奉饌の儀 1
禊は、社の中の泉で行われた。
着物と袴をはいたままで涼香は泉に入り、身を浸す。
巫の衣装をまとった真海が、濡れた体を拭いてくれるが、着物はぴったりと体に張りついたままだ。
「なんとみっともない。そこの巫、職務怠慢だ。なんだ、この注連縄は。ぼろぼろではないか」
「申し訳ございません」
いきり立つ実春に、真海はしおらしく頭を下げる。
「新人なので慣れておりません。不手際をお許しください」
腰の低い真海は気持ち悪いけれど。
さすがに大事な儀式の最中で、実春と喧嘩はできないと考えてのことだろう。
そういえば社の掃除や竹を供えるのを真面目にやっていた真海が、注連縄にはまったく注意を払った様子がなかった。
むしろ面倒だから放っておけ、みたいな調子だ。
涼香が歩くたびに、水の雫がぽたぽたと落ちて木の渡り廊下を濡らしていく。
「北門霜。お前は何だ、女みたいな巾着を手にして」
「これには新しい足袋が入っている。もし雛の足の裏が汚れたら、予備にと思ってね」
「ふん、巫もそれくらい潔斎に心を配ればよいものを」
不機嫌そうに口を歪めて、実春は言い捨てた。
いつもの幣殿ではなく、奉饌の儀は本殿で執り行われる。
さすがに本殿の注連縄と紙垂は、真新しいものに取り換えられている。
磨き上げられた床は、壁際に点された行灯の明かりを映し、夢幻へ誘うかのようだ。
祭壇には時久が座っていた。
足をぶらぶらさせて、いつものように白い開襟シャツと黒い五分丈のパンツ姿で。
「もう零時を過ぎたかな? お誕生日おめでとう、涼香」
「あ、ありがとうございます」
思わぬ言葉をかけられて、涼香は拍子抜けした。
「結局、君はなにもできないまま、この日が来てしまったね」
残念だよ、と時久は呟きながら、正座する涼香の前に進み出た。
時久の顔が近づいてくる。
幽かに開かれた薄い唇が、今にも触れあいそうだ。
これほど近づいても、体温を感じさせない冷やかさ。
「言い残すことは?」
「ありません」
「ふーん、意外と肝が据わってるんだねー」
金色の瞳がすがめられる。
何事もなすことができなかったくせにと、呆れたような表情なのに、どこか寂しげにも見える。
「けどさー、なにか一言くらいあるんじゃないの?」
「ないです。だって、ここで果てるわけじゃないですから」
ぴくり、と時久の眉が動く。
涼香の言葉に慌てて動いたのは実春だけだった。
霜も真海も動かない。
いや、霜は藤色の巾着を前につきだした。
まるで流れるような動きで紐をほどき、中から鈍く光るものを二つ取りだす。
その口が「変身」とか「装着」とか動いたような気がした。
先端が尖ったそれは、花鋏だった。
「姉さんの鋏……」
霜は一つを真海に手渡した。
真海も事の成り行きを了承しているのか、二人は左右に分かれて駆けだす。
「何をするのですか。奉饌の儀を壊すつもりですか」
「あたしは、そのつもりで来たのよ」
叫ぶ実春に、真海は大声で答える。
「涼香も須賀野も、俺も、皆同じ気持ちでこの儀式に臨んでいる。おそらくは時久さまも」
「君には、その名で呼ぶことを許した覚えはないけどねー」
ふん、と時久は鼻で笑うが、霜の行為を止めようとはしない。
そうか、注連縄だ。
本殿にも幣殿にも泉にも、そして家の周りに張られた何重もの注連縄が、時久を閉じ込めているのだ。
これまでずっと一週間ほどで、すべての縄は新しく張り替えられ、どこにも綻びのない結界となっていた。
翼をもつ時久が飛べぬように。
与えられる食料は人の魂のみ。
人を食らうという穢れを身に宿した時久は、結界に触れるとその身を焼かれる。
逃げられるはずがない、常世に至る道は最初から閉ざされているのだから。
「やめるのです。日輪の神の加護を失ったら……」
「光崎の祖が守りの契約を交わした海民はもういない。水軍は、とうの昔に消えた。ならば役目を果たしてくれた時久さまに、感謝の念を伝えてお帰しすべきではないのか」
「北門ごときに、命令されるいわれはありませんよ」
ぎりっと実春が歯ぎしりする音が聞こえる。
「北門は北に通ずる門の守護者。海に属する光崎とは違い、陸に属する一族。そもそも俺たちはあんたら光崎一族に仕えてるんじゃなくて、雛に仕えているんだ」
不敵な笑みを浮かべると、霜は鋏の刃の間に細い注連縄を入れた。
じゃきんっ!
力を失った蛇のように、縄がゆっくりと床に落ちる。
「須賀野。君は幣殿を」
「分かったわ。だーいじょうぶ、任せといて。この日のために注連縄を換えずにおいたのよ。くたびれたくらいが、ちょうど切りやすくていいわ」
あろうことか緋色の袴を両手でたくし上げ、惜しげもなく素足をさらして真海は本殿を駆け抜けた。
「時久さま、行きましょう」
涼香は時久のきゃしゃな手首を掴むと、立ち上がった。
幣殿から渡り廊下に出ると、右側部分の縄はすでに断たれていた。
「他に切れるものはないの? 鋏とか、カッターナイフとか」
「涼香。あんたにしかない武器があるじゃない」
武器? 先を進む真海の言葉に、涼香は首をかしげるしかない。
「その強靭な歯と顎で、食いちぎってやりなさい」
「そ、それはあまりにも不謹慎っていうか。一応私も乙女なんだから、そんな肉食獣みたいなこと」
「大丈夫、あんたなら肉食獣にも噛みつける!」
親指をびしっと立てて、真海がウインクする。
それ、全然褒め言葉じゃないし、嬉しくないんですけど。
どたどたと幣殿を走る音。
いつもは静かに歩く実春が、取り乱して追ってきているに違いない。
すぐにボディガードに連絡がいくだろう。光崎の本家にも応援を頼んでいるに違いない。
時間がない。まだ泉や家の周りにも結界はあるのだから。
「ああ、もう。知らないんだから」
涼香は細い縄を掴むと、歯を立てて噛み千切った。
藁の繊維が口の中に残って気持ち悪い。
なんか砂でじゃりじゃりするし。
もう、あとで絶対にうがい薬で百回くらい口をゆすぐんだから。
「……野獣」
「すみませんね、美少年と野獣で。ビーストと呼んでくださって結構ですから」
ムキになって答えると、とたんに時久が笑い出した。
嫌味な笑みじゃない、屈託のないまるで本当の子どものような笑い方だ。
「いや、嫌いじゃないよー。見かけによらないと思ってさ。くちばしだけじゃなくて、鋭い牙をもつ雛もいたんだって、感心してるんだ」
褒められているようには、全然聞こえないんですけど。
「涼香。君みたいにクセのある子なら、たぶん僕はずっと覚えているよ。常世に帰ってもね」
「陸子さんみたいに、ですか」
「そうだね。目玉を素直に差しだす彼女も、相当妙だったから。忘れられないね」
ずいぶん結界が薄れてきたようだと、時久は空を仰いだ。
「外へ出ましょう。時久さま」
涼香は手を差しだした。
「これは、なんのつもり?」
「手をつなぎませんか? 一度くらい、いいと思うんですよ」
「あきれた子だよねー。神使と手をつなぐって、考えるかなー」
ぶつぶつと文句を言いながらも、時久は涼香の指に、その白く細い指を絡めた。
「時代が下れば、雛も変わるのかな。僕に名前をつけてみたり、人の子みたいに扱ったり」
ふふっと涼香は笑みをこぼした。
渡り廊下も泉も、あちらこちらで切断された縄が落ちている。
「涼香。君、濡れたままで平気なの?」
「びっくりしました。まるで人みたいなことを仰るんですね」
「なんだよー、それ。僕が心配したらおかしいってこと?」
「まぁ、普通じゃないですよね」
「おかしい奴に、おかしいって言われたくないな」
時久は、子どもみたいに頬を膨らませた。
庭の飛び石を進んでいると、急に時久が「あっ」と声を上げる。
その視線の先には、橘の木があった。
橘は、篝火に照らされている。けれどそれとは明らかに違う、仄白い明かりが橘の木を包む。
髪の長い神々しい女性の姿が、一瞬浮かんだ気がした。
時久は彼女に手を伸ばしたが、その指はただ幹に触れるばかりだ。
「僕は行くよ」
返事はない。
友を救ってほしいと確かに聞いたのに、今の橘は沈黙するばかりだ。
「もう、話したくもない?」
時久は両手を幹に添えて、顔を上げた。
切なげな瞳、本当はこの橘も一緒に連れていきたいに違いない。
けれど木は動くことができない、時久を見送るしかないのだ。
ふいにぽとりと何かが落下してきた。
緑の草の中に落ちていたのは、黄色い橘の実だった。
「どうして? 今日の分はもう食べてしまったのに。一日に一つしか……」
言いかけて、涼香ははっとした。
「時久さま。木は移動できないけれど、種なら共に帰れるかもしれません」
そうだ、霜が話していたではないか。
この木は種子の状態で、この地に下ろされたのかもしれないと。
「じゃあ、種を僕に託すために? そのために力を使い、僕と話すこともできなくなったの?」
時久は、掌にのせた果実を愛おしそうに撫でた。
「ずっと一人だと思っていた。結界にとらわれ、己の境遇を呪っていた。でも僕は一人きりじゃなかったんだ。ときじくがいた、陸子がいた。それに涼香もいた。巫も……志津香という娘は、僕の身を案じて薬や竹葉酒を与えてくれていたのに、すべて無碍にしていた」
馬鹿だったな、ほんと。愚か者は自分だよ。
自嘲的に時久は呟いた。
「どうして時久という名を陸子が僕にくれたのか、考えてごらんといったよね。この名前は、ときじくに合わせてつけてくれたんだ。ときじくは、いつでも。時久は、いつまでもの意味だよ」
時久はシャツの胸ポケットに、ころんとした実を入れる。
「涼香の答えは、あながち間違いじゃなかったよ。大切な友と、長い時の果てに故郷へ戻れるように、と。常世に、ときじくの種をまくよ。僕が育てるんだ」
涼香はうなずいた。
あとは、家の塀に沿って張られている注連縄だけだ。
その時、庭の外から悲鳴が聞こえた。




