大祓 2
「飲め」
有無を言わせぬ霜の口調に、涼香は震えながらも口を開く。
口の中に流し込まれた水は冷たい。
だがかろうじて桶の三分の一ほど飲み干しても、霜は首を横にふる。
岩の上に用意してあったサラシを手にし、じっとその布を見据えている。
サラシは細く、ところどころに大きな結び目が作ってあった。
霜はそれを全てほどくと、細かな結び目をこしらえていく。
「苦しいが耐えるんだ。俺の方がずいぶんと楽なはずだ」
涼香の口中にサラシが入れられる。
驚いた次の瞬間、また水が流し込まれた。
(うそっ、なに、やめて)
叫びたいのに声にならず、逃れたいのに霜は顎を離してくれない。
水と共にサラシが喉に入っていく違和感。
全身に鳥肌が立ち、絶え間なく悪寒に襲われる。
そうだ、思い出した。
子どもの時に同じように肉食をして、大祓を経験したことがあったのだ。
あまりにも苦しくて恐ろしくて、覚えていることさえも苦痛で、無理やり記憶から消していたのだ。
肉をほとんど食べなくても平気だったのは、大祓の恐怖が根底にあったから。
霜は唇を噛んだと思うと、きつく瞼を閉じた。
「済まない。許してくれ」
「きゃああっ」
一気にサラシが引き抜かれる。
ごぼっと音がして水と食べたものを、涼香は吐いた。
激痛に体は強張り、指の先までもがぴんと張りつめてしまう。
いや、いやだ。涙を流しながら、涼香はその場に倒れた。
体だけではなく、身の内までも清める大祓。
神使の食べ物が穢れていてはいけないから。
苦しみを伴う大祓を霜が買ってでたのは、それほど肉を食べたことへの怒りが深いからだったのだろうか。
呆れられ、嫌われてしまったのだろうか。
さっきは棘が刺さっただけで、あんなにも慌てて丁寧に手当てをしようとしていたのに。
「あれー? もう終わりなんだ」
とんとん、と軽い足取りで跳ねるように時久がやってくる。
「ちょっと早くないかなー、それに結び目がやけに小さいし少ないよ?」
「体内を清めるには、これで十分と判断しました」
「うーん、やっぱり大祓は巫にしてもらった方がよかったかなぁ。志津香だっけ、今の巫なら職務に忠実だから、もっと時間をかけて何回もやっただろうし、それに彼女が用意していたのは、もっと大きな結び目がびっしりとあったはずだよ」
「雛は体力が落ちております、さらなる苦痛を与えれば衰弱いたしますので」
袴が濡れるのも構わずに、霜は正座して深々と頭を下げた。
だが時久は、霜の頭を手で押さえつける。
「雛が弱ったのは、君がちゃんと管理していないからじゃないの? 自分が務めをちゃんと果たさないのって、言い訳にならないよー」
「……存じております」
時久が手に力を加えたのだろう。すでに霜の額は地面についてしまっている。
「僕は肉の穢れが一番嫌いなんだ。覚えておいてよね」
夕風に、注連縄がゆらりと揺れる。
紙垂が時久の顔に触れたと思うと、じゅっと言う音と共に焦げ臭いにおいがした。
「ほんと、嫌だよね」
うるさそうに紙垂を手で払い、時久は目をすがめた。
「時久さま。大丈夫、なんですか」
思わず涼香は問いかけていた。
時久は瞬きをして、じっと涼香を見据えてきた。
篝火の火の粉が、姫蛍のように風に舞っている。
金の瞳を細めて、時久はにいっと笑った。
「男衆くん、もう帰っていいよー。大祓の続きは、僕がやっておくから。ああ、気にしないで、別に無茶はしないよ。きちんと禊をしないとねー、お腹を壊すのは僕だから」
地面に落ちてい未使用のサラシを手にして、時久は涼香の腕を掴んだ。
「いえ、あれで足りぬのなら、私が責任をもって最後まで遂行いたします」
「うん、でも君はもういらないって言ってんの。帰ってよ」
「ですが」
「邪魔だよ。これは僕の食料なんだ。君のもんじゃないよねー」
華奢な体に似合わぬ迫力で、時久は霜を睨みつけた。
たとえ幼く見えても、相手は人ではない。
霜はそれ以上食い下がることもできずに、何度もふり返りながらその場を立ち去った。
「困った人だよね。巫なら情け容赦なく大祓を行うから、それなら自分が手心を加えようって魂胆なんだよ、あれって」
(そうだったの? 私を守ろうとしてくれていたの?)
涼香は髪や体から水をしたたらせながら、小さくなる霜の背中を見送った。
「だけど、僕は面白くないんだなー。じゃあ、大祓を続行しまーす。はい、泉に入った入った」
時久は足で蹴って、涼香の体を移動させた。
慌てて立ち上がろうとしたが、涼香の両手をサラシで後ろ手にくくりつけ、さらに柱に固く結ぶ。
泉につかった状態のままの涼香に、時久は桶に汲んだ水をぶつけるようにかける。
間隔は不規則だが、その行為をやめる気配は一向にない。
腰や足は冷たさで痺れ、顔に投げつけられた水は、まるで頬を殴られているかのよう。
もう痛いのか、冷たいのか分からない。
きっと唇は紫に変色してるかもしれない。
歯がかみ合わない音がして、自然と体が震えてくる。
「君も陸子と一緒で、雛男衆が好きなんだね」
「私は……」
かすれた声で答えようとしたが、言葉にならない。
時久の手から桶が落ち、かつーんと地面にぶつかる音が響いた。そのまま手が上がる。
ぶたれるかもしれない。涼香は瞼を閉じたが、衝撃は訪れなかった。
時久は自分の平らな腹部に手を置き、苦しそうに眉をひそめた。
いつの間にか十三夜の月が空に昇っていた。
柱につながれたままの涼香の視界はかすみ、月はおぼろに見えた。
夜なのに白い鳥が空を行く。月に重なる鳥の影を、時久は目で追った。




