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ときじく

 涼香は、離れの自分の部屋にいた。


 白地に細い水色のストライプのワンピースをまとい、正座をしている。

 すでに日は落ち、辺りは夜の気配に包まれている。


 目の前の畳に置かれているのは、今宵の儀式の衣装だ。


 奉饌の儀をなくし、神使を解放できたらと考えていた。


 けれど霜は囚われたままで、実春がよこした見張りによって行動を制限され、真海との会話は逐一録音された。

 筆談した紙は没収され、すべて本家に届けられる。


 さすがの真海も、ただおとなしく社の掃除をするしかなく、涼香は一人で橘の実を摘んで食べていた。

 苦くても酸っぱくても、文句を言える相手もいない。


 結局、何も変わらないのかもしれない。


 これまで見上げれば、いつも隣に霜がいた。

 それが当たり前で。当たり前のことがとても幸せなのだと、ようやく気付いた。


「このままお別れになっちゃうのかな」


 次に霜に会ったとしても、魂を失った自分は、彼のことを認識せぬ雛のなれの果てとして島に運ばれるだけなのだろうか。

 せめて一言、お礼を言いたい。

 霜が座敷牢から出されないのだとしても、思いだけでも伝えたい。


 涼香は慌てて立ち上がると、勉強机に向かった。


「メモ、メモはどこなの?」


 暗がりで探してみても分からない。

 廊下を歩く足音が聞こえてくる。

 もう儀式の準備をしないといけない時間だ。実春が来ているのかもしれない。


 本家の者は奉饌の儀を、百年に一度の神使の食事と蔑んでいるけれど。

 霜に不信を抱く実春は、儀式に立ち会うつもりなのだろう。


「早くしないと。何も残せない」


 学校のノートをひっぱりだし、表紙にペンで走り書きをする。


「入りますよ」


 実春の声に、涼香はびくっとした。

 乱れた髪を手で整え、急いで床に正座する。


「どうぞ」


 声が上ずらないように、深呼吸して実春を招き入れる。

 明かりのついた廊下に人影は一つ、二つ。

 またボディガードかと思ったが、彼ほど大柄ではない。


「明かりもつけずにいるのですか。支度ができたら、社においでなさい」


 実春は部屋には入らずに、彼の背後にいた人だけが中に入る。

 少しやつれた顔、柔らかくふわっとした髪。

 手には着付けの道具だろうか。巾着を持っている。


「……霜」


「やぁ。心配かけたな」


  心配したなんてもんじゃない。

 何日もろくに眠れなかったし、蔵に行こうとしたら見張りに捕まって、部屋に戻されて。

 二度と霜と会えなくなるんじゃないかって、不安で、心細くて。


 言いたいことはたくさんある。

 なのに何一つ言葉にならない。


 唇が、勝手に小刻みに震えてしまう。

 歯を食いしばったのに、込みあげてくる嗚咽をこらえることができない。

 涼香は両手で顔を押さえて泣いた。


「嫌い。大っ嫌い」


「うん、そうだな」


 大きくて暖かな手が、涼香の頬に触れてくる。


「約束しただろう? 俺と会えなくても泣くなって」


「泣いてなかった……会ったから、泣いたの」


「まるで幼稚園児だな。涼香、入園式の翌日に登園するときに、俺が送っていったけど。園にいる間は元気にしていたらしいのに、俺が迎えに行ったとたん大泣きしたっけな。保育士さんから聞いてたぞ」


「うっ、卑怯よ。そんな小さい時のこと、覚えてないもの」


「だな。でも涼香はずっと変わっていない。俺がいないときは、気を張ってるんだろ」


 断定されて悔しいけれど、その通りだから言い返すこともできない。


 長い指が涙をぬぐい取ってくれる。

 霜の指先が睫毛に触れて、涼香は息が止まる心地がした。


「そう。あいしている。たとえあなたのことをわすれたとしても、ずっとすき」


「えっ?」


 霜が棒読みの口調で呟いた言葉に、涼香は頬がかっと熱くなるのを感じた。


 どうして心の中が読めるの? 超能力なの? 念力なの?


「って、書いてある」


 霜の視線は、机の上に置かれたノートに向けられていた。

 そこには、さっき走り書きした文字が残されている。


「あっ、あれは違うの」


「違うのか? 涼香の気持ちじゃないのか?」


 至近距離で真顔で問いかけられて、涼香は息を呑んだ。


「……違わない」


 ふっと優しく霜が微笑んだ。


 すごい、最近は笑顔の安売りだ。


 霜が身をかがめたと思うと、唇が軽く触れあった。


 暗い部屋に満ちるのは、檸檬水のような月明かり。

 見つめてくる霜の瞳に、月に照らされた涼香の顔が映っている。


「明かりを」


「つけなくていい」


「でも、暗いわ」


「電灯をつけた瞬間に、二人きりの時間が消えてしまいそうだ。だから、明るくなるのが……怖い」


 涼香の頬を撫でる、霜の手が微かに震えている。


 もし奉饌の儀を潰すことができなければ、二人の時間は失われる。

 神使を解放することに、当の時久からまだ同意を得ていない。

 しかも解放の手順も知らないし、本家の実春もいるのだ。


「本当は、涼香を連れて逃げようかと何度も思った。登校途中に自転車ごとフェリーに乗ってしまおうか、と」


 霜は愛情と義務の間で揺れていたのだろう。

 もう何年間も、ずっと。


「私も逃げたかった。でも、それじゃだめなの。時久さまは、陸子さんの右目を食べたことを今も悔いているもの」


 あれは大祓の夜だったろうか。

 苦しげに、でも愛おしそうに自分の腹部を時久はさすっていた。


 そこに今も陸子がいるかのように。


 陸子にとっては、雛男衆である相雨も神使である時久も、どちらも大切だったのだろう。


 だが時久に魂を与えるために残れば、相雨を救えない。

 相雨を助けるために家を出れば、時久を飢えさせてしまう。


 時久に、己の右目を与えたのは苦渋の選択だったのだろう。どちらも生かしたいとの。

 涼香が逃げ出すことは、陸子の思いを無にするのと同じことだ。


 時久は地に縛り付けられているから、人の魂を食べなければ生き延びることができない。

 ならばそんなものを食べなくても済むように、本来彼がいるべき場所に戻してあげなくてはならない。


「着付けを始めよう」


 涼香はうなずくと、背筋を伸ばして立った。

 上から順にボタンをはずして、ワンピースをするりと畳の上に落とす。


 たとう紙に包まれていた半襦袢を霜は取りだし、下着姿の涼香に着せる。

 襦袢の上に白衣をまとわせ、腰紐を結んでいく。


 着物を着せつけるよりも簡単なはずなのに、霜の手つきはゆっくりとしている。


 今、この時を惜しむように。


 涼香に白袴をはかせ、前後の帯をそれぞれ結んでいく。

 しゅ、しゅっという絹が擦れる音。


 それから涼香は椅子に座り、足を霜の前に差しだした。


 ひざまずいた霜が、真新しい足袋をはかせてくれる。


 霜の長い指が、涼香の素足をかすめる。

 慣れた所作のはずなのに、今宵は霜の一つ一つの動きから目が離せない。


 風が出てきたのか、風鈴がちりりと鳴った。

 浜に打ち寄せる波の音も聞こえる。


「完了だ」


「うん。行きましょう」


 差しだされた霜の手をとって、涼香は立ち上がった。





 離れから社へと至る道には、篝火がともされていた。


 涼香が手を差しだすと、霜が恭しくその手をとる。


 さらさらと竹の葉が風にそよいでいる。

 篝火の上を舞うのは白い蛾。火の粉を恐れもせずに、明かりに引き寄せられていく。

 篝火の光が届かぬ場所は、闇がいっそう濃く見える。


 霜は橘の木の前に涼香を導くと、手を伸ばして実を摘んだ。

 彼はまだ巾着を持っている。

 見覚えのある藤色の縮緬でできた袋。

 着付けのためかと思っていたけれど、今日は帯留めも帯締めもいらなかったのに。


「どうなるにしても、これが私の食べる最後の実ね」


「最後の、という部分だけは同意だ。だが、いい方に向かうに決まっている、いや向かわせる」


 淡い黄色の橘の実を受け取ろうと涼香は両手を出したが、いくら待っても掌に果実は載らない。


「はい、口を開ける」


 今日は食べるのを嫌がったりしなかったのに。

 口調はいつもと同じなのに、霜の顔は仏頂面ではなかった。


 本当は橘を口にするのは嫌いじゃなかった。

 味は、いまいちだけど。霜が毎日付き合ってくれたから。


 橘のつるりとした果皮に歯を立てると、口中に香気が溢れた。

 苦くて、酸っぱい。

 ずっと食べ続けている……今となっては懐かしい味だ。


 涼香は緑の葉を茂らせる木に手を伸ばした。

 葉の下に生えた棘をよけながら、幹に触れる。ごつごつとした樹皮の手触り。


「大事な実を食べ続けていたのに、文句ばっかり言ってごめんなさい」


 この橘は、何人の雛を見送ってきたのだろう。


 ――戻っておいで涼香。


 幽かな光に包まれた、白くたおやかな手が涼香の頬に触れた。

 訳も分からず瞬きをする間に、その手ははかなく消えた。


(聞いたことがあるわ、この声。いつだったか、夢と現のはざまで「陸子」と呼んでいた)


 陸子を失いたくなかったのは、時久や彼女の男衆だけではない。

 橘の木は代々の雛を愛し、なれの果てとして島へ送られる雛の姿に心を痛めていたのだ。


「橘は、ときじくのかぐのこのみ、と呼ばれていた。垂仁すいにん天皇が、田道間守たじまもり非時ときじくかぐを捜しに常世に遣わしたという。不老不死の霊薬だ。彼は戻るのに九年かかった。だがすでに垂仁天皇はみまかられていた。田道間守は悲しみのあまり死んでしまったという。人々は彼を偲んで、ときじくのかぐのこのみを田道守の花、タチバナと呼ぶようになったらしい」


「常世って?」


 霜の説明を聞いていた涼香は、首を傾げた。

 耳にはするけれど、詳しくは知らない。


「現実世界とは異なる神域だ。神使や橘の故郷といえるだろう。この橘は地に根を張っているから、ここより動くことはかなわないが。神使は常世に戻ることも可能なはずだ。もしかしたらこの木は、種子の状態でかもしれないが、神使と共に地に下ろされたのだろう」


「あなたも帰りたい?」


 涼香が幹を撫でると、風はやんでいるのに葉がざわざわと揺れた。


 ――わが娘。友を救っておくれ。


 ああ、そうだ。己が実を与えるづけることで、この橘は雛をはぐくみ続けたのだ。

 自分の娘たちともいえる雛を、時久を生かせるために送り出す。


 永遠に続くであろうその日々が、苦しくないわけがない。

 涼香は、強い瞳でうなずいた。


 そして霜に導かれ、朱色の鳥居をくぐる。

 庭に生えた草の中では、すでに秋の虫が鳴いていた。


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