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大祓 1

 夕間暮れ。

 酔芙蓉が仄赤く色づく庭では、ひぐらしがカナカナと鳴いていた。

 廊下に置かれた蚊取り線香から細い煙が立っている。


 重い足取りで廊下を歩く涼香の横には、霜が付き添っている。

 ぽとり、と蚊取り線香の灰が落ちた。


「泉には一人で行けるわ。姉さんだっているんだし」


 霜は無言だ。

 隣にいるから見上げないと顔は見れないけれど、確認しなくても分かる。明らかに怒っている。

 確かに真海に、唐揚げを勧められて。どうしても断ることができなかったけれど。

 でも後悔はしていない。 


(分かっているわ。菜食を貫き、潔斎に努めなくてはならないことも。でも私だって、好きで雛に選ばれたんじゃない。生まれた時からそうと決められて、辞退する権利すらなくて)


 たった一口の肉だけで、どうしてこうもいたたまれない心地になるのだろう。


 濡れ縁の外では、白い着物に緋色の袴をはいた志津香が待っていた。


「志津香さん、俺も社に入らせてください」


「神使が否と申されなければ、どうぞ」


 かんなぎの衣に合わせて、今の志津香は髪を一つに結んでいる。

 霜も雛男衆として着物を着ている。

 制服姿の涼香は、二人に囲まれると場違いに見えた。


「彼も立ち会うのか……」


 額に手を当て、霜はうつむいた。

 絞りだすような声はかすれ、ひぐらしの音はおろか、木々を揺らす風の音にもまぎれてしまう。


「気にしなくていいの、霜。神使に叱られるのは私だし、雛男衆の責任にはならないわ」


「俺が責められる方が、よほどましだ」


 どういうこと?

 涼香は問いかけようとしたが、霜が先に下に降りて涼香のために草履をそろえるから、口にすることはできなかった。

 草履をはいて庭に降りた涼香の肩に、霜が手をかける。


「足を見せてみろ」


「なんでもないわ」


「右足が痛むんじゃないのか。少し引きずっている」


 有無を言わせずに、霜は涼香の体を抱え上げて、濡れ縁に座らせた。


「ちょっと離してって。神使が待ってるんでしょ」


「手当が先だ。神使には待っていてもらう」


「優先順位を間違ってるわ」


「問題ない。雛男衆が仕えるのは雛だ。お前が何においても最優先される」


 霜は涼香の前にひざまずき、その膝に右足を載せさせる。

 素足の足裏を丹念に触れてくるから、くすぐったい。


 霜の指の感触と、蚊遣りの煙と混じりあう甘い花の香りに酩酊となりそうだ。

 足を引こうと思えば、できたはずなのに。

 涼香は身動きどころか、息をするのにも難儀した。


「痛っ」


 棘に触れられ、びくりと肩が動いてしまう。

 霜は爪で棘を抜き、袂から出した絆創膏を貼った。

 あの袂は救急箱みたいなもので、頭を冷やすシートや包帯、消毒薬、小さいサイズの虫刺されの薬なども入っている。


 すべて涼香のために常備してあるものだ。


 もし涼香が料理をして火傷をしたら、薬だけじゃなくて、消火器すらも出てくるんじゃないかと思う。


「涼香、急ぎましょう」


 志津香に促されて、涼香は立ち上がった。


幣殿へいでんから戻ったら、消毒をするからな」


「霜さん、今日は特別に過保護でいらっしゃるのね」


 何気ない志津香の問いかけに、なぜか霜はしまったという顔をした。


「俺は普通にしていますが」


「いいえ、普段は仏頂面で、仕方なく涼香の世話をしているようにふるまっておいでですのに。まるで涼香のことが愛おしくてしょうがないみたい」


「まさか。先代も先々代も、俺と同じように行動したはずです」


 きっぱりのした霜の否定の言葉に、志津香は慌てて顔の前で手をふる。


「あの、責めているわけではないのです。ただ私は心配なだけで。涼香を可愛がったりすれば、霜さんの名も雛男衆の系図から消されてしまうのではないかと。本当にそれだけなんです」


 志津香は瞼を伏せて、身をひるがえした。


(姉さん、もしかして。霜のことを)


 涼香は小走りに姉を追いかけたが、とても真意を確かめる気にはならなかった。

 姉は霜との恋愛を禁じられてはいない。

 それどころか二人ならば、むしろお似合いかもしれない。


(いやだな)


 ふいに浮かんだ思いは、隠すことのできない本音だ。


 自分がいなくなったら、しばらくは二人とも悲しんでくれるだろう。

 でも、一年経ち、二年経って、涼香の不在に慣れた頃。

 二人は涼香の思い出話をしながら寄り添っているのかもしれない。



 緑の木々に覆われた庭の奥に社がある。簡素ではあるが、幣殿と切妻造りの本殿が

 建てられていた。


 この地の祖である海民のための社は、平安後期にはすでに光崎家の庭にあったという。


 檜皮葺ひわだぶきの屋根を、青々とした苔が覆い、水のにおいが一層濃くなる。

 社には、日輪の神使が祀られている。海の荒天を避け、海路の安全を守る神の使いだ。


 拝殿はないが、初めて目にした人は、個人の庭に神社があり巫がいることに驚くものだ。



 遅れてついてきた霜が、涼香の肩に手を置いた。

 びくりと小さく肩をすくませたことで、初めて自分が緊張していたのだと知った。


「しばらくの我慢だ。耐えてくれ」


「え、どういうこと?」


「大祓は俺がとり行う」


 遠くで海鳴りの音が聞こえる。その低さに似た霜の声に、涼香は息を呑んだ。



 先に支度をするために、涼香は一人でまず庭にある蔵に向かう。


 大きく深呼吸して気を落ち着けないと、いつも蔵の中に入ることができない。

 蔵の奥は暗く、底知れない闇が広がっている気がする。


 蔵には悪い人を閉じ込める牢があるのだと、幼い頃に姉から教えられたことがある。

 勇気があり凛とした志津香は平気で蔵に入ることができるが、涼香にとっては不気味で恐ろしい場所だ。


 幸いにも禊用の着物は、入り口近くに置かれていた。


 行灯の明かりに照らされているが、蔵の中はほの暗い。

 奥にはできる限り目を向けずに、背中を向ける。

 重い扉の向こうから、ささやかな話し声が聞こえてくる。


「いつも絆創膏を持っていらっしゃるんですか?」


「案外そそっかしいので」


「霜さんが? そうは見えませんけれど」


「いや、あいつが」


 それきり二人の会話はとぎれてしまった。


 白い着物を身にまとい、次に白袴をはく。

 普段の着付けは霜がしてくれるので、どうにもうまく着ることができない。


 霜に頼めばやってくれるだろうが。志津香の前で、普段のように霜に甘えるのは気が引けてしまった


 神使のいる幣殿に上がると、艶やかに磨き上げられた木の床に夕焼けの空が映っていた。

 空の茜と床の茜、その境に少年は座っていた。足を投げ出して。


「やぁ、ひさしぶりー」


 小首を傾げてひらひらと手をふるのは時久ときひさだ。

 そう呼ぶように命じられている。


 さらりとした黒髪、細身の体を開襟シャツと五分丈のパンツに包んでいる。

 見た目は中学生になるかならないかほど。

 けれど金色の瞳が人の姿からは逸脱している。



 四方に壁のない幣殿には、青々とした竹が飾られていた。

 竹は榊と同じく清浄な植物とされている。


「あれー? 今日は雛男衆も来たんだね。ぼくは呼んでないよー、誰が許可したのかな」


「私が独断で参りました」


 普段は自分のことを「俺」というのに、小さな神使の前で霜は畏まっている。


「ふぅん、今の雛男衆も出しゃばりさんなんだ。ぼく、そういうの好きじゃないけどね」


「無礼は承知の上。今日は私が雛の禊を行わせていただきます」


「徹底的にやってくれる?」


 ぴょんと身軽に跳んだと思うと、時久は重力を感じさせぬ様子で霜の眼前に降り立った。


「なんかねー、今日は雛がくさいんだ」


「心得ております。大祓をいたしますので。なにとぞ御心を鎮めてくださいますよう」


「んー、どうしよっかなぁ」


 くるっと体を回転させたと思うと、いつのまにか時久は涼香の前に立っていた。


「誰が肉を食べていいっていったかなぁ。ほーんと悪い子だなぁ」


 時久は無邪気な笑顔のままなのに、涼香は背筋に悪寒が走った。


「じゃあ、お願いしよっかな。ほら、サラシなら泉に置いてあるからねー、巫が用意していたみたいだよ。ちゃんと細く裂いてあるようだし、彼女用意がいいよねー」


「サラシを……」


 涼香の背後で、霜が言葉をとぎれさせた。

 何事かとふり返って見ると、夕映えに照らされ辺りは赤く見えるにも関わらず、霜の顔は蒼白なのだと分かる。


「出来の悪い雛を持つと、男衆も苦労するよねー。たまーにそういう流されやすい娘が、雛に選ばれちゃったりするんだ。まぁ頑張ってねー」


 軽い調子で時久が見送る。


 涼香の手を引いた霜の指は、まるで氷かと思えるほどに冷たかった。


 幣殿から降り奥へと進むと、こぽこぽという水の湧く音が聞こえてきた。

 裸足の足裏に石畳が冷たい。ふいにひやっとしたと思うと、石畳は水で濡れていた。


「涼香。泉へ」


 足下にふかっと柔らかな感触。

 ここも柱と屋根だけの造りとなっており、四本の柱をつないでしめ縄が張られ、真白い紙垂しでが下げられている。

 篝火が焚かれた先には、水の湧きだす泉があった。


 いつもの禊は、ただ水に身をつけるだけでいい。

 湧き水は冷たく、たとえ温暖な地とはいえ冬場は凍えるように冷たいが、今はうろたえるほどではないだろう。


(でも今日は大祓だと言っていたわ)


 ずっと昔に大祓をしたことがあるが、内容ははっきりとは覚えていない。


「さぁ、涼香」


 岩に囲まれた泉の前で立ち止まった霜が、手を差し伸べてくる。

 力任せに引きずられ、よろけたと自覚する前に涼香の体は泉に落ちていた。


「きゃあ」


 地下から湧出したばかりの水に、肌が粟立つ。

 開いた口に水が入り込んできた。

 慌てて水面に顔を出そうとすると、霜の大きな手が頭を押さえつけてきた。


 うそ、どうして? 


 顔を出すことができない。

 涼香の口からごぼっと泡が生じては、消えていく。


 暴れて波立つ水の向こうに、今にも泣きそうな顔をした霜が見えた。

 急に体を引き上げられ、涼香は激しく咳き込んだ。

 一気に空気を吸い込みすぎて、胸が苦しい。


「どうしてこんな乱暴を」


「お前が馬鹿だからだ」


 吹く風に一斉に揺れる紙垂の音に重なる霜の声。

 ひどくかすれて、聞いているだけで心が苦しくなる。


「助けてくれと請わないでくれ。俺は、お前の望みをかなえてやることはできないからな」


 霜は木桶を掴むと、乱暴に泉の水を汲み、反対の手で涼香の顎を押さえた。




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