赤のヒーロー 2
「いやよ、離して」
はおっていたパーカーを脱いで、男の顔にぶつける。
再び走り出したが、今度はパレオを掴まれた。
薄い布ごと腰をひっぱられ、涼香の体が後ろに傾く。
遠くから、聞き慣れたタイヤの音がした。
あともう少し。それまでは絶対に捕まっちゃいけない。
涼香はパレオの結び目をほどいた。
ふわっと自由になる感覚、男の手には一枚の茶色い布が残されているばかりだ。
その隙を逃さずに、走る。
髪を掴まれないように、一つにまとめて肩から前に垂らしながら。
ほら、聞こえてきた。
「お待ちなさい、逃げたところで変わりません」
「そんなことないわ」
「遅いって叱るべきかしら、それともよく来たって褒めるべきかしら」
真海は、口の端をつり上げて道路を見やった。
逃げ水の揺らめく中を、一台の自転車が走ってくる。
ギャギャギャーっとタイヤが路面にこすれ、ゴムの焼けたようなにおいがした。
そのまま石段の上を見事にジャンプして、自転車は砂浜に着地する。
鍵につけられたいつもの赤いマスコットが、激しく揺れている。
「あのキーホルダー、戦隊モノのレッドだわ」
勇気の象徴、少年達が憧れるヒーローの赤。
「なるほど、確かに涼香にとってはヒーローよね」
自転車には不向きのやわらかな砂地をものともせず、霜の愛車は疾駆する。
「掴まれ、涼香」
スーツの裾とネクタイをはためかせながら、霜が腕を伸ばす。
「霜っ」
片手で器用に涼香を抱きしめ、それでいて砂地でもバランスを崩さない。
急ブレーキをかけて自転車が停まる。
砂が波しぶきのように散った。
「まったく。その格好はどうかと思うぞ」
「ワンピースの水着だから、いいかと思って。長いパレオもついていたし」
「パレオがついていても、身にまとっていなければ意味はない」
うっ。せっかく助けてもらって感激していたのに、どうしてこの場でお説教されないといけないのだろう。
すっごく理不尽だ。
「パレオは、あの人に奪われたのよ」
腹立ちまぎれに、涼香は実春のボディガードを指さした。
黒スーツの男は、ひらひらとした布を手にしている。
パーカーとパレオだ。
「ほーう、いい度胸だ。荷台に座って、しっかり俺に捕まっていろ、涼香」
「な、なにするの?」
「女性の衣服を剥ぐとは、言語道断。正義の怒りを受けるがいい」
覗き見た霜は不敵に笑みを浮かべている。
これって正義というよりも悪人だ。
イーッとか言う全身黒タイツの皆さんを操る幹部的な、なにか。
ああ、でも霜の中で燃え盛る正義心は、戦隊のレッドのものなのだ。
どりゃああ、と雄叫びを上げながら霜は自転車を反転させて、力任せにこいだ。
「うわ、く、来るなー」
「来るなと言われて、ああそうですかと引き下がるヒーローがいるか」
どかっと派手な音がして、続いてひどい衝撃に襲われた。
頭が上下にふられて、脳まで揺れてしまいそう。
恐る恐る下を見ると、なぜか足下が黒くて平らだ。
砂浜のはずなのにと足を動かしてみると、その黒いものはよれて、布であることが分かった。
「きゃあ。霜、ボディーガードさんを轢いてるわよ」
「そりゃそうだ。そうなるように意図したんだからな」
得意げに言われても、これじゃあやっぱり霜が悪役としか思えないんですけど。
霜は自転車から降りて、ボディガードの手からパーカーとパレオを奪い、その二つを涼香に着せた。
「簡単にほどけるから逃げられたとはいえ、本来の役目を果たしていないな。この布は。長さもいっそ足首まであった方が好ましい」
ぶつぶつと文句を言いながら、涼香の膝まで隠れるようにパレオの位置を調整する。
「……君、私たちのことを馬鹿にしているのかな」
ぱしん、ぱしんと苛立たしげに閉じた扇を掌に叩きつけながら、実春が顔をひきつらせている。
そのたびに扇子に巻かれた細い糸の先端が、激しく揺れている。
「これだから北門の人間はいけない。独断で巫を変えたこと、雛を自由にさせすぎたこと。雛をさらった先代の罪もある」
「違います。先代は、雛に救われたのよ。雛は誰かに頼まれたわけでも、そそのかされたわけでもなく、自分の意思で出ていったんです」
涼香は勇気をふりしぼって、実春に反論した。
本家の指示がすべてだと思っていた。
けれど地に繋ぎ止められているという話を時久から聞き、本家と神使の乖離を知ってしまった。
「それでも雛を社へ帰すのが、男衆の義務ですよ」
「わ、分からずやっ。時久さまがどんな思いで、陸子さんの目を食べたのか知らないくせに。当主だからっていばっていても、全然社に来ないじゃない。時久さまに会おうともしないじゃない」
「私が社へ?」
ふっっと実春が鼻で嗤う。
「馬鹿馬鹿しい。社の管理は分家の仕事ですよ? せいぜい神使の機嫌を取って、光崎の名を落とさぬように気を配ることですね。なんなら涼香、君も陸子を見習って神使に目玉か腕でも与えますか? 肉食を禁じ、橘の実を食い続けた君は、さぞや臭みもなくておいしいでしょうね」
「そこまで涼香を侮辱するか。それにお前、気づいていないかもしれないが、とことん神使のことを蔑んでいるぞ。何さまのつもりだ」
霜がにらみつけると、実春は空を仰いだ。
「日輪の神に祈り、供物を捧げ続けた先祖は、尊き神が降臨なさるのを待っていた。けれど遣わされたのは、貧相な使いでした。だが粗雑に扱えば神の不興を買う。この地と海に災いがもたらされるかもしれない。光崎家は神使を粗略にはできないのですよ」
「だったら、お役目ありがとうございましたと常世に帰せばいいじゃないか」
「どうしてですか?」
よほど霜の言葉が思いがけなかったのか、実春は細い目を丸くする。
「人質がいるからこそ、日輪の神はこの地に目をかけるのですよ。瀬戸内海は多島海ゆえに潮の流れが急ですが、この辺りは海が狭くとも潮は穏やかです。日の光にも恵まれ、それらはすべて光崎が神の加護を受けているからに他なりません。光崎あっての平穏です」
「そうだな。神使と光崎の分家のおかげだな。少なくとも本家は、直接かかわってはいない。面倒は分家に強いて、おいしいところだけを持って行ってるんだ」
忌々しげに霜は吐き捨てた。
「何ですって」
「図星だろ。平安の頃から一度でも、本家の娘が雛に選ばれたことがあるか? 神職だって、今は分家しか携わっていない。あんたをはじめとする本家の人間は、企業経営だの県会議員だのと、お忙しそうだ。そのくせ口は挟んでくるよな。自分たちは高みにいるくせに」
実春の顔が見る間に赤く染まっていく。
こめかみをひくつかせ、ぎりっと歯を軋らせながら。
どうして実春さんをわざと怒らせるようなことを? 状況が悪くなるだけなのに。
涼香は不安になり、霜の顔を覗き込んだ。
霜はなぜか不敵な笑みを浮かべている。
「このっ、たかが雛の世話をするだけの使用人のくせに」
実春は、畳んだ扇子を霜に投げつけた。
ぱしんと霜の頬に当たった扇子が、砂の上に落下した。
「落ちたよ、ご当主さん」
霜は扇子を拾い上げ、実春に投げつけた。
「この無礼者を捕えなさい。分家に座敷牢があったでしょう。そこに放り込んでおくのです。こんな野蛮な礼儀知らずの顔は、二度と見たくもない」
「望むところだ」
「うそ。どうしてそんなことを」
説明が欲しくて必死で霜の服を掴んだが、霜はさっきまでの挑戦的な気配は消え、静かな瞳で涼香を見つめてきた。
「しばらく我慢してくれ」
「我慢って、どういう……」
「俺に会えなくて、寂しくて泣くなってことだ」
大きな手が、涼香の頬に添えられる。
霜がいなくなるわけではないけれど。
それでも、座敷牢に勝手に入ることはできない。
志津香にだって、一度として会っていないのだから。
座敷牢に食事を運ぶ母に頼んでみても、首を横にふるばかりで。蔵に忍び込もうとしても、鍵がかかっているからどうにもならない。
わざと実春を怒らせて、霜はなにがしたいの?
もう、いやになってしまったの?
光崎のために雛男衆で居続けることに耐えられなくなってしまったの?
「私、他の人なんて絶対にいやよ」
「涼香?」
「雛男衆は……私の傍にいるのは霜以外の人じゃだめなの」
お願い嫌いにならないで。見捨てないで。
やっと自分にも未来があるって、信じられるようになったのに。
「しかしあんたも横暴だよな。自分の意に染まぬことを言われたら、即座に幽閉か。こっちは仕事もあるんだけどね」
「大学に連絡なら、入れてくださって結構ですよ。行方不明と騒がれる方が、困りますからね」
「確かに。なんなら、あんたが俺を座敷牢に放り込むか? 久しく使われていないんだろう」
「誰が、そんな薄汚い場所に。この私が穢れたらどうするのです。涼香、母親か志津香を呼んできなさい。蔵を開けさせ、この男を連れていくのです」
涼香は返事もできずに、ただ立ち尽くしていた。
足や体についた砂が、ぽろぽろとこぼれていく。
「涼香。言われたとおりにしよう?」
真海が、涼香の肩に手を置く。
ぴったりと体を横につけて、不自然なほどに互いの距離が近い。
「北門さんを信じて」
涼香にだけ聞こえる声で、真海は囁いた。




