彼の名前 1
濃藍色の東の空に、薄紅の光が混じる。
一匹の蝉が鳴き始めるのを合図に、あちらこちらで合唱が起こる。
霜は、朝露で湿った髪をかきあげた。
濡れ縁に座る霜のそばに置かれた蚊取り線香は、最後まで燃え尽きてしまっている。
「涼香」
まだ涼香は解放されない。
どれほど社に飛び込んで、あの子を救いたかったか。
けれど余計なことをすれば、神使の怒りはすべて涼香へと向けられる。
何もしないですごすごと逃げるのが、最善の策だなんて。
「ちくしょう……情けない」
いや、慣れなければならないのだ。
霜は膝の上で拳を握りしめた。
神使は雛の魂を御饌として食らう。残った体はただの抜け殻だ。
その後は生きながら死す者として、島の一つに送られるのだ。
神使に食われた雛が、その後どんな人生を送るのか記録は残っていない。
海民の信仰や雛の送られた島を調査しても、手掛かりはなかった。
そもそも雛の出現が、百年に一度だ。
そして用済みとなった雛のことなど、身内でさえも忘れてしまいたいのだろう。
(雛を大事に育てた男衆達は、諦めることができたのだろうか)
赤ん坊の頃から世話をしてきた雛は、妹のような娘のような恋人のようなかけがえのない存在だ。
それは他の雛男衆とて同じはず。
いつも隣に涼香がいた。
幼い時は背伸びをしてだっこをねだり、少女になった頃にはさすがにそんなことを要求しなくなったから。
よろけたとか、ころぶとか、適当な理由をでっち上げては細い体を担ぎ上げた。
荷物のように。
そう、これはただの荷物だと己に言い聞かせなければ、艶やかな涼香の前髪をそっとかき分けて、白い額に口づけしそうになるから。
「奉饌の儀を終えたら、俺も島に渡ろうか」
人としての感情を失った雛のなれの果てが捨てられる島への定期船はない。
小型船舶免許でもとって、ボートを買うか。いっそ手漕ぎ舟で通勤するか。
――先代のようには決してなるな。
突然、頭の中に祖父の声が響いた。
家系から消えた先代の雛男衆。
名前すら知らないその人は、毛筆の二重線で消されていた。
隣に並ぶのは曽祖父と、彼の弟の名。
その間の名前に荒い二本の線が書かれている。線の下にあった字は。
「確か、相雨」
そうだ、相雨だ。
神使に捧げるはずの雛を我が物とし、北門家から絶縁された。
「雛は百年に一人。だとしたら、神使はもう二百年も雛を食べていないのか」
清らかな雛の魂は、極上の甘味。
そして海民のために地上にとどまり続ける神使にとっては、欠くことのできない食料となる。
常世に戻らぬ神使は、力の消耗も激しいはずだ。
「だから、ずっと少年の姿のままなのか?」
海民は、瀬戸内海の水軍でもある。
かつては勢いがあり、ヤマトの国家成立にも関与したという水軍も、いまはもう存在しない。
なのにその守り神だけは、いつまでも地上に留めおかれる。
信仰の名のもとに。
「……このシステムは、根本から間違っているんじゃないのか。誰かが終止符を打たねば、これからも哀れな雛が生まれ続けるだけなのではないか」
たった十七年で廃人となることが、生まれた時に決まっているなんて。
「誰も終わらせることなんて、できませんわ」
声をかけられて顔を上げると、庭の飛び石を歩く志津香と目が合った。
今朝は巫の装束ではなく、落ち着いた灰色がかった薄紅の着物を着ている。
手には竹の葉を抱えていた。
「そんなにたくさんの竹の葉を、どうするんですか」
「竹葉酒をつくりますの。普段から神使が飲んでおられるんです。胃もたれが少しは治るんですって。ふふ、人間みたいな方ですのよ。お会いになりまして?」
「はい。あの、神使には名前があるんですね」
「ええ、日輪の神使と」
「いえ、そうではなくて。涼香は彼のことを時久と呼んでいました」
時久? そう呟いて、志津香は眉を寄せた。
「聞いたことがありませんわ。困りましたわ、あの子ったら神使に勝手に名前なんてつけたのかしら。なんて畏れ多いこと。無礼だと逆鱗に触れなければいいのですけど」
そんな感じではなかったが。
霜は顎に手を当てて考え込んだ。
神使は、時久と呼ばれるのが当たり前のようでもあった。
神使の世話をし、日々社を清浄に保ち続ける巫の方が、神使と接する機会は多い。
その志津香が、名を知らぬとはどういうことだ?
立ち去る志津香と入れ替わりに、鳥居から涼香が現れた。
白い袴と着物が、ぴったりと体に貼りついてしまっている。
顔面は蒼白で、唇に色はない。
「おはよう、早いのね。霜」
涼香が歩くと、草の葉に宿った露が地面に落ちた。
その微笑みは、はかなく消える露に似ている。
「今日は、学校を休むわ。ちょっとばかり、寝不足なの」
切れ切れに呟いた涼香の体がふらついたと思うと、その場に崩折れた。
「涼香っ」
霜は足がもつれそうになりながらも駆け出し、地面に激突する寸前で涼香を抱き留めた。
「ああ、忘れないうちに橘を摘んでいってね。起きたら食べるから」
腕の中の少女のなんと冷たいことか。
「……何をされた」
涼香は口ごもり、視線をそらせる。
「何があったんだ」
強い調子で繰り返すと、涼香は瞼を伏せて息をついた。
体温の低さに反して、その吐息はあまりにも熱く感じられる。
「泉につかって、水をかけられて。途中で私は気を失ったらしくて、気が付いたら濡れたままで地面に横になっていたわ」
人ではない時久に、涼香の体や髪を乾かそうなんて考えがあるはずもない。
「済まなかったな。一緒にいてやれなくて……俺の手で、苦しい目にあわせて」
本来ならば、大祓は結び目を作ったサラシを喉の奥や食道にまで入れさせて、穢れた食べ物をすべて口から排出させる。
雛が血を吐いても関係ない。
その血の穢れは泉の水で清めればいいのだ。
あんな苦しい儀式を、涼香に強いたくはなかった。
形だけで、食べた肉を吐いて。それで終わりにしたかった。
かよわい少女を痛めつけ、人格も破壊して、いらなくなったと捨てるなど人道にもとる。
こんな伝統が継承されて、誰も疑問を抱かないなんて、あっていいはずがない。
「お父さんとお母さんには、言わないでね。たぶん姉さんが、うまくごまかしてくれていると思うから」
「ごまかしきれるはずがないだろ」
「平気よ。親心を出して、娘が御饌になるのを妨害しないために、私は霜に育てられたんだもの。部屋だって離れを使っているし、ね?」
「親子の仲を引き裂かれて、それを当然と思うな……思っちゃいけないんだ」
「でも、気持ちはつながっているわ。毎日、私のためにお弁当を作ってくれるの。最近ね、好物ばかり入っているのよ。すごくうれしいのに、どうしてかな、まるでそろそろお弁当も終わりだからねと告げられているみたい」
涼香の瞳に、うっすらと涙がにじむ。
霜は涼香を抱き上げた。あんなにも自分に禁じていたお姫さまだっこだ。
慣れぬ抱き方に涼香は瞠目したけれど、すぐに身を任せてきた。
このまま涼香を連れて逃げたい。
駆け落ちでも逃亡でもなんでもいい。
君が健やかに暮らせる場所なら、いつまでも笑っていてくれるのなら。
「……うっ」
華奢な体を強く抱き、霜はうずくまった。
大事に育てたのだ、過保護と笑われても、ロリと言われようとどうでもよかった。
「なんで……涼香なんだ」
涙がこぼれぬように霜はきつく瞼を閉じたのに。
それでも雫がぽたぽたと涼香の頬に落ちていった。




