二人目の巫 1
微熱が続き、涼香は次の日も、
その次の日も学校を休んだ。
体力が落ちていることもあるが、やはり実の姉に刃物を向けられたことがいつまでも心に重くのしかかっている。
座敷牢は、蔵の奥にあるらしい。
牢へ至る扉は施錠され、蔵の中をうかがうことはできない。
父に姉の様子を尋ねても、とくに体調が悪いわけではないからと、歯切れの悪い返事があるだけだ。
母屋の方で、呼び鈴が鳴った。
しばらく経って、離れの廊下を歩く音が聞こえる。
そろそろ霜が大学から帰る時間だけれど、これまで呼び鈴を鳴らしたことはないのに。
急にどうしたんだろう。
涼香がベッドで上体を起こした時、ばんっと派手な音を立てて襖が開いた。
「真海さん、参上っ! 来たわよー、来たわよー」
「え、真海? どうして?」
日に焼けた顔にこぼれんばかりの笑みを浮かべ、真海が白い歯を見せる。
「あ、もしかして学校のプリントとか持ってきてくれたの? ありがとう、よくうちが分かったわね」
真海の家は隣の市にあり、通学路も涼香とは反対方向だ。
「北門さんに送ってもらったのよ。なんであの人、普段から車に乗らないの?」
「それは、大学の駐車場が足りないから。雨の日は特別に自動車通勤だけど」
「そりゃー、ウソだわ。今日はよく晴れてたけど、車だったよ。昨日も北門さんに会って、外で話をしたけど車だったもん」
ベッドにどかっと腰を下ろして、真海はふんふんと鼻歌を歌いながら、ウサギ模様の手提げカバンから布を取り出した。
「霜と個人的に会ったの?」
二人に接点なんかあったっけ?
涼香は首を傾げた。
「でね、あたしは考えてみたわけよ。ニケツなんてしてたら、警察に見つかったらまずいじゃん。なのにあえてってことはよ」
むふむふと妙な笑いを浮かべながら、真海は口元を手で押さえる。
「北門さんはムッツリなのよ」
「な、なんで霜がムッツリスケベなの?」
「いや、あたしはスケベまでは言ってないけどね」
真海は立ち上がったと思うと、なぜか急に制服を脱ぎだした。
「ちょっと真海。どうしたの? 暑いなら扇風機をつけるけど。ごめんね、この部屋はエアコンがなくて」
「いやー、楽しいよね。毎朝、毎夕、恋人にしがみつかれて北門さんが妄想をたくましくしてるって思うとさー」
どがどがどが、と廊下の床が踏み抜かれそうな激しい音がする。
「誰が助平だ。この小娘っ」
「きゃああっ。ひどいわ、セクハラよっ」
スカートもセーラー服も脱ぎ捨てた真海が、悲鳴を上げる。
それでもなぜか仁王立ちのままだ。
恥ずかしいのに、隠さないんだ。
涼香は呆気にとられてしまった。
そういえば真海は学校でも、体育の時間の前には更衣室で制服を豪快に脱いでいた気がする。
涼香は……というかほとんどの女生徒はスカートの下にまず体操ズボンをはいたり、ブラが見えないように壁の方を向いてシャツを脱いだりしているのに。
それにしても妙に原色のブラだ。
「しっしっ。北門さんは出て行ってくださーい。ジャマでーす」
「ぬぅ、こいつ」
ぎりぎりと霜は拳を握りしめている。
なんだかキャラが変わってるんですけど。
二日ほど寝込んでいる間に、何があったというのだろう。
「あー、面白いね。北門さんをからかうのって」
「あんな霜、初めて見るわ」
「あはは、きっと涼香の前ではカッコつけてんのよ」
「でも知り合って、十六年よ?」
「じゃあ十六年間カッコつけすぎて、そっちが地だって本人も思い込んでるんじゃないのかなー」
楽しそうに肩を揺らしながら、真海は着替えていく。
「それにしても広い家よねー。うちなんてマンションとは名ばかりで、エレベーターもないのよ。北門さんから聞いたけど、涼香んちって、古くからこの辺り一帯の領主なんだって? 島も固有してるとか」
「うちじゃなくて、光崎の本家が領主なのよ」
紐を手にして、真海は首をかしげている。
「なんで紐が余るんだろう。ま、いいや。じゃーん。どう? 似合う?」
左右の袂を引っ張りながら、くるりとふり返った真海は、白い着物に緋の袴をはいていた。
「って、似合うわけないよねー。こういうのってもっと髪が黒くて、色白の人でなきゃね」
「ううん、似合ってる」
どういうこと?
これがただのコスプレじゃないのなら。もしかして、もしかして。
「じゃあ、そういうことにしておきましょ」
真海はかしこまった表情をして、畳に正座した。
廊下で待機していたらしい霜が入って来て、真海の隣に座る。
「須賀野、雛に挨拶を」
「今日より巫を務めさせていただきます。須賀野真海です。よろしくお願いいたします」
畳に額がつくほどに、真海は深々とお辞儀した。
「二人の巫が、雛に仕えたという記録はない。前例はないが、須賀野は光崎家の遠縁にあたる。涼香にとっても悪くない人選だろう」
「時給がよかったのよー。カヤックって何かとお金がかかるのよね」
あっけらかんと言う真海を、霜は「余計なことを」と睨みつけている。
「遠縁って、知らなかったわ」
「あたしもよー。えーとね、確か涼香のいとこの奥さんの、お姉さんが嫁いだ先がうちの親戚んちらしいわ」
「それって全然親戚じゃないのでは」
「だよねー、あたしもそう思う」
ベッドに身を乗りだしてくる真海を、霜は鋭い目つきで咎める。
「涼香を見守るには適任と思って依頼した。それだけだ。決して彼女が巫に向いているとは思えない」
つまり特例だ。
真海に頼んでくれた霜も、引き受けてくれた真海も。
涼香のことを思ってくれている。
奉饌の儀が近づいていることへの不安も、志津香とのいざこざも。
真海なら和らげてくれると霜は考えて。
真海もややこしい事情を呑み込んだうえで、やってきてくれた。
目頭が熱くなったと思うと、真海の顔も霜の姿もぼやけて見えた。
「ありがとう。本当に、ありがとう」
涙の雫が落ちて、白いシーツにしみこんでいく。
水色のワンピースに着替えた涼香は、寝室の隣の和室で真海と机を挟んで向かい合った。
隣には当然のように霜が座っている。
庭の方から、蚊取り線香の煙が流れてきた。
母が柄杓で打ち水しているのだろう。
ぱしゃんという音と、水のにおいが立ち込める。
「姉さん、社に行く時間じゃないの?」
目の端に入る巫の衣装に、思わず涼香は問いかけた。
「あ、ごめんなさい」
志津香はもう巫ではないのに。
膝の上で揃えた手が、震えてしまう。
妹を殺そうとした姉は、今は暗い座敷牢で何を思うのだろう。
ごめんなさいと謝れば、許してもらえたのだろうか。
「気にするなと言っても、無理だろうが。あまり気に病むな」
隣からそっと大きな手が伸び、震えの止まらぬ涼香の拳を包んでくれる。
「さて、巫の初仕事よ。涼香、あんたはどうしたい?」
「どうって」
真海が、机の上に身を乗りだしてきた。人差し指で涼香の鼻を突いてくる。
「あたしはあんたに従う。そんでもって、神使のお世話をする。それが巫ってもんらしいからね」
「私は」
言いかけて、涼香は言葉をとぎれさせた。
重ねられていた霜の手が外されたと思うと、突然背中をとんっと押された。
ほら、頑張れと聞こえたような気がした。
涼香はうなずき、姿勢を正す。
「私は、時久さまを神域に帰してさしあげたい。陸子さんのことが穢れだというのなら、それで戻れないっていうのなら、手助けしたいの」
「よしっ。決まりだね」
真海が、親指をびしっと立てた。
「へー、君が新しい巫なんだ」
涼香と真海は、二人で社へと向かった。
本殿は奉饌の儀でのみ使用されるので、今日も時久とは幣殿で対面している。
「また毛色の変わったのを、連れてきたよねー」
「っていうか、こっちがびっくりなんだけど。神さまの使いっていうから、ほら烏とか鶏とか鹿とかって思うじゃない。人だよ? しかも美少年」
真海は興奮気味に早口でまくしたてた。
烏は熊野三山の、鶏は伊勢神宮の、鹿は厳島神社の神使だ。
いくら事前に話を通してあるとはいえ、初対面の時久にも真海は戸惑うことがない。
しかしさすがに神使を指さすのは、どうかと思う。
「しかも開襟シャツに五分丈のパンツ。文学作品に出てきそうな、すでに絶滅しちゃった少年じゃない? 真空管ラジオとかフラスコとか理科の筆記帳とか、似合いそー。あ、違うラジオじゃなくてラヂオ。ヂよ、ヂ」
「ごめん、真海、言ってることがよく分からないんだけど」
「いーのいーの、何にしろ少年は可愛いってことで」
時久が眉間にしわを寄せる。
「可愛い? 僕が?」
幣殿の端まで歩き、供えられている竹の葉を時久は指で揺らす。
「君ってさー、ただの場つなぎの巫じゃないね。何をしに来たのさ」
ふん、と真海は仁王立ちになった。
「奉饌の儀を、ぶっ潰しにきました」
「え、ええっ。ちょっと待って真海。私は、奉饌の儀を終えてから、時久さまが戻られたらって思ってるのよ」
「却下」
巫は雛に従うものだと言っていたすぐ後で、却下とは。
(まぁ、この押しの強さは真海らしいけど)
これまでにない巫に、時久は面食らった様子だ。
「あたしはみすみす親友を廃人になんてしないわよ。なんで遠縁とはいえ、ほとんど他人のあたしが、北門さんに呼ばれたと思ってるの」
「巫ごときに、そんな大それたことが許されるとでも思ってるのー?」
「俺は、許されると思っています」
幣殿に入ってきたのは霜だった。
艶やかに磨き上げられた床を、足音もなく進み出る。
「須賀野を選んだのは、彼女なら変えられると思ったからです。光崎に近い者は、伝統を壊すことを恐れてしまう。たとえそれが悪しき伝統であっても、幼い頃から神使や雛のことは教え込まれている。奉饌の儀は、執り行われて当たり前。いにしえから続いているから、それを断ち切るのが自分達の代であることは、恐怖以外の何物でもない」
雛のことは哀れだとは思う。
けれど所詮は他人事だ。たとえ血がつながっていようとも、自分達には関係がない。
生贄の魂を捧げれば、平安が確保されるのだ。
次代のことは、百年先の子孫が考えればよい。
そうして雛の人生を狂わせ、まるで鳥かごに押し込めるかのように神使を地に留める行事は、続いていった。
おかしいと考える者がいても、すべての問題は先送りにされたまま。
霜は、淡々と話し続けた。
(そうだわ、ここが岐路なんだわ)
涼香は、おずおずと手を上げた。
「私も、やっぱり奉饌の儀は反対です」
「当然、俺もだ」
「あたしもー」
三人が手を上げて、顔を見合わせる。
「多数決で決まりだな。民主的でよろしい」
うむ、と霜がうなずくと、時久は呆れた様子で三人の顔を次々に見やる。
「今回の雛と男衆と巫は、馬鹿の三人組だよ」




