二人目の巫 2
真海が海を見たいというので、涼香は彼女につきあって浜へと降りた。
竹林の前の小道を抜け、車道を渡るとすぐに海だ。
白い砂浜には、季節外れの浜昼顔がまだ咲き残っている。
薄紅色の花はとても愛らしい。
「んー、いい風。ちょっと泳ごうかなー」
両腕を伸ばして背伸びをした真海は、何を考えたのか急に袴を脱ぎだした。
着物もばさりと脱いで、下着姿になる。
「きゃあ、真海ったら。だめよ」
涼香は顔を真っ赤にしながら、着物を拾い上げて真海の肩にかける。
人通りはほとんどないとはいえ、車は通るのだ。
運転手さん達から丸見えではないか。
そんな旺盛なサービス精神はいらない。というか、あっちゃいけない。
巫としても女子高生としても。
「平気だって。これ、水着だもん。涼香の家は海が近いって聞いてたから、着込んでたのよね」
「え、そうなの?」
恐る恐る着物を真海の体から外すと、確かに真っ青なビキニだ。
小麦色に焼けた肌によく似合っている。
「用意いいでしょ。あたし、完璧ぃ」
びしっと親指を立てて、真海はウィンクしたと思うと、そのまま海へと走り出した。
「涼香もおいでよー。せっかく海のそばに住んでるのに、全然泳いでないでしょ。日焼けしてないじゃないのさ」
「だって、私カナヅチなんだもん」
「えー、もったいない。よーし、あたしが浮き輪を買ってやろうじゃないの。それに幼児用の腕を通す浮き輪も装備すれば、完璧よ」
「それもそうね」
涼香が吹きだすと、真海は「あはは」と笑いながら海面にぷかーと浮かんだ。
(器用だなぁ。私が同じように浮かぼうとしても、絶対に沈んで海水を飲んじゃうわ)
鳥の鳴く声が、上空から聞こえてくる。
見上げれば白鷺が、真白い翼を広げて飛んでいる。
クワックワッという鳴き方は確か、ねぐらに帰る時のものだ。
「あー、すごいね白鷺だ。ここって水がきれいなんだ」
「うん、白鷺や青鷺をよく見かけるわ」
「海なのに、カモメじゃないんだね。なんかあの優美な鳥を見ていたら、あたしも空に浮いてるような気になるよ」
真海は、空に向かって右手を伸ばした。
つられて涼香も手を上にあげる。
空を百キロメートルほど上がると宇宙で。
その空と宇宙の間のどこかに、時久の故郷がある。
「帰してさしあげたい」
ふと口から出た言葉は、遠いどこかから響いたように思えた。
珍しく、霜がコンビニの袋を手に浜に降りてきた。
すでに日は沈み、西の空は夕映えに染まっている。
海は凪いで、澄んだ水がひたひたと浜で揺れている。
「須賀野。なんで泳いでいるんだ?」
「むしろ涼香や北門さんが、なんで泳がないのか不思議なんだけど?」
「……それもそうだな」
霜は苦笑しながら、頭を掻いた。
「海で遊んでいいとか、ずっと忘れていた気がする。だからかな、ついこんなものを買ってしまった」
袋から取り出されたのは、花火のセットだ。しかも子ども用の。
「おー、北門さん。気が利くじゃない」
ばしゃばしゃと水しぶきを上げながら、真海が走ってくる。
「ちょっと、真海。風邪をひくわ。タオル代わりにせめてこれを」
涼香は慌てて巫の衣を、真海にはおらせた。
「平気だって。ははーん、あたしのこの肉体美を北門さんに見られるのがイヤなんでしょ」
「そ、そんなことっ」
妙な指摘に、思わず声が裏返ってしまう。
涼香は急に顔が熱く火照るのを感じた。
「素直になればいいって」
髪から水をしたたらせながら、真海が体を寄せてくる。
濡れた唇が、涼香の耳に寄せられた。
「ずっと一緒にいるみたいだけどさ、好きって告白したことあるの?」
「あるわけないわっ」
なんてことを言うのだ。
雛と雛男衆は恋愛関係になってはいけない。
雛は心も魂も、神使に捧げなければならないから。
そう巫である姉にずっと教えられてきた。
けれど新たな巫は、好意を素直に表せという。
(ああ、そうだわ。真海は、壊すために選ばれたんだもの)
何人もの雛や男衆達を犠牲にしながら、誰もやめようとしなかった奉饌の儀。
真海はそれを潰すと宣言した。神使の前で。
(時久さまは当事者であるはずなのに、反対はなさらなかった)
それは彼自身もこの儀を、心から望んでいるわけではないからだろう。
そうさせたのは、陸子の存在が大きいに違いない。
涼香はライターで、ろうそくに火をつける霜を見つめた。
(霜は、光崎に近い者は伝統を壊すことを恐れると言っていたけれど。もしかしたら、変化を望まない、変化してはならないと考えている人もいるかもしれない。だとしたら、霜が真海を巫に選んだことは、糾弾されるかもしれないわ)
それでも動いてくれたのだ。
自然に涼香の足が動いた。
ゆっくりだった歩みはすぐに小走りになり、しゃがんでいる霜の背中にとびついた。
「うわっ、なんだっ」
「ありがとう、霜」
ぎゅううと抱きしめると、霜のにおいがした。
毎日橘を摘んでいるからじゃないだろうけど、柑橘系を思わせる爽やかな香りだ。
大好き、一番好き。誰よりも好き。
まだ口に出しては言えないけれど、心の中で何度も繰り返す。
ライターとろうそくが、音もなく砂に落ちる。
霜はゆっくりとふり返ると、長い指で涼香の頬にかかった髪をすくった。
「潮風でべたついているな」
「うん、こんなの初めて」
「そうだな。家と学校の往復だけじゃなく、この海で泳ぎを特訓してやってもよかったな。なんで海で遊んでいいって、気づかなかったんだろう」
涼香はうなずいた。
家は常に堅苦しく、自分は離れに閉じこもっていなければならないと思い込んでいた。
両親も志津香も、きっと海水浴なんて考えもしなかったはずだ。
涼香の背中に、霜の腕がまわったと思うと強く抱きしめられた。
風が撫でるかのように、頬に唇が触れてくる。
え? と思った時には、唇が軽く重なっていた。
触れあったのかどうかも確信できないほどだ。
「しょっぱいな。これも潮風のせいか」
「ま、待って。私、初めてだから」
「……嘘だろ」
「嘘ってことないわ。誰ともキスなんて」
言葉にした途端、霜とキスしたのだと自覚して、耳までかあっと熱くなる。
どうしよう。恥ずかしい。
涼香は、霜の腕の中でうつむいた。顔を上げることさえできない。
「参ったな」
霜が、はぁぁーと長いため息をつく。
「涼香、本当に覚えていないのか? 二回目、いや三回目だぞ」
「ううん、そんなことないわ」
「少し前に、二度した」
「だ、誰と?」
「俺以外に相手がいるわけないだろう」
やっだー、自信家。と真海が呆れた声を出している。
だが混乱している涼香は、そのツッコミも気づかない。
「もしかして覚えていないのか? 大祓の後で衰弱して眠り込む前に、しょうが湯をだな……いい、なんだか虚しくなってきた」
肩を落としてうなだれる霜は、なんだか大型の捨て犬みたいだ。
そういえば、しょうが湯を飲んだような気がする。
あの時、霜の顔が近くにあったような。でも視界がぼやけて、どうなっていたのか覚えていない。
どうしてこのしょうが湯は、こんなに甘いの? と問いかけたような、問いかけなかったような。
「ごめんなさい」
「俺は深く傷ついた。俺が思っているほどには、涼香は俺のことを大事だと思っていないんだな」
「そんなことないわ、絶対に」
「本当にか?」
うんうん、と涼香は何度もうなずく。首が痛いくらいに。
「なら、いい。許す」
にっこりと霜が微笑む。うそ、珍しい。夏に雪でも降るんじゃないかしら。
そう考えていると、また唇が重ねられた。
えーと、これって三回目? 四回目?
こほん、と背後で咳ばらいが聞こえた。
「あのね、お二人さん。あたしの存在を忘れてやしないかしらね。そういうことは、人目につかないところでやってくれる?」
忘れていた、と呟いて霜が怖々といった様子で真海を見やる。
涼香もふり向くと、真海は腕を組んでふんぞり返っていた。
「ほんと仁王立ち、似合うね。真海」
「褒め言葉として受け取っておくわ。いい? 涼香。セクハラ男にセクハラされたら、すぐにあたしに言うのよ。あたしがセクハラ男をこらしめてやるわ。ちょっとそこのセクハラ男、涼香のキスを勝手にバーゲンとかクリアランスセールみたいに安く扱わないでちょうだい」
「須賀野。お前、確かうちの大学を受験するって言ってなかったっけ?」
「受験するわよ」
「だったら、受験前から喧嘩を売ってどうする」
「北門准教授はたいそう厳しいとお噂ですが、そのような私情を挟むことはないと信じております」
まるで棒読みで真海が言う。
「大学かぁ」
涼香は呟いた。
今まで考えたこともなかった。
自分が人としての生を送ることができるのは、高校二年生までと思っていたから。
「涼香も、うちの大学を受けたらどうだ? たとえ付属とはいえ、受験者全員が通るわけではもちろんないが。文化人類学を専攻してもいいんじゃないか」
「あー、この人ったら涼香の担当教官の座を狙ってるわよ」
はやし立てる真海を、霜が手で追い払おうとする。
「私、考えてもいいのかしら。高校を卒業して、大学生になって、その先のことも」
「当然よ」
これまで空白だった未来。
学校で進路についてのアンケートがあった時も、いつも適当なことを書いて提出していた。
そのたびに担任から、アンケートのたびに進路希望が違う、いったい何をしたいんだと問い詰められていた。
なにもありませんと、正直に答えることができなくて。
この夏休みに入ったら、私は心を失うんです。
誰も住んでいない無人の島に捨てられるんです、と言えるはずもなくて。
ごめんなさいとただ謝るしかなかった。
「私、大学に行きたい。外のこと、もっと知りたい。許されるのなら」
「ああ、おいで」
「よし、あたしと一緒に進学だ」
真海は、親指をびしっと立てた。




