座布団と麦わら帽子
霜が一度家に帰ったのは、座布団を用意するためだったようだ。
よく幼稚園児が園で使用しているような小さなお座布団だ。
それを自転車の荷台に結びつけている。
そういえば幼稚園に通っていた頃は、霜に自転車で送り迎えをしてもらっていたなぁ。
あの頃の霜は高校生くらいだったのに、恥ずかしげもなくママチャリに乗っていた気がする。
今となっては、なつかしい思い出だ。
「はい、完成」
光崎家の門の前で、霜はお座布団を手でぱしぱしと叩いた。
「あの、霜。これは」
「サドルと違い、荷台は振動を直に感じる。それに婦女子は腰を冷やしてはならん。もっと早くに取りつけておくべきだったな」
ちらりと霜は、セーラー服姿の涼香を見やった。ぶつぶつと何事か呟いている。
よくよく聞いてみれば「制服のスカートが短い」だった。
文句を言われても、学校のみんなも同じくらいのスカート丈だから、一人だけ膝が隠れる長さっていう方が浮いてしまうんだけど。
「ほら、これもかぶって」
頭の上にちょこんとのせられたのは麦わら帽子だ。
制服は白いが、セーラーの襟部分だけは紺色だ。
その色に合わせたのかどうかは分からないが、麦わら帽子のリボンも紺色だった。
「あのー、この帽子。ゴムがついてるんだけど」
「そりゃそうだ。風で飛ばされたら大変だからな」
もしかして霜が自分でとりつけたのだろうか。針と糸を持って、ちくちくと。
「拒否は認めん。さっさとかぶって、さっさと乗る」
霜は、真新しい四角い座布団を指さした。
丁寧に「なまえ」の欄には「光崎涼香」と達筆で記されている。
「私はもう高校生よ。幼稚園児じゃないわ」
「大差ない。俺はお前が赤ん坊の頃から世話しているんだ。広間をハイハイしていると思ったら濡れ縁を突っ切って、庭に落ちて、そのまま草の中をハイハイしながら突進していく姿を見た時は、先が思いやられた」
自転車の荷台に横座りになりながら、涼香は顔を赤らめた。
真新しい座布団は、小さいながらも思いのほかふっくらとしている。
赤ん坊の頃のことは覚えてはいないが、霜によくよじ登っていたのは記憶にある。
確かしょっちゅう霜の背中や肩から転落していた。
過保護になるのも無理はないかもしれない。
「今から出勤ですか?」
志津香が、門から現れた。
姉の志津香は二十三歳、大学を卒業してから実家で巫の職に就いている。
今はまだ勤務時間ではないから、袴ではなく普通の着物を着ている。
光崎は神の使いを祀る家系で、本家から託された社を守っている。
巫の志津香がいずれは婿を取り、その子が次代の巫となるのだろう。
「あら、涼香さん。素敵な帽子ね」
「でもこれ、たぶん小学生用だと思うんだけど」
大人がかぶる麦わら帽子は、もっと洒落たデザインだ。
涼香は顎の下にある黒いゴムを、指で引っ張った。
「自分で買ったのではないの? でもサイズはぴったりよ。ああ、霜さんに買っていただいたんですのね」
袂で口を隠して、志津香は上品に微笑んだ。
頭の後ろでまとめた髪に挿した珊瑚の簪についた飾りが、しゃらりと揺れる。
竹の葉が覆いかぶさってくる小道は仄暗い。
けれど角を曲がればすぐに車も通る海沿いの道で、夏本番のような青空が広がっている。
堤防は白く眩しく、濃密な潮のにおいがした
海といっても水平線は見えない。
島と島との重なりが空へと続き、小舟や島々へと向かうフェリーが行きかっている。
フェリーは、車が五台も載ればいっぱいになりそうなサイズだ。
対岸の島は歩いている人の姿が見えるほどに近い。
「夏休みになったら、泳ぎに行きたいなぁ」
「無理だな。俺は高校生と違って仕事があるんだ」
「霜を誘ったんじゃないもの。友達と行くわ」
「却下だ。離岸流というのを知っているか? 瀬戸内海は波は穏やかだが、離岸流で沖に流されることもある」
「あれもだめ、これもだめって、つまらない」
「しょうがないだろ、大事な体だ。俺が何のために十六年かけて守ってきたか」
「もうちょっとでお役御免じゃない。秋からは霜も自由よ」
何の気なしに告げた涼香の言葉に、霜は突然自転車を停めた。
キキーッと急ブレーキの音がする。
「ど、どうしたの」
霜の広い背中に顔をぶつけた涼香は、おでこを手で押さえた。
麦わら帽子はつばの部分がひしゃげてしまっている。
「しっかりつかまっていろ」
「え、なに?」
「警察だ。逃げるぞ。二人乗りは禁止だ」
ぐんっと体が後ろに引きずられる感覚。
涼香は夢中で霜にしがみついた。
けれどよく「こらー、二ケツするなー」と中学生に向かって怒っている警官の姿はどこにも見えなかった。
なだらかな長い坂を上りきったところで、霜は自転車を停めた。
島と島とをつなぐ橋が、遠く小さく見えている。
視線をさえぎるもののない道では、逃げ水が見え隠れしている。
「いくぞ」
その言葉を合図に、涼香は霜にしがみついた。
ペダルを踏む込むことなく、自転車は風を切って進む。
霜のスーツの裾がはためいている。
彼の肩にかかっているネクタイは灰色と水色のストライプ。
誰かが置いていったのだろう、海と道を隔てる錆びたガードレールに立てかけられた風車が、からからと音を立てて回っている。
涼香は瞼を閉じて、広い霜の背中に頬を寄せた。
もっと強く風が吹けばいい。
そうすれば大好きだって口に出しても、風がさらってくれるから。
霜の耳に届かないから。
「見たわよー、涼香。今日も北門さんに送ってもらっていたじゃない」
二階にある二年の教室に入ったところで、友人の須賀野真海がにやにやしながら声をかけてきた。
「相変わらず仲がいいわねー。やけちゃうけど」
茶色の髪を指でくるくると巻きながら、真海は「あー、枝毛」と言って顔をしかめた。
シーカヤックが趣味の真海は肌はこんがりと焼けていて、普段から和服を着て室内で過ごすことの多い涼香とは見た目が正反対だ。
他の生徒は霜と涼香の関係を噂するだけなのに、真海はいつも直球で尋ねてくる。
でもその方がありがたい。遠巻きにされていたら弁解もできないから。
(だけど真海は、私と霜を恋人にしたがるのよね。身内なんだって何度説明しても、納得してくれなくて)
窓からは校門の外に立つ霜の姿が見える。
まだ大学に行っていなかったのかと驚いた拍子に、霜と目が合った。
霜はまじめな顔で、両の拳を上下に重ねて少し動かした。
エアほうき、とでもいえばいいのだろうか。
今日が掃除当番かどうかを問うジェスチャーだ。
二階の教室内から首を振ったのでは、きっと見えないだろう。
涼香は腕を上げて大きく×印をつくる。
霜は納得したようで、自転車のスタンドを外して、走り去った。
鍵につけた、お気に入りの赤いマスコットが揺れている。
「いやー、恋人のことが心配なのね。教室に入るまで確認してるのかなぁ。もうラブラブ。見せつけちゃってこまるーって感じかも」
真海が、涼香の背中にのしかかってくる。
「北門さん、格好いいもんね。カヤックの仲間が大学で北門さんの講義を受けてるって言ってたけど。人気あるらしいよ」
「口うるさいし、厳しいわよ」
「ばっかねー、厳しい人が恋人には夢中になるって素敵じゃない。車じゃなくて自転車で送ってくれるのも、きっと運転席と助手席よりも密着できるからよ」
「それはたぶん、大学の駐車場が狭いからだと思うわ」
海と山が近接している土地柄なので、平地は少ない。
とくに大学は別の棟に行くときも、運動場に行くときも坂を上らないといけないと聞く。
「背中に感じる恋人のぬくもり。胴に回された彼女の腕。いけるわっ」
今は真海のぬくもりを感じているんだけど。
だけど、何が「いける」のかと聞きたくはない。
真海は爽やかな自然の中でカヤックを操りながら、妄想にふけるのが趣味なのだ。
「何度も言うけどね、真海。私と霜は従兄妹なの」
学校では従兄妹ということにしている。
でも本当は血縁関係にはない。
霜は、涼香が生まれてから十七歳になるまで世話をする雛男衆だ。
八月になれば、涼香は十七になる。そうして霜は涼香から解放され、自由になるのだ。
「そうだ、今日の学食のランチには、なんとゼリーがついてくるんだって」
ムキになって否定するのが空しいくらい簡単に、真海は話題を変えた。
ふり回されている気がする。
でも、今も同じクラスの女性生徒がちらちらと涼香を見ては、眉をひそめて口々にささやきあっている。
確かに霜は人気がある。高等部にも講演で訪れることがあるから、顔を知っている生徒も多いし。
目立たない涼香が、霜とべたべたしているのが面白くないのだろう。
「メインは鶏のから揚げにおろしポン酢ソース。休み時間に食券を買っとかないと売り切れちゃうかもよ」
真海が体を動かすと、女生徒達の姿が見えなくなった。
もしかして、気を遣ってくれた?
「お昼、学食で食べよ?」
「うん、私はお弁当だけど付きあうわ。豆のサラダと車麩のカツと、あとは確か炊き込みご飯が入っていたわ。そうそう、果物は枇杷とさくらんぼよ。最近、好きなものばかり、入っているの」
「もーう、ベジタリアンだから細いのよ。身長だって、私よりも十センチは低いじゃない」
「ご、ごめん」
「いや、謝ることじゃないけどさ。あんたは肉食いなさい、肉。せめて一口だけでもいいからさ」
「う、うん」
「食べず嫌いはダメなのよ。分かったわね」
真海は、いかにバーベキューがおいしいか、焼き肉で負けないためにはどうするべきかを説いた。
肉食を禁じられている涼香には、どれも興味深いが一生縁のない知識だ。
それでも真海の気持ちが嬉しい。
昼を過ぎ、眠気を誘う古文の時間。
何人かの生徒は睡魔に襲われているようだ。
教科書を立てて隠れるように眠る者もいるが、真海は正々堂々と突っ伏して、両腕をだらりと机から垂らして爆睡している。
半開きになった真海の口から、明らかに「ぐかー、すぴぴ」という音が聞こえている。
涼香はあくびを噛み殺すと、窓の外に目を向けた。
プールでは水泳の授業をしている。水しぶきが陽光にきらめき、とても眩しい。
「何事にも先達はあらまほしきことなり。これは徒然草の五十二段に書かれていることで、仁和寺の法師が年を取るまで石清水を拝むことがなかったのです。石清水八幡宮というのは京都府の八幡市にあり、祭神は……」
抑揚のない教師の声は、まるで子守唄だ。さぁお眠りなさいと歌っているようにしか聞こえない。
瞼が重い。先生の声もプールの水音も徐々に遠くなっていく。
――陸子。
幽けき光に包まれた白い手が、涼香の髪に触れ、頬を撫でる。
びくっと肩を震わせて目を開けると、そこには誰の手もない。
(夢?)
いたたまれない気分になり、額に手をやると、じっとりと冷汗をかいていた。
涼香は机に手を入れて、中から一冊の新書を取り出した。
瀬戸内の民について書かれた本で、著者は北門霜となっている。
文化人類学の中でも、海民史についての研究は多くはない。
裏表紙をめくると、穏やかに微笑む著者近影がある。
大好きな一枚だ。霜と写真を撮ることなんてないし、普段も彼はあまり笑わないから。
霜は自分だけの外の世界を持っている。
もし大学に入ることができたら、そんな外の霜を見ることができたかもしれないのに。
涼香は指で、そっと霜の顔を撫でた。
霜はきっと知らない。
常に一緒にいても、写真の一枚も持っていないから。
こうして彼の写真や著書を涼香が大事にしていることを。
今は一緒にいるのが当たり前。でもあと少ししたら、霜の隣には別な女性が並ぶのだ。
確実にそれは涼香ではない。




