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雛の男衆

 緑濃い葉をかき分けて、北門きたかどそうは枝の中に顔を突っ込んだ。


「いてて、捕まった」


「ああ、もう霜ったら。枝に髪が絡まってるじゃない」


 光崎こうさき涼香りょうかが着物の袂を手で押さえながら、霜の頭に手を伸ばす。



 涼香は背伸びをして、霜の柔らかな髪に指を差し入れた。


 初夏の早朝は、まだ空気がひんやりしている。

 霜の地肌のぬくもりに触れてしまい、涼香は慌てて手を引いた。


「ほら、取れた」


 とくん、と高鳴る心臓の音を隠すために、朗らかに言ってみる。


 つい先日まで蛍が飛んでいた庭には、今は青や紅色の絞りの朝顔がちらほらと開いている。


 涼香は夏用の絽の着物をまとっている。

 藍色地に更紗柄の着物は、霜が選び、今朝着つけてくれたものだ。


 指先につまんだ橘の葉を、涼香はくるくると回した。


 母屋と渡り廊下でつながった離れで暮らす涼香の元に、霜は毎日通ってくれる。



 十六歳の涼香にとって二十九歳になる霜は、兄のような従兄のような存在だ。


 飛び石にしっかりと足をのせて歩いていたつもりなのに、体のバランスを崩した涼香はよろけてしまった。


「涼香っ」


 霜が、背後から涼香の胴に手を回す。

 スーツ姿のたくましい腕の中に拘束されて、涼香は動くこともできない。

 そのまま、ひょいと霜の肩に担ぎあげられた。


「そんなぁ、荷物扱い? せめてお姫さまだっこがいいのに」


「俺は王子ではないし、お前は姫ではない。まったく手間のかかる奴だ」


 もう。過保護なんだったら、せめてもっと優しくしてくれたらいいのに。


 橘の木まで戻った霜は、まず草履をそろえて、その上に涼香を立たせてくれた。


 つまずいたせいで乱れてしまった髪を、霜が手櫛で直してくれる。


 高校生の涼香に対して、霜は大学の准教授だ。

 きっと彼から見たら、手のかかるお子さまなのだろう。


「さて、本日の分はどこだ」


 霜は腕組みして、橘の木全体に目を配る。


 光崎家の庭に植わっている一本の橘は特別な木だ。

 普通なら冬に実をつけるはずなのに、毎日一つずつ実がなるのだから。


 いくら瀬戸内沿岸で気候が温暖とはいえ、大みそかだろうが正月だろうが年中無休だ。


「今日はないかもしれないわ。うん、きっとないに決まってる」


「それは百パーセント、希望だな。はい、残念。今日も実ってたぞ」


 木のてっぺんを指さして、霜はにやりと笑った。


「いくら橘の実が酸っぱいからって、食べなきゃいけないのは決まってるんだ。あきらめるんだな」


 霜が実をもいで、涼香にさしだしてくる。

 蜜柑よりも小ぶりで、ころんとした淡い黄色の果実。見ているだけで唇を尖らせてしまう。



「ほら、口を開けるんだ」


 ひやっとした果皮が唇に触れたとたん、反対に頬が熱くなった気がする。


 ふいに水のにおいが涼香の鼻をかすめた。潮の香りとは明らかに違う、清冽な泉のにおい。

 涼香は身をすくませて、やしろから目を背ける。


「どうかしたのか?」


 だめ、落ち着かなくちゃ。霜にも誰にも、この気持ちがばれてはいけない。


 涼香はなんでもないと首を振って、霜を安心させるために微笑んだ。

 一瞬、霜が眉根を寄せたが、すぐに元の表情に戻った。


 ひなと呼ばれる御饌みけである涼香が、霜と恋仲になるなんてあってはならないことだ。

 雛は神使しんしの食べ物なのだから。


「本当に全然甘くないのよ。霜も食べてみたらいいわ」


「……俺には橘を口にする権利はないからな。ほら、あーん」


 そんな仏頂面で「あーん」って言われても。


 涼香はためらいながらも、霜が持つ果実をかじった。

 爽やかな香気が空気に溶けるのと同時に、苦みと酸味が口中に溢れる。


 霜が手の位置を下げたので、涼香はうつむいて橘を食べ続けた。

 うなじに視線を感じて顔を上げると、なぜか霜が横を向いた。


「あ、そうだ。霜、おなかすいてるでしょ。おにぎり作っておいたんだ。食べて、食べて」


 ぱたぱたと草履を鳴らしながら、涼香は母屋へと向かう。台所に飛び込んで、冷蔵庫からタッパーを取り出し、すぐに庭へと戻った。


「えへへ、だし巻き卵も作りました。霜、好物よね」


「それは、ありがとう」


 霜ははにかむような笑顔を浮かべ、涼香が差しだした箸を手にした。


 ああ、頑張って作ってよかった。

 夜中の一時までかかったけど、人間やればお弁当の一つや二つくらいは作れるのだ。


 タッパーの中には、関西風の俵型のおにぎりが並んでいる。

 他にはだし巻き卵と、なすときゅうりの漬物だ。


「なんでおにぎりなのに、硬い音がするんだろう」


「まぁまぁ細かいことは気にせずに、だし巻き卵もどうぞ」



 霜は、黄金色に輝くだし巻き卵をまじまじと見つめている。


「どうだ? 涼香も腹が減ってるだろ。少し食べてみるといい」


 タッパーと箸を差しだされ、涼香は「じゃあ、一つだけ」と言っておにぎりを取り出した。

 ちょっと……三分の一くらい海苔が破れてしまっているけど、味は変わらないはず。


「おいしいわよ」


 がりぼりと口の中で音がするが、気にしない。

 塩気の加減もちょうどいいし、中に入っている梅干しも酸っぱすぎず、いい感じ。


「顎と歯が丈夫なんだな」


 箸で持ち上げただし巻き卵を、霜が口にする。かりかりと砕けるような音がする。


 そういえばだしに甘みを加えるのに、砂糖が見当たらなくてザラメを使ったんだっけ。

 少しばかり、多めに入れてしまったかもしれないけど。


「あまっ。そうか、涼香は卵の味見ができないんだったな」


「大丈夫。勘よ、勘」


 そういうことは勘が鋭い人間が言うセリフだと言いながら、霜はお弁当を残さずたいらげた。

 眉間に盛大にしわを寄せながら。


「ごちそうさま。俺はもう仕事に行くから、涼香も学校へ行く用意をしなさい。一度家に戻ってくる。その間に制服に着替えておくんだぞ。着物はちゃんと衣桁にかけて」

「分かってるって。着付けは苦手だけど、脱ぐのは大丈夫だから」


「そういうことは、年ごろの娘が言うもんじゃない」


 霜は口をへの字に曲げた。


 変なの。普段から着付けのたびに下着としての肌襦袢姿を見ているのに。



 ばさばさと羽音がして、涼香は顔を上げた。

 近くの川から飛んできたのだろう。優美な白鷺が、晴れ渡った空を横切った。


「今日は私も自転車で行こうと思うの」


「却下」


「ええー、また? この間は雨が降りそうだからダメ、その前は雨の後で路面が濡れているからダメ。今日はなんの理由なの」


「今日は風がある。セーラー服の襟とスカートがあおられて、ハンドル操作を誤る可能性がある。学校へは歩いていくか、俺の自転車の後ろに乗るかの二者択一だ」


「そんなぁ」


 涼香の通う高校と霜の勤務先である大学は系列校なので、敷地が隣り合っている。


 歩くには遠く、車で通うには駐車場が足りないので、霜は基本的には自転車通勤で、雨の日は車を使用しているのだが。

 涼香が自転車で通うことを一向に認めてくれない。


(お父さんもお母さんも、姉さんも自転車で通えばって言ってくれるのに)



 でも霜の言うことが絶対であり、最優先なのだ。


 彼は涼香が生まれた時から、雛男衆ひなおとこしと定められているのだから。

 雛男衆は、雛がその務めを果たすためにすべてのことに気を配る。

 自分の生活を犠牲にしてまでも。


「私がいつまでもいると、霜は恋もできないのよね。霜は職務に忠実だから、必要以上に構ってくるけど、実際は私のことなんて何とも思ってないみたいだし」


 手をひらひらと振りつつ、背中を向けて門をくぐる霜を見送りながら、涼香は肩を落とした。

 お姫さまだっこじゃなくても、せめて小麦や砂の入った袋みたいに担ぎ上げるのは勘弁してほしい。


 夕方には花弁が薄紅に染まる酔芙蓉も、今はまだ白い。

 きっと頬を赤くしているのは自分ばかりで、霜は一緒にいても心が酔うことなんてないのだろう。

 朝の酔芙蓉そのものだ。


 門へと続く飛び石を小走りで進み、霜の後ろ姿を見送る。

 後部タイヤの上に荷台のついた自転車。

 買った時はついていなかったのに、わざわざ後で購入したようだ。


 格好悪いかもって思ったけど、荷台をとりつける霜の様子が真剣で口をはさむことはできなかった。



 竹林沿いの小道を走る自転車が小さくなっていく。

 霜が振り返ることはなかったけど、涼香は門を出て着物の袂を押さえてそっと手を振った。


 すぐに自転車は海沿いの道を曲がった。


 庭を囲む長い塀の外には、細い注連縄しめなわが渡されている。

 吹く風に、薄い和紙でできた紙垂しでがさらさらと揺れる。


「そういえば、霜はいつもうちに来るときに仕事の用意はしているはずなのに。どうして家に戻ったのかしら」


 大気が緑に染まるような竹林の前で、涼香は首を傾げた。


 ふいに、何か所も穴の開いた竹が目に入った。竹を伐るのならのこぎりを使うだろうに、刃物のようなものでめちゃくちゃに突き刺したような痕だ。


 ぞくり。

 背筋を悪寒が這い上がる。


 緑の表皮がえぐれ薄茶色い筋がちぎれている。

 ぽっかりといくつも空いた空洞は、異様に暗くて恐ろしい。


「きっと短気な人が、竹が茂っていて邪魔だと思ったのよ」


 顔をひきつらせながら後ろに下がると、かかとにこつんと当たる物があった。


 鈍く光る硬い物。それは草にうずもれた花鋏はなばさみだった。

 放ったらかしにしていたら、錆びてしまうのに。


 拾い上げると、ずしりと重い鋏は朝露に濡れていた。


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