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花鋏 1

 雛が生まれるのは百年に一度。


 生まれた時から御饌として、魂を捧げられることが決まっているから、固有の名は付けられない。

 いつの時代も雛と呼ばれるだけだという。


「さすがに今の時代は、雛を家で隠して育てることもできませんから。涼香が生まれた時、この子をどうするか親族会議がもたれました。私はまだ幼かったけれど、大人たちが怒鳴るように話していたのは覚えています」


 結局、ちゃんと名前を付けて、学校へも通わせることとなったらしい。


「これまでの雛のように、離れに閉じ込めて、食事と身の回りの世話を雛男衆に任せればいいという案も出ていたようですけれど。庭木を剪定しに植木職人も定期的に入りますし、男衆も当時はまだ中学生になったばかりでしたから。雛の存在を秘密にできるかどうか怪しいとのことでした」


「そうですね、信用されなくてもしょうがない。人道にもとる扱いをされる子どもがいるなら、俺が自分から言いふらさないまでも情報をもらしてしまう可能性はある」


 霜は、冷茶を一気に飲み干した。

 渋みのない、まろかやな甘さ。けれどおいしいと感じる余裕はなかった。


「話を戻しましょう。先代の雛と男衆は」


「彼は『そうう』という名でした」


「どういう字を書きますの?」


 紫檀の机の上で、霜は指を動かす。

 相に雨。その二文字を見た志津香が、小さく息をつく。


「霜さんの名は、ご両親がつけられましたの?」


「両親というか、その時は存命だった曽祖父の弟にあたる人が。どうしても、その名をと」


「先代の男衆のご兄弟でいらっしゃるのね」


 たしかにそういう関係になる。霜はうなずいた。


「涼香が家から自由に出かけ、学校に通い、雛男衆以外に交友関係を持つ。それは異例のことなのです。皆、口には出しませんけれど、びくびくしておりますわ。いつか涼香がこの家に戻ってこなくなるかもしれないと。母は涼香のことを案じすぎて、いつか気にかけることに疲れてしまったみたいです」


「先代達はどうなったのでしょう」


 ずっと誰かに尋ねたいことだった。

 務めを放棄した二人は、幸せを掴んだのだろうか。


「当然、追手がかかりました。嵐の夜だったそうです。経緯は存じ上げませんけれど」


「まさか逃げきれなかったと?」


 霜が身を乗りだすと、志津香はくすっと笑う。


「その後は記録に残っていませんから。ですが、まるで逃げ延びてほしいような言い方ですわね。北門家では相雨さん……とおっしゃいましたかしら、先代の男衆の話は禁忌だとうかがいましたけど」


「そりゃあ禁忌ですよ。名前すら教えてもらっていませんでしたから」


 それでもどの雛男衆も、心から切望したことだろう。

 手ずから育て、慈しんだ雛を人身御供になどしたくないと。


 同じ男衆だから分かる、いやそれ以外の者に分かるはずなどない。


 とくに雛に外出の自由が認められていない時代は、なおさらだろう。

 雛の目に映るのは雛男衆だけなのだ。


 自分だけを見て、自分だけを慕い、すべてを任せる美しい少女。

 四六時中、雛と一緒にいて心が揺らがない者がいるはずがない。


 奉饌の儀に臨む雛に、着物を着つけるのが雛男衆の最後の仕事だ。


 きっと誰もが心の中では泣き叫んでいただろう。

 このまま雛を抱き上げ、逃げだしたいと切望したはずだ。


 けれど断腸の思いで、彼らは雛を神使の元へ送りだした。


「二百年以上前のことは、俺も分かりませんが、もしかすると奉饌の儀が終わった雛が島に送られるのに、つき従った男衆もいるかもしれません。その瞳に何も映していなくとも、心を通わすことができなくとも、せめて誰よりも雛の傍にいたいと」


 かつん、と音がした。


 見れば、志津香の爪がガラスの茶器に当たっていた。

 ガラスについた水滴が、志津香の指を濡らしている。


「まさか霜さんも、なれの果ての島に渡りたいとお考えなの?」


「決定ではありませんが」


 そう答えつつも、すでに心は決まっているなと自覚した。


 雛がいなくなれば、雛男衆はその任を解かれる。

 何をしようがどこへ行こうが自由だ。


 そして役目を終えた雛を、島に留めおく強制力はもうない。


 涼香がいなくなった光崎家に、霜が足を運ぶことはないだろう。

 けれど前を通りかかれば、あの竹林の奥に、庭の橘の木の前に立つ涼香を思い出さずにはいられない。


 大学の自室で、だらけた様子でソファーにもたれる涼香の幻を見てしまうかもしれない。

 用事で高等部へ行けば、つい教室や廊下で彼女の姿を捜してしまうだろう。


 用済みとなった彼女が、そこにいるはずがないのに。


「いけません。いけませんわ」


 志津香は激しく首を振った。


「これからの霜さんは、あの子から解放されるのですから。好きなように生きていいんですのよ。あの子に遠慮することなどないのです」


「今も束縛されているなんて、思ってはいませんよ」


「でも、九月になれば」


 言いかけて、志津香は言葉をとぎれさせた。


 そういえば、彼女の母親も九月がどうとか言っていなかったか。

 それに縁談があると涼香も話していた。


「九月になれば、志津香さんも今より楽になりますね」


「え、ええ」


「縁談があるとのこと。すでにお見合いでもなさったのですか? 志津香さんとの婚姻を望む男は多いと思います」


「……霜さんは?」


「涼香と出会ってなければ、志津香さんの見合い写真がうちに来たらラッキーと思いますよ。遠い場所からになるかもしれませんが、幸せを祈っていますよ」


 笑顔を浮かべてみせたのに、志津香は今にも泣きそうに顔を歪めていた。


「どうしたんですか。まさか足が痺れて、ってことはないですよね。涼香じゃないんだから」


「あなたは、いつも涼香が基準ですのね」


「そうかもしれませんね」


 お茶のお代りでも、と言った志津香は、急に小さな悲鳴を上げた。


「大丈夫ですか?」


「え、ええ。床の間に鉄線てっせんを活けた時に、花鋏を机の下に置いていたのを失念していましたわ」


 左の人差し指に、わずかな傷がついている。

 霜は袂から絆創膏の箱を取り出した。


「一枚で足りるかな。どうぞ」


 絆創膏を差しだしたのに、志津香は受け取ろうとしない。


「消毒薬もお貸ししましょうか。しみるのは涼香が苦手なので、子ども向けのしみないのがありますよ」


「貼ってくださいませんの?」


 思いがけない問いかけに、霜は瞬きを繰り返した。

 しばし考えて、ようやくそれが絆創膏を貼ってくれないのかという意味だと気づいた。


 主語も目的語も省略されると、本当に困る。


「怪我したのは右ではないですから、ご自分でできると思いますよ」


「でも……涼香には」


 まだ何か言いかけて、結局志津香は言葉を呑み込んだ。


「ごちそうさまでした。そろそろ大学へ向かいます」


 鈍感でひどい奴だと志津香は思ったに違いない。

 けれど、そう振る舞うことしかできない。


 彼女に対して好きという感情がないのに、優しさをふりまくわけにはいかない。

 九月に縁談があると分かればなおさらだ。


 確信はないけれど、おそらく志津香と自分の結婚話が持ち上がっているのだろう。

 でなければ、志津香の母親がわざわざそのことを伝えに来る理由がない。


 縁談は進めない、絶対に。

 もし仮に、万が一にも結婚したとして。

 いつまでも妹のことを想い続ける夫のことを、いつしか志津香は恨むことになるだろう。


「涼香は悪い子ですわ」


 なんでそういう結論に走るのだ。

 客間を出ていこうとした霜は、眉根を寄せてふり向いた。


「毎日、霜さんに甘えて。同じ女として、図々しくて見ていられません」


「志津香さん?」


「十六年間も霜さんを独占しておいて、儀式が終わっても霜さんを手放したくないと、ねだられたのでしょう?」


「まさか」


 奉饌の儀の後のことなど、涼香と話し合ったことはない。

 もし島に付き添うと言ったりしたら、断られる可能性があるからだ。


 志津香は立ち上がって、床の間に活けてある花へと向かった。


 季節の花は紫色の鉄線だ。花器の後ろに手をやると、そこから花鋏を取りだした。

 花鋏は、机の下にあったはずなのに。


 まるで酒を飲んだかのように、ふらりとよろめきながら志津香は廊下へと向かった。



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