が、少しだけ宙に浮いていた。箱の隅に引っかかっているらしい。
「まさか!」フィリップは叫んだ。助祭達は、何ごとかと、顔を上げる。
箱を開くと、中に入っているはずの笛が紛失していた。赤い絹だけが、虚しく渦を巻いている。「ニック……。笛を、どうしたんだ」
その声をかける主は、既に狼男となり、理性を失っている。フィリップは、いくら自問自答しても、答えが出てこなかった。そして、よからぬ行動を、彼に取らせるに至った。
「神父様!」助祭達が叫んだ。
フィリップは、暑苦しい祭服を脱ぎ捨て、正門を開け、外へ飛び出していった。
闇が、大地を染め上げるように、その戸張を下ろしている。まるで、魔王のマントのように全てを覆い、何もかもを絞め殺すように、這い広がってゆく。その中に、血の臭いが漂っていた。噴き出したばかりの、生々しい悪臭だった。
「お前で、最後みたいだな……」
ジョージは、鮮血に塗れた鎖を、筒状の機器の中に、ずるずると回収していた。目の前には、無惨に引き裂かれた、青年の死体がある。その脇に、ジェラルドが尻餅をついて倒れ、蒼白な顔でジョージを見上げていた。
「お、お前は……、どうして。どうしてこんなことを!」
手を挙げて、狼男ハンターに指を差すも、小刻みに震えているため、何の迫力もない。
かかし畑には、無数の死骸が散らばっていた。どれも、バラバラに引き裂かれているか、頭をこなごなに噛み砕かれている。
銀色の顎に挟まった肉片を、ジョージは忌々しそうに引きはがすと、ジェラルドの足下に叩きつけた。
「狼男が、彼らを殺した。そう見せかけるためですな」ジョージは涼しい声で言った。
ジェラルドは、顔を真っ青にしている。しかし同時に、「なんてことをしてくれた!」という憤怒の念も感じられた。
「ば、馬鹿なことを!何故そんなことを!異常者め!第一、お前一人で、狼男が倒せると思っているのか!?」
ジョージは、ゆっくりしゃがみ込み、ジェラルドの小さな目を覗き込んだ。
「教えてやる」その声は残酷な響きを含んでいる。
「狼男というのは、人間を襲うことは滅多にない。奴らは酷く臆病で、おまけに、人間の味を嫌っている。どこかに、人間としての理性があるからかも知れない。とにかく、奴らは、家畜や獣しか襲わないのだ」
ジェラルドは目をパチクリさせている。
「しかし、他の町では人間を襲っていた!」
「……と、私が見せかけたのですな。今みたいに。そして、あなたが言ったように、私は異常者だ。殺人が―とりわけ人間狩りは、楽しい。獣を撃ち殺すより、遙かに刺激的だ」
ジョージの目に、感情はなかった。そして、道化師の仮面のように怪しげな笑顔を溢す。ジェラルドの体は、恐怖で震えていた。あの夜、狼男にエリザベスが襲われそうになった時より、怯えていた。獣以上に恐ろしい存在が、目の前に立っている……。
空に舞うカササギの群れが、まるで小さな悪魔達が舞い降りるように、次々と滑空し、かかし畑で倒れる死骸に、飛びついていった。
ジョージは、ゆっくりと銀色の顎を持ち上げた。いよいよ夜が迫り、深い群青色の空に、うっすらと狼男ハンターのシルエットが浮かび上がった。ジェラルドはそれを見上げながら、生前、最後の息を飲んだ。
ジョージのシルエットの中、その目だけが、嫌らしく微笑みをつくって浮かびあがると、怪しく煌めいた。
「ドン!」
エリザベスが、かかし畑に入った時、遠くの方で、不吉な音が轟いた。
「ニック!」
彼女は、ニックが撃たれたのではないかと、酷く心配していた。町の人々が噂していた通り、森の入り口には、二百体近くのかかしが立ち並び、獣たちの臓物を浴びて、ふつふつと嫌な匂いを発していた。砂鉄を撒いたように重苦しい闇を掻き分け、エリザベスは必死に駆けていった。そして、とりわけ悪臭が酷くなった辺りに、ジョージ・タウンゼントの姿を見つけた。
「ミスター・タウンゼント!」
しかし、エリザベスは直ぐに、自分の口を押さえつけた。自分で自分を窒息死させてしまうんじゃないかと思うほど、強く口を押さえつけなければ耐えられないような惨状が、目の前に広がっていた。
銀色の顎が、鈍い光を放って、肉塊から引き上げられた。鎖がずるずると回収され、筒状の銃器におさまる。それを握っているのは、あのジョージ・タウンゼントだった。そして、彼の足下には……。
「お父様!」
エリザベスは、父の亡骸に歩み寄ることさえできなかった。その肉片が、辛うじて父だと分かったのは、かかしの下で転がっている、ジェラルドの頭部のお陰だった。
エリザベスは、膝を折って、泣き崩れた。あまりにも壮絶で、あまりにも悲惨な光景だった。よくみると、鬱蒼とした闇の中、無数の死体が飛散しているのが分かった。カササギが、悪霊のように、肉片をついばんでいる。
「おやおや、なんと!」
ジョージ・タウンゼントは、狂気に近い喜び声を発した。
「いや、今日は素晴らしい。神も、私を祝福しているらしい!」ジョージはそう言って、巨大な銃器を地面に放った。服は血だらけで、「ハレルヤ」と言いたげに、両手を左右に広げている。エリザベスは、あまりに興奮しすぎて、うまく呼吸ができないようだった。その猫のように大きな目が、恐怖に染まっている。ようやく唾を飲み込むと、上目にジョージを覗き込んだ。明らかに、この男が、みんなを殺したのだ。彼は、狼男ハンターなんかじゃない。とんだ、殺人鬼だったのだ。
エリザベスは、ゆっくりと立ち上がった。
「近寄らないで……」そう言うだけで精一杯だった。
「先ほど君に、私の指のコレクションをお見せしたね?是非、君にも加わって欲しい。君の指は、本当に美しいから」
ジョージは、口髭を撫でながら、お気に入りの品物を吟味するように言った。
「来ないで!」エリザベスは、近くに落ちているマスケット銃を掴み取った。その銃口を、自分の顎に突きつけ、トリガーに指をかけた。
「いやー、素晴らしい。この町に来た時から、君には目を付けていた。満月の夜が待ち遠しかったよ。君を殺せると思うと、興奮して、なかなか寝付けなかった」
ジョージの手が、ダンスにでも誘うように、優雅に延びた。エリザベスは、目を瞑ると、トリガーを思いっきり引いた。「カチッ」
「……残念ながら、彼らの銃には、火薬が入っていない。君の美しい顔を、そんな野蛮な武器で吹き飛ばすなんて、もったいない」
ジョージは、怯えて言葉も出ないエリザベスの手を掴むと、その甲に軽くキスをした。
「ごらんの通り、私は殺人狂だ。人間を撃つのが何よりも好きでね。しかし、それはあくまで私のほんの一部分に過ぎない。私の真の快楽は、まったく別の部分にある」
エリザベスは、ジョージが何を言っているのか、さっぱり分からなかった。汚らわしそうに、ジョージから手を離すと、エリザベスは問い返した。
「な、何を言っているの……?」
「私は、人間を銃で殺すことに楽しみを感じているが、それ以上のエクスタシーを知っている。私の中にある本能が、それを欲しているのだよ。欲しくて欲しくてたまらないのだ。それは、女性だよ。ミス・セルヴィック。女性を、食べ尽くしたい。原型が分からなくなるまでね。その本能は、例え私が理性をなくしたとしても、深く作用しているようだ。どんな危険を冒しても、私はそれを欲しているのだ」
エリザベスは、後ずさりしたが、誰かの死骸にぶつかって、地面に尻餅をついた。しかし、立ち上がるだけの勇気が、もう残っていない。じわじわと迫ってくるジョージを見上げながら、ドレスを血まみれにして、必死に後退をはかる。
「見てみろ。今宵の満月も美しい……。あれが私の血を駆り立てる。どこまでも、どこまでも、限りなく……」
ジョージは天を仰いだ。青い月が浮かんでいる。
すると、彼の着ている狩猟服が、激しい音を立てて、びりびりと破け始めた。筋肉が膨らんでいる。そして、ボンッと膨れあがる。上半身の衣服が弾け飛んだ。月明かりを背に、ジョージの体が、大樹の根元のように肥大化していった。まるで木の下にいるように、エリザベスは大きな影に飲み込まれてゆく。そして、岩山のように巨大化した体の表面を、黒い体毛が、波のように広がってゆき、四肢を覆い尽くした。
「きゃー!」
エリザベスは叫ぶと同時に、急いで腰を上げ、かかし畑を走り始めた。その背中を追うように、狼の遠吠えが響き渡る。
それだけ見れば、かかし畑の真ん中に、黒い蔦に覆われた土壁が、聳えているように見えた。
それだけの巨体が、どしどしと大地を揺らし、小さな乙女を追いかけてゆく。
「グルアアアアアアアアアアアアアアアー!」
その声が、大気を揺らし、エリザベスの背中を刃物のように突き刺した。そして、その恐怖は、彼女の体を一瞬にして凍らせた。血の気が引いて、まるで体が死体のように冷たくなる。息もできない。こんなに走っているのに、走れば走るほど、死んでゆくように感じられた。
「ニック!」
エリザベスは、咄嗟に彼の名前を叫んだ。
死に際に、彼の名前が自然と口から溢れたのだ。そして、一年前の夜が、走馬燈のように、頭の中をよぎった。エリザベスと狼男、二人は石畳に立ちつくしたまま、互いを見つめ合っていた。ニック、助けて……。
そう思った時だった……。
エリザベスは、躓いて倒れ込んだ。十メートル後ろには、狼男が迫っている。
血と泥で汚れた顔が、ふと、地面を捉えた。エリザベスの中で、あの狼男の顔がみるみる溶けてゆき、いつもの優しいニックの顔に戻った。彼は微笑み、自分の手を握ってくれている。その目はどこか悲しげだった。そして、手を離すと、そこには革袋が握られていた。
目の前には、革袋が落ちている。
袋の止め口から、銀色の光りが漏れ出している。儚げで怪しい、心を締めつけるように美しい、見事な彫刻が施されていた。
「ガルルルルル!」
狼男が迫っている。エリザベスは、袋の中から、銀色の笛を取り出すと、振り返って、口をつけた。必死に、自分の知っているメロディーを奏でる。
(なんだ、このメロディーは……?)
ブランドンは不思議に思った。遠くから壮絶な獣の叫び声が聞こえてくる。あれだけ煩いのに、なぜかこの儚げな音色に、まざまざと心が惹かれ、意識を取り戻したのだ。その音色が、彼の虚ろな意識を、みるみるうちに覚醒させてゆくようだった。
エリザベスから百メートルほど離れた場所。バラバラに引き裂かれた亡骸の下から、熊のように体格のいい男が、這い出してきた。体中、血にまみれ、おぞましい光景だったが、彼の瞳は鋭く、はっきりとしていた。
そして、そのメロディーがどこから聞こえてくるのか、不思議でたまらなかった。そして、首を振って、栗色の髪から鮮血を飛ばした。
「まさか!」
彼の眼は、かかし畑から抜きんでて聳える、巨大な体毛を捉えた。あれは間違いなく、狼男だった。そして、ジョージ・タウンゼントが裏切ったことや、猟銃の火薬が偽物だったことなど、先ほどまでの記憶がありありと蘇って、青年の憤怒を煽った。と、同時に、狼男を目の前にして、心底怯えていた。しかし、彼は本物の狩人の素質を発揮した。勝機を探り、ベストを尽くしたのだ。
彼は走った。森の入り口まで辿り着くと、革袋を捉えた。それは、ジョージが使っていた、大量のマスケット銃だった。遠くで、狼男の叫び声が聞こえる。不思議と、苦しんでいるような声だったが、何分、そこから動かず、大地を激しく叩いているだけなので、此方が襲われる心配はなさそうだった。青年は、革袋の中から、火薬の袋と弾丸、それに槊杖を見つけ出し、手頃なマスケット銃に装填を開始した。その間も、狼男が此方を襲ってこないか、逐一、確かめなければならない。日頃の訓練がものを言い、装填はあっという間に完了した。
ブランドンは呼吸を整えた。標準を狼男に合わせる。
あとは、トリガーを引けばいいだけだ。しかし、そこで重大な発見をする。狼男の前に、なんとあのエリザベスが立っていたのだ。
ブランドンは驚愕し、マスケット銃を下ろした。
「エリザベス……」
銀色の笛を吹きながら、エリザベスはゆっくりと立ち上がり、苦しみもがく狼男に近づいていった。恐ろしいわめき声、強ばる巨大な筋肉。
とうとう、彼女の足下に、狼男が跪いた。
どれだけ苦しいのか、エリザベスにもそれが、手に取るように分かった。頭を抱えるばかりで、狼男は地団駄を踏むことも、地面を叩くこともできない。まさに、死にかけの虫みたいに硬直し、身動きが取れないようだった。
「エリ…ザベス……」
ニックは、牢獄の鉄格子を掴みながら、喘ぐように言った。
(何が起きたんだ?僕は、ここにいるのに。何が……)
不思議と、あの儚げなメロディーが、ニックのもとにまで届いていた。鎖に繋がれた狼男は、息も絶え絶えにもがき苦しんでいたが、その目だけは、まるで人間のように、一縷の弱々しい感情を宿していた。
冷たくて静かな地下室に、猿轡で抑えられた、獣の唸り声が響く……。
その頃、スータンを闇夜に溶け込ませながら、全速力で走る男がいた。
フィリップ神父は、目をガラス玉のように光らせ、満月の下、静まりかえった農村をひた走っている。やがて、森の入り口が見えてきた。近づいた瞬間、あまりに酷い血の匂いに、思わず鼻を手で抑えた。「一体、何が……」
血の臭いは、一日前、かかし達に浴びせかけた家畜の臓物とはまったく違う悪臭を放っていた。闇の中、濃厚な鉄の匂いが稜々と漂っている……。
そして、儚げな笛の音色。雷のように響く、この世のものとは思えない叫び声。
エリザベスは硬直した。
フィリップ神父が、かかしの間から、突然現れたからだ。
「神父様……」その花の蕾のように美しい唇から、笛が離れた。その場が一瞬、凍りついた。時も止まり、音も止んだ。
はたと見つめ合うエリザベスとフィリップの前には、狼男が蹲っている。しかし、針のような剛毛犇めく巨体が、まるで灰でも振りまいたように、真っ白に染まっていた。狼の顔も、大理石のように真っ白で、荒々しい罅が、歪に走っていた。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオー!」
雪の降り積もった巨木みたいな体が、二人を見下ろしている。笛の音が止み、ようやく立ち上がれたが、その体は今にも崩れそうなぐらい、ぼろぼろだった。まるで、竈の中で一晩中、焼かれ続けたような、おぞましい姿だった。
「エリザベス!」
フィリップは、エリザベスを助けようと、彼女の体を抱きしめ、狼男に背を向けた。
その時、トリガーが引かれた。銃声が、闇夜に響く。
銃弾は、かかし畑を走り抜け、空気を震わせながら、一直線に飛んでいった。
二人の目の前で、狼男の額から、弾丸が飛び出した。その頭部が、床に落としたグラスのように崩壊し、その余波は、四メートルもの巨体へと広がっていった。そして、火事で燃えた柱のように、ぼろぼろに砕けて、飛散した。蛍のように美しい火の粉が、ちらちらと灰の中を漂ってゆく。
ブランドンは、震えながらマスケット銃を下ろした。煙が、彼の体を幽霊のように包み込む。
「神よ……」ブランドンが呟いた。
狼男は死んだ。ジョージ・タウンゼントは、無数の灰となって、消滅した。
まるで灰が、雪のように、エリザベスとフィリップ神父の真上に降り注いでいる。二人は、抱き合いながら、呆然と立ちつくしていた。
「神父様。彼は、この狼男は……」
「ニックではない。彼は地下牢の中だ」
「……神父様。安心して下さい。私、知っていました」
フィリップが、更に顔を青めたので、エリザベスが気を遣い、急いで答えた。
そこに、ブランドンが走り寄ってくる。
「神父様!エリザベス!」
フィリップの視線は、エリザベスが握りしめる銀色の笛「聖マシューの笛」を、はたと捉えた。そして、彼女の肩を、強く握りしめる。
「どれぐらい、どれぐらい笛を吹いていたのかね?」
「私……、恐くて覚えていません。多分、五分ぐらい」
ブランドンが二人に駆け寄った直後、フィリップは青ざめた顔で走り出した。
エリザベスは恐くなった。フィリップの顔は、自分が死ぬと分かった時よりも、更に怯えた様子だったからだ。エリザベスは、興奮しながら駆けてくるブランドンに、「町のみんなに伝えて。狼男は倒したって。それに、ミスター・タウンゼントが、犯人だったことも。私は、神父様を見てくるわ」
「おい!」ブランドンは、走り去るエリザベスの背中に手をかざし、呆然と見つめた。
エリザベスは駆けた。フィリップのスータン服が、闇に溶けたので、ほとんど見失ってしまった。が、彼が戻る場所がどこか分かっていた。
教会の正門を開き、エリザベスは驚いた顔の助祭達を見つける。そして、フィリップ神父が、地下の礼拝堂へ行ったことを聞かされた。地下の礼拝堂は狭く、質素で、別段変わった様子はなかった。しかし、幽かな風が、彼女のドレスを揺らした。それは、鋼鉄のドアの隙間から流れ出している……。
その下には、カタコンベがあった。
エリザベスは、髑髏の回廊をひた走り、更に階段を下っていった。
そして、石畳の広場に躍り出た。その中央では、フィリップ神父と、目を見張るほど大きな野獣が横たわっていた。
無造作に散らばった鎖や猿轡、空っぽになった牢獄を見た瞬間、エリザベスはここがどういう場所か、直ぐに理解した。そして、狼男とフィリップに近づく。
フィリップは今にも泣き出しそうな顔で、エリザベスを見上げた。彼は、狼男の顔を、愛おしげに撫でていた。
狼男は衰弱していた。灰のように真っ白だった。
「もう駄目だ。助からない……」フィリップは、震える声で、押し殺すように静かな声で言った。
「ニック!」エリザベスはしゃがみ込み、狼男の顔に手を添えた。白百合のように美しい手が、その頬を優しく撫でる。
「……エリザ、ベス……。よかった。生きて、いた……」
狼男が、微かに口を動かした、次の瞬間。その巨体が崩れ去った。体中に罅が走り、ほのかに温かい灰が、胞子のように石畳の上を這って、飛散してゆく。
フィリップ神父の腕の中で、僅かに残っていた灰が、どこか人の姿を宿したまま、残った。それは若い青年のように見えた。その目と、エリザベス目が、熱く惹かれ合った。エリザベスの青い瞳から、大粒の涙が流れ落ちる。白い頬を伝うと、その一滴が、人型の灰の上に落ちた。灰の中に穴が開き、そこから赤い火の粉が、沸き水のように溢れ出した。少しも熱くない。
エリザベスは、灰の頬に手を置き、ゆっくりとその唇にキスをした。灰も、ぼろぼろと崩れる腕を伸ばし、彼女の美しい髪を撫でた、そう思った瞬間……。全てが崩れ去った。
フィリップ神父の腕の中で、人型の灰が飛散した。火の粉の一つ一つが、まるで蝶のような形に変わり、二人の間を美しく舞った。それは、この世のものを超越した、素晴らしい光景だった。
天窓から、清水を織ったように美しい月光が、降り注いでいる。蝶達は、その月明かりを求めるように、スポットライトの中に集まりながら飛翔し、やがて溶けるようになくなった。
まるで月光が、あの儚い笛の音色のように聞こえた。その音色に誘われるように、蝶達は美しく舞い、姿を消していった。
それからというもの、笛の音が、満月の夜になると、どこからともなく聞こえてくる。人々はその音色に魅了され、誰が吹いているのだろうと、思いを馳せた。笛の音は、セルヴィック家の屋敷から聞こえてくる。まるで、夜の闇に問いかけるように……。
心奪われるほど美しい。
しかし誰も、その音色の本当の意味を知らない。ただ美しいとしか思わなかった。
神父は、ブランディッシュの町で亡くなるまで、満月の夜になると、必ずその音色を聞きに行った。そして、エリザベス・メアリー・ブランディッシュが亡くなるまで、その音色は、満月の夜に必ず流れ、町を優しく包み込んだ。
書き終えて、感動的な話だなあ、と我ながら思いました。主観かもしれないけれど……。