「開く」と「閉じる」
霜は、大学の自室でうろうろと歩き回っていた。
窓から外を覗けば、三方を海に囲まれた岬にある町がよく見える。
東と南と西が海に面しているこの地で、水軍が発達したのもうなずける。
北の陸路さえ押さえておけば、都の干渉を最小限にすることができる。
あまたある島の目立たぬ入り江に津を造り、軍船を停泊させておくことも可能だ。
腕を組んで町を眺めていた霜は、今度は扉へ向かって進んだ。
時計を見れば、すでに午後の三時半を過ぎている。
「うーん、遅い」
もう授業も掃除当番も終わっているはずなのに、まだ涼香は現れない。
「おいおい、甘いのがよかったんだろ。氷が溶けて、味が薄くなってしまうぞ」
霜はローテーブルに置かれたオレンジジュースを見やった。
グラスの表面には水滴が浮かび、ジュースの上には透明な水の層ができている。
北門先生は、年の離れた従妹を猫かわいがりしているとか、過保護にもほどがあるとか、ロリなんじゃないかとか学生達から噂されているのは知っている。
「ふん、なんとでも言え」
与えられた使命を全うして何が悪い。
さすがに新しいジュースに入れ替えた方がよさそうだと思った時、ドアをノックする音が聞こえた。
「遅いぞっ」
「す、すみません。今後は気を付けますから」
びくっと身をすくませるのは、ゼミの女子学生だ。
そういえば今日はレポートの最終提出日だったか。
「期限は確か、本日の午後三時のはずだったが」
「分かってます。でも一生懸命頑張ったんです」
「頑張って褒めてもらえるのは、小学生までだと思った方がいい」
女子学生は今にも泣きそうな顔をしたが、とにかく渡してしまえとばかりにレポートを押し付けてきた。
紙がくしゃくしゃになるのも構わずに。
(おいおい、読むのは俺なんだぞ)
提出時間に遅れ、もしこれで内容がろくでもなかったら、迷わず不可にしてやる。
ふんっと鼻息を荒くした時、またドアがコンコンと鳴った。
「今度は誰だっ。三時までって言っただろうが」
「おや、これは怖い怖い。北門准教授は厳しいですね」
ドアの外に立っていたのは、灰色の着流しをまとった三十代前半の男性。
狐の面を思わせる細い目だ。
「今日は面会の約束は入っていないはずだが」
霜は露骨に顔をしかめた。狐顔は、名を光崎実春という。
その姓が示す通り涼香の親戚だ。
実春の背後には、夏なのに黒いスーツを着た大柄な男が控えている。
「そろそろ奉饌の儀が近いですからね。様子をうかがいに立ち寄ったのですよ」
「御大がおでましとは。気合が入っていることだ」
室内に入れてやる気は毛頭ない。
たとえ相手が光崎の若き長であれ、立ち話で十分だ。
「私としては、北門にいつまでも雛男衆を任せることが本意ではないのですよ。いつまた裏切るか、知れたものではない」
「裏切ってなどいないだろう」
霜が声を荒げたせいで、廊下を行く同僚や学生が何事かと足を止める。
「先代の話ですよ? 賢明な霜くんが反意を見せるとは考えてませんからね」
くっくっと含み笑いしながら、釘を刺してくる。
この実春という男が、霜は昔から苦手だった。
まだ霜が高校生の頃。
橘の実を摘んで涼香に渡そうとした時、難癖をつけられたことも一度や二度ではない。
――雛に対する口のきき方がなっていませんよ。雛男衆など下僕なのです、それをわきまえるべきですね。
実春は、当時大学生だったと思う。
わざわざ毎日、嫌味をいいに来るなんて。暇な学生もいたものだ。
「先代は雛を裏切ってはいない」
「雛については、ね。けれど神使のことはどうですか? おっと、男衆が従うのは雛だからなんて言い訳はしないでくださいね。雛の上にあるのは神使。ならば男衆も神使に従うのが道理」
「だったらあんたが神使の機嫌をとればいいだろう?」
細い眉を実春は上げて、肩をすくめる。
「しょうがありませんよ。本家には雛は生まれないのですから。雛さえいれば、あんな分家に社を建てたりしませんよ。それに神使は、光崎の本家を嫌がるのでね」
(そりゃそうだ。嫌われている自覚はあるんだな)
霜は腕を組んで、体の線の細い実春を見おろした。
神使をこの地に留めおくよう指示を出しているのは、光崎の本家だ。
今ならば、実春の意思ともいえよう。
平安時代に常世より授かった神使。
おそらくは力のある神職が、日輪の神に気に入られ、その加護として神使を遣わされたのかもしれない。
神使が地に降りたことで海路の安全は守られ、光崎家は水軍からの信頼と富と名声を得た。
べつに神と人との間で明確な契約があったわけでもないだろうが。
願いをかなえてもらったなら、すぐに神使を神域に帰してやるべきだったのだ。
「次に来た時には、せめて座ってお茶くらい飲みたいものですね」
「ペットボトルの茶も惜しい。水道水で十分だ」
「おやおや、手厳しいことです。それにしても室内は涼しいようですね」
扇子を出してあおぎながら、実春は立ち去った。
「塩、あったよな」
霜は、電気ケトルの近くに置いてあるコーヒーや紅茶をかき分けた。
涼香が甘いのが好きだから、砂糖は常に用意してある。
この部屋で弁当を食べていく学生もいるので、しょうゆや塩も一応おいてある。
「あった」
テニスボール大の硬いピンクの塊を、霜は手にした。
たしかアンデスだかどっかの山の岩塩だ。同僚が土産にくれたものだ。
本当は格好よく塩を撒きたいところだが、背に腹は代えられない。
ドアを勢いよく開けて、実春が去っていった方へ向かって大きく振りかぶる。
「きゃあっ」
霜よりずいぶん低い位置で悲鳴が上がる。
廊下で彫像のように硬直していたのは涼香だった。
しまった。霜のうなじを冷たい汗が伝う。
「ご、ごめんなさい。今日は日直で、職員室に寄っていたら先生に用事を頼まれて。あの、それで、ど、土下座でもした方がいいかしら」
「これは、そうだな新種のカラーボールで。ほら、コンビニに強盗が入った時に使う」
「……岩塩に見えるんだけど。私が遅れてしまったから、すごく怒っているのね」
涼香の声は震えている。
これが自分の家や光崎家であったなら、気にすることはないと慰めてやるのだが。
(うう、視線が刺さるぞ)
女子学生達が興味津々の瞳で、廊下の端から見つめている。
涼香の頭に手を置くだけでも、きっとまたあることないこと噂を吹聴されるのだろう。
「土下座はやめてくれ」
ああ、使命を全うすることが、こんなにも針のムシロ状態だったなんて。
ただ涼香の清らかさと健やかさを守ることに、心を砕いているだけなのに。
「走ってきたんだろう? 汗をかいているじゃないか」
額に髪をはりつかせた涼香をソファーに座らせる。
新しいジュースを用意すると言ったのに、涼香は薄くなってしまったオレンジジュースでいいと遠慮した。
よほど疲れたのか、涼香はソファーにごろりと横になった。
行儀の悪いことに、右足はソファーからずり落ちてしまっている。
遠慮するところが、根本から間違っている。これはお説教するべきか。
「おい、その格好はないだろう。いつ学生が入ってくるか分からないんだからな」
「うーん、分かった」
「分かったというわりには、だらけてるじゃないか。こら、寝ながらジュースを飲まないっ」
「んー、了解」
返事とは反対に、涼香は寝ころんだままでストローをくわえた。
やはりジュースが薄いのか、眉をしかめながら器用に飲んでいる。
「お前なー、自分ちよりも俺の部屋にいる方が自由気ままだろう」
ふふ、と涼香は微笑むが否定はしない。
実家では行儀良くしているのに、ふつうは逆じゃないか?
普段から、できる限り一緒に帰るようにしているから、涼香は放課後をこの部屋で過ごすことが多い。
霜が仕事をしている間は、涼香は宿題をしているか本を読んでいることがほとんどだ。
神使の御饌として生まれた涼香。
常日頃から菜食を心掛け、光崎家の庭にある泉で禊をし、橘の実で体内も清めている。
来るべき奉饌の儀のために。
涼香が口にする橘は、由緒正しい木らしい。
それに季節を問わず毎日実をつけるほどに、生命力が強い。
たとえは悪いし、こんな風に考えたくはないが。
養殖している魚にオリーブや果物を食べさせたりするのと、原理は同じかもしれない。
つまり神使にとって、涼香がうまみを増す。
そう考えて、霜は体を震わせた。
(いや、深く追及してはならない。海民を祖とするこの地では、海路の安全が何よりも優先された。瀬戸内海の波は穏やかだが、流れは速く海の幅も極端に狭い場所が多々ある。神から遣わされた神使を崇め、機嫌を損なわぬことは重要なのだ)
海民は水軍。すでに水軍などいないのに?
初めて涼香に出会った日。
まだ伝い歩きもできない彼女は、霜の姿を見てにっこりと笑ったのだ。
へたくそなハイハイで突進して、壁に激突しそうだったから、慌てて抱き上げたのが今から十六年前。
霜が中学一年生の時だ。
特別な女の子を守ってやらないといけないと思った。
けれど日に日に疑問は大きくなっていく。どうして雛が涼香でなければならないんだ、と。
またドアがノックされた。今度はとても遠慮がちに。
次は誰だと扉を開くと、現れたのは絽の着物を涼しげに着こなした女性だった。
楚々とした立ち姿の、涼香の姉だ。
「志津香さん、どうしたんですか。大学に来るなんて珍しい」
「ああ、霜さん。いらっしゃったのね、よかったですわ。涼香がそちらにお邪魔しておりませんか?」
「いますけど」
霜は部屋の中に視線を向けた。
さっきまではだらけていた涼香が、今は姿勢を正し、足もそろえてソファーに座っている。
実の姉の前で猫をかぶるって、どうなんだ。
「よかったですわ。高校から電話がありましたの。涼香が具合が悪くなって保健室で休んでいるから、迎えに来るようにと」
「えっ?」
そんなこと、一言も聞いていない。
霜はソファーに向かって大股で歩くと、ローテーブルにばんっと手をついた。氷がからんと音を立てる。
「だから寝そべっていたのか。具合が悪いのなら、なぜそう言わない?」
「もう平気だから」
「だったらタクシーでも呼んで、先に家に帰したのに」
涼香は片目をつぶると、人差し指を唇の前で立てた。
ああ、そうだった。大学のこの部屋にいる方が、涼香にとってはくつろげるのだ。
家に帰れば着るのは和服かきちんとした洋服だ。
夏の暑い時期はワンピースで過ごすこともあるが、寝るのは季節を問わず浴衣だ。
しかも眠っている間に前がはだけないように、帯はきつめに締めなければならない。
腕や足を投げ出して横になることなんて、光崎家では認められていない。
「気分が悪いのか? 保健室で熱は計ったんだな、何度だった? 吐き気は?」
「少しだけ、あったかもしれない。熱は、なかった」
「ないにしても平熱よりは高かったのか? ああ、そうだ目を見せなさい」
霜は涼香の下瞼を、指で下げた。
瞼の裏はとくに白いというわけでもない。貧血ではなさそうだ。
「霜、痛いって。過保護すぎ」
いつまでも、あかんべーの状態で下瞼を押さえていたので、涼香が口を尖らせた。
霜が、済まないと謝った時にようやく志津香は部屋の中に入ってきた。
「涼香さん、霜さんにその口の利き方はいけませんよ。霜さんは雛男衆を引き受けてくださったのですから、敬わねば」
「……分かってるけど、霜は口うるさいんだもの」
「涼香さんっ」
「はい、改めます」
涼香は姉に対して頭を下げたけれど、おそらくというか絶対に口の中で「たぶん」と呟いているはずだ。
今日、涼香の来訪が遅かったのは日直ではなくて、保健室で眠っていたからではないだろうか。
そう考えると、霜はうなじがちりちりするのを感じた。
いくら敷地が隣といっても、高等部での涼香の様子が逐一入ってくるはずもない。
いっそのこと高等部の教師になるべきだったか。
それとも保健室の先生……いや、どちらも資格を持っていない。
たとえ涼香が倒れたとしても、学校から連絡が入るのは霜にではなく、実家にだ。
その当たり前のことがもどかしくてしょうがない。
「なんで俺を呼ばないんだ。電話をかけてくればいいだろうに」
「……霜が講義中だと困るもの。それに、私は平気だから」
俺が平気じゃないんだよ、という言葉を霜は呑み込んだ。
志津香がいるのを失念するところだった。
雛と雛男衆が恋愛関係になることは禁じられている。
当たり前だ。清らかなままで神使に献上すべき娘を、育ての親が穢してどうする。
ありえない、というかこれまでそんな愚かな選択をした雛男衆を知らない。
いや、待てよ。霜は顎に指をあてた。
何かが頭に引っ掛かっている。
そこにあるはずの名が、二重線で消されていたことがなかったか?
「霜さん。私は涼香を連れて帰ります」
志津香の声に霜は我に返った。慌てて涼香を担ぎ上げて、ドアを開ける。
「……また、お姫さまだっこじゃない」
「贅沢言うな。荷物扱いはしていないぞ」
「でもこれって、子どもをだっこしてるみたい」
霜の首に涼香の腕をまわさせて、上体を起こさせたまま抱きつかせているのだから、確かに歩くのに疲れた幼稚園児をだっこしているのと大差ない。
まったく、なんで気づかないんだ。このうすらとんかちめ。
どれだけ「涼香は子どもだ、ガキだ、お子さまだ」と自分の心に刻み続けているのか、ちーっとも分かっちゃない。
「タクシーまで送っていきます。志津香さん、すみませんが家に戻ったら涼香をおとなしく寝かせておいてください。確か今夜は涼香の好きなドラマがあったはずですが、見せないように」
「えー、今日はヒーローを裏切った友人が、ひざまずいて許しを請う場面があるのに。一週間、ずっと楽しみにしていたのよ。高慢な友人が土下座して『俺の頭を踏んでくれ』って懇願するの」
「一週間、それしか楽しみがなかったのか。哀れな奴だ」
「だって、ぞくぞくするじゃない」
「そのぞくぞくは、熱が出る前兆だ」
廊下で声高に言い合いながら、エレベーターホールに着くと、志津香が慌ててボタンを押してくれた。
「あとで差し入れを持って、様子を見に伺いますから。涼香が眠っているかどうか時々確認してください」
「あらあら、まるで霜さんの方が、涼香と家族みたいに聞こえますよ」
ポーンと音がして、エレベーターの扉が開く。
志津香は先に中に入り、今度は「開く」のボタンを押してくれた。
「きゃっ」
急に左右の扉が迫ってきて、涼香は声を上げた。
重い扉は霜の肩に当たって再び開いた。
もしかしたら涼香の体にも触れたかもしれない。
「す、すみません。『開く』と『閉じる』を間違えて押してしまいました。怪我はありませんか、霜さん」
「俺は平気です。涼香、なんともないか」
「うん、びっくりしただけ。でも姉さんでも、うっかりすることがあるのね」
「恥ずかしいわ、私ったら」
志津香は本当に恥じ入った様子で、肩を落としてうつむいた。
しとやかで女性らしいたおやかさを感じさせる志津香と、おとなしそうに見えるけれど、実は内弁慶の涼香。
涼香は橘を食べるたびに酸っぱい苦いと文句を言い、学友がスカートの丈を詰めれば、それに合わせてしまう。
主体性がないというか、流されやすいというか。
そういえば小学生の時、涼香はおかずに肉を使う学校給食が食べられなくて、毎日弁当を持参していたけれど。
友人に勧められて、魚のフライだったかハンバーグだったかを一口食べて、体調を崩していたことがある。
霜は、はっとした。あの時も今と同じような症状ではなかったか?
「涼香。肉を食べなかったか?」
腕の中で、びくりと細い体が震える。
当たりだ。このバカ。
志津香が「まぁ」と息を呑む。狭い箱の中に緊迫した空気が流れ、エレベーターの駆動音だけがやけに大きく聞こえる。
「どうしましょう、霜さん」
「大祓をします。志津香さん、帰ったらすぐに用意をしてください。俺もこのまま一緒に行きます」
「本家の当主に相談しましょうか」
腕の中の涼香が、びくりと身をすくめるのが霜には伝わってきた。
「できれば内密に。おおごとにしたくはありません」
実春なんかに伝わってたまるか。
霜は、舌打ちしたい気持ちをこらえた。
別に肉が食いたいわけじゃないんだろう? なんであとわずかで離れる友人に同調しようとする。
視線を落とすと、涼香の伏せた睫毛が震えているのが見えた。
(あと少し……だからか)
苦い気持ちが込みあげてきた。




