彼の名前 2
離れには部屋が二つある。
どちらも和室だが、勉強用の机がある部屋と、畳の上にベッドが置いてある部屋だ。
大きな窓からは竹林が見え、すっと伸びた竹と竹の間から紺碧の海が覗いている。
涼香の母親に頼んで、部屋に乾いたタオルとドライヤー、体を温める飲み物を用意してもらう。
同じ屋敷にいるはずなのに、霜は涼香の両親と会うことは滅多にない。
なのに今日は、盆を手にしたまま母親は部屋の前に立っている。
「あの、霜さん」
「大丈夫です、きっと涼香は元気になりますから」
「え、ええ、この子のことはお任せしていますから」
志津香に似た面立ちの母親は白い割烹着を着て、ベッドに腰を下ろした涼香をちらっと見た。
歯切れの悪い口調に、何か用があるのかと霜は尋ねる。
「いえ、九月に入ってからでいいんですけれど。お話ししたいことが」
「九月? 涼香が眠ったら、お伺いしますが」
「今でなくていいんですの。急ぐわけではありませんから」
だったら思わせぶりに言いかけてやめなくても、いいのに。
母親が立ち去ってから霜は、涼香の濡れた着物を脱がせて、体と髪をタオルで拭いた。
露わになった肩は薄く、少し力を入れたら折れてしまいそうだ。
すぐに寝間着代わりの浴衣をはおらせて、帯を締める。
「母さんは、縁談を進めようとしているのよ」
強風にしたドライヤーの音に、涼香の声は負けてしまう。
「何を進めるって?」
まずは髪を乾かすのが先とばかりに、ドライヤーを止めることなく、霜は声を張り上げる。
「姉さんの縁談」
「へぇ、志津香さんは結婚するのか。恋人がいる風でもないし、見合いか?」
「そうかもね」
水分の残る髪を、涼香はタオルで拭いていく。
うなじが病的なほどに白くて、すぐにでも横にさせてやりたいが、今のままでは枕や布団も濡れてしまう。
「もう、いいわ。寝るから」
「だが……」
「疲れちゃったみたい」
こてんと涼香はベッドに横たわる。
頭の下には湿ったタオル。こんなものを敷いていたら、風邪をひいてしまう。
それに用意された飲み物も口をつけていないじゃないか。
ベッドの脇の小ぶりのローテーブルに置かれていたのは、湯気の立つ飲み物だ。
しょうが湯に蜂蜜を加えたものだろう。
禊で体が冷えた日には、いつも用意してある。
「こら、涼香。眠る前にちゃんと温まってからにするんだ」
「うーん、平気」
「平気なわけないだろ。まだ唇の色が戻っていないぞ」
「分かった、飲むから」
弱々しく伸ばしてきた手を見て、霜はぎょっとした。
手首には紫色に鬱血した痕があったからだ。
カップを手にしようとして、力が入らぬのか、するりと涼香の指が滑る。
涼香を見ていると、胸が詰まりそうになる。
清らかでなければならず、恋することも禁じられて。
どんなに近くにいて守り続けたとしても、最後は手を離さなければならない。
(いやだ……)
頭の中で反響する自分の声は、霜自身が驚くほど、どろりと淀んでいた。
「ごめんなさい、霜。カップを持たせてくれる?」
「ああ」
頼まれるままにカップを持ち上げるが、涼香には渡さない。
霜はそのまま甘くピリッと刺激のあるしょうが湯を口に含んだ。
そして上体を前に傾ける。
ひんやりとした涼香の唇に自分の唇を重ね、暖かな飲み物を移してやる。
さっきまで瞼を閉じていた涼香が、大きく目を見開いた。
黒く濡れた彼女の瞳に、頼りなさげな顔をした自分が映っている。
どうして、と涼香の唇が動いた気がしたが、再び同じようにしょうが湯を飲ませた。
竹の葉擦れの音が、やけに大きく聞こえる。
「がんばって、もう少し飲むんだ」
それだけ言うのがやっとだった。
霜は廊下へ出ると、後ろ手に襖を閉めた。
そのまま壁にもたれて、力なく座り込む。
両手で顔を覆うと、声を殺して泣いた。
母屋に戻ると、廊下で志津香と出会った。
「あら、もうお帰りですか?」
「はい、涼香も落ち着いたようなので」
そういえば橘を摘んでおいてほしいと頼まれたが、今日はそんな気分になれない。
「夏場でよかったですわ。神使の大祓は苛烈ですから、冬場なら凍死しかねません」
「もし真冬に涼香が肉食していたら、やはり同じことをしたのですか」
「そうですわね。涼香にはかわいそうですけれど、やむをえませんね。雛は自分が食物であることを一時も忘れてはなりませんもの。なのについうっかりなんてことがあったら、私たちが思い出させてあげなくてはならないんです」
柔らかな口調だが、決して妥協はしないという強い意志が伝わってくる。
なんなんだ、この違和感は。
「妹を守るよりも、巫としての職務に忠実なんですね」
霜は、ため息交じりに呟いた。
「先代の雛の不祥事のせいで、私は巫の他に雛の見張りもしなければならないんです。これ以外の生き方を知りませんし、また自由に生きることなど認めてもらえませんもの」
「志津香さんは、先代のことをご存じなんですか」
志津香が、まじまじと霜を見つめる。
涼香よりも目線が高いのだと、初めて気づいた。
「お茶でもいかが? 霜さんも徹夜なさっていたから、お疲れでしょう? まだ仕事には早いでしょうし」
促されて、霜は客間へと向かった。
ガラスの茶器に、水出しの緑茶が入っている。
涼しげな緑の色は竹林を染める朝霧を思わせた。
菓子は琥珀色の寒天だ。形は羊羹だが、研ぎ澄まされたような断面は硬質な宝石のようだ。
本音を言えば、家に戻って朝飯を食いたいところだ。
ふんわりしただし巻き卵とか、ふるふるのだし巻き卵とか、湯気の立つだし巻き卵とか。
(う、いかん。本格的に腹が減ってきた)
涼香の無事が分かるまでは、空腹など感じもしなかったのに。
しかし上品な菓子と茶を前に、ぎゅるぎゅると腹の虫を騒がせるわけにはいかない。
「どうぞ、遠慮なさらずに」
「は、はい。いただきます」
向かい合っているのが涼香であれば、たとえ口の中を怪我するような料理であっても、朝飯を用意してくれるだろう。
上品で、いつでも折り目正しい志津香は、自分の家とは思えぬほどに行儀よく、背筋を伸ばして正座している。
涼香の男衆となって十六年。
志津香とも知り合って同じ年月を重ねている。
なのに二人きりで向き合っていると、息が詰まってしょうがない。
「先代のことをお尋ねでしたね」
うなずく霜に、志津香は話しはじめた。




