座敷牢
蔵の中は湿っぽくてかび臭いにおいがする。
(反省した。たとえ照れ隠しとはいえ、涼香を荷物のように担ぐのは今後やめよう)
ボディガードの肩に乱暴に担がれた霜は、これからはお姫さまだっこを心掛けることを誓った。
周囲に背の高い木々が茂っているからだろうか。
小さな窓から入る光は弱々しい。
それにしても間に合ってよかった。
真海が電話を入れてくれたおかげだ。
妙な電話だった。通話になっているのに真海の声は遠く、涼香に逃げろとの指示が聞こえてきた。
講義のない時間だったのが幸いした。
すぐに自転車で駆けつけることができたから。
「連れて行け」
「は、はい」
蔵を開いて中で待機していた涼香の母親が、どさりと床に落とされた霜に駆け寄る。
舞い上がった埃が、かすかな光を受けている。
「霜さん、いったい何を」
「お静かに」
掠れた声で尋ねてくる母親に、霜は口の前で人差し指を立ててみせた。
ボディガードが蔵を出ていくのを確認してから、二つ並んだ座敷牢へと向かう。
手前は空。ここに霜が入ることになるのだろう。
奥まった方にある座敷牢の格子の前には、食器の載せられた盆が置いてあった
。柔らかそうなだし巻き卵も味噌汁も、ご飯も漬物も手を付けた様子がない。
「開けてください、中に入ります」
「ですが、霜さんは隣の牢に」
「用が終われば移ります。何もしませんから」
母親はしぶしぶうなずくと、南京錠に鍵をさした。
座敷牢は北側にあるせいか、思っていたほど暑くはなかった。
小さな窓が天井近くにあるだけで、おぼろな四角い光が板敷きの床に落ちている。
「志津香さん」
霜が呼びかけると、牢の端の部分でびくりと動く気配を感じた。
志津香は闇に隠れるように、身を潜めている。
二人きりで話がしたくて無茶をしたけれど。
彼女の気持ちを考えると、無理強いはできない。霜は床に座り、膝を抱えた。
「食事、食べていないんですか?」
返事はない。
「体がもちませんよ」
話しかけても、果たして志津香は聞いているのかどうか。それすらも分からない。
涼香を襲った時は、半狂乱になっていた志津香だが、すでに興奮は収まっているようだ。
反対に静かすぎて心配になる。
「……子は」
蚊の翅音のようなかすかな声。
うっかりしていると聞き逃しそうな呟きに、霜は首を横に向けた。
「あの子は、どうしていますの?」
座敷牢に入れられてから、初めて喋ったのかもしれない。
何日も声を出していなかったであろう志津香の言葉は、上ずってかすれていた。
「元気ですよ。ただ時々、あなたのことを考えているようですが」
真海ならば、涼香の気を紛らわせることができる。
それは目論見通りだが、それでも姉に襲われた事実が頭から消えるわけではない。
嫌われ、殺されそうになり、それでも涼香は姉のことを思う。
明るく振る舞ってはいるけれど、しょせんはうわべだけのこと。
「……怪我は、ひどかったのでしょうね」
暗闇に慣れた霜の目には、膝の上できつく拳を握りしめる志津香の姿が映った。
いつもは艶やかな髪はばさばさに乱れ、目の下や頬は落ちくぼんでいる。
そうだ、涼香に「忘れろ」なんて無責任なことが言えるはずがない。
凶行に及んだ志津香ですら、妹のことを案じているのだから。
涼香を殺しても、傷つけても後悔しないであろうほどに、憎しみは激しかったのに。
「怪我はありません」
ほっと息をつく気配が伝わってくる。
「志津香さん、あなたは我を忘れたようになっていたけれど。それでも本気で涼香を殺そうとは思っていませんでしたね」
「いいえ。私はあの子が憎かったです。雛というだけであなたから無条件で愛され、それを当たり前と思っていることが許せませんでした」
でも、と志津香は声の調子を落とす。
「霜さんは、あの子に献身も愛情も捧げてばかりで。あの子からは何も与えられていない。どうしてそんな一方的な関係を強いられて、我慢を続けているのだろうと」
「一方的ではありませんよ。俺もたくさんのものを、涼香から与えられています」
無条件で信じてくれることも。
涼香自身は気づいていないだろうけれど、霜を見ると自然に笑顔が浮かんでいることも。
必死で押し隠しているつもりなのだろうけれど、表情に「好きだ」と書いてあることも。
それに、歯が欠けそうなおにぎりも、じゃりじゃりするだし巻き卵ももらった。
たとえ食べ物という名を与えるのが憚られる物であっても、涼香が夜更かしして苦心しながら一所懸命作ってくれた、その心が嬉しい。
「私は、欲しい欲しいと願うばかりだったのかしら」
自嘲的な笑みを、志津香は浮かべる。
その瞳は静かだった。
「志津香さん。俺たちは神使を解き放とうと考えています。あなたにそのことをお伝えしたかったんです」
「私はもう巫ではありませんわ。報告も許可も不要でしょうに」
「それでも知っていてほしかった。真海……須賀野真海という少女は、涼香をサポートしてくれる、あくまでも仮の巫です。あなたのように神事に通じているわけではない」
現に涼香が雛と呼ばれる存在であることも、肉食を禁じられていることもつい最近知ったばかりだ。
――うそ、あたし肉を食べさせちゃったよ。どうしよう。
真海は、真っ青な顔をしてうろたえていた。
「すでに巫の地位を剥奪されている私に、どうこういう権利はありません。ですが、本家が黙っているでしょうか」
「無論、内密に事を進めるつもりです」
霜の言葉に、志津香は首を横にふる。
「あなたに手伝ってほしいと無理なことをお願いしに来たのではないのです。ただ、知っていてほしかった」
「来ないでくださいっ」
突然、志津香が声を荒げた。
「それ以上、近づかないで」
「志津香さん?」
見れば、霜は床に両手をつき、志津香の方へ身を乗りだしていた。
「愚かなことをしでかした、私の顔を見ないでください。意思を尊重されると、いたたまれなくなるのです。あなたも涼香も、私を罵ってくれていい。いいえ、罵声を浴びせ怒りをぶつけてくれた方が、よっぽど楽なのです」
ぽた、と雫が落ちる音が聞こえた。
射し込む幽かな光に、唇を噛みしめながら涙をこぼす志津香の顔がぼうっと見えた。
霜はとっさに視線を外す。
大声で泣きたいのをこらえているのだろう。嗚咽が洩れている。
「……見ませんから、泣いてください」
「いやです。そんな見苦しいこと。これ以上、惨めになりたくないのです」
「目を閉じていますし、背中を向けています。耳も塞いでいますから」
霜は両手を耳にきつくあて、体の向きも逆にした。暗がりの中で瞼を閉じると、自分がどこにいるのかも分からなくなりそうだ。
しばらくは無音だった。
けれど、かすかに号泣する声が届いた。
志津香と隣り合う牢に移って、十日が過ぎた。
床に彫った正の字は二つ。もう八月に入っている。
「明日って、涼香の誕生日じゃないか?」
それはすなわち奉饌の儀が行われる日ということだ。
「鋏を」
「え?」
「私の花鋏を持って行ってください。研いでありますから、よく切れます」
志津香が言い終わらぬ内に、蔵の扉が軋む音を立てて開いた。
「北門霜、出てきなさい。雛男衆としての最後の務めです」
ボディガードと涼香の母、そして真海を伴って現れたのは、光崎実春だった。
実春は、決して薄暗い蔵の中には入ってこようとしない。
顎を少し上げて、涼香の母に座敷牢の鍵を開けるよう命じた。




