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陸子

 霜に強く抱きしめられた涼香は、息も苦しいほどだった。


 もうすべて諦めようと思ったのに。

 こんな風に守られたらどうしていいのか分からなくなる。


 記憶の底にあるのは、いつだって霜の仏頂面だった。


 なんとか気を引きたくて、笑わせたくて、いつも霜にまとわりついていた。

 それが姉を苛立たせていたと知ったのは、つい最近のことだ。


 涼香が覚悟を決めて瞼を閉じたのと、光を感じたのは同時だった。


「前代未聞の巫だね。困っちゃったなー」


 場にそぐわないのんきそうな声。霜の腕の力が緩み、涼香は瞼を開いた。


 とん、と畳に片足のつま先をつけて立っているのは、時久だ。


「社から、出られないのでは」


 涼香は呆然と呟いた。


「そうだよね。潔斎していない場に出てきちゃ、僕の玉のお肌が穢れちゃうよね。参った参った」


 畳に足を下ろすのはやめたのか、時久は空中にふわふわと浮いている。


「でも少しくらいなら平気だよ。古い友達が社の外にいるからね。彼女が力を貸してくれる」


 まるで指揮をするかのように腕をなめらかに動かすと、人差し指を志津香に向けた。


「君もういらないよ」


 これまでごくろうさま~と、ひらひら手を振る時久。

 その気軽さとは反対に、志津香の目は極限まで見開かれ、かみ合わない歯をがちがちと鳴らしている。


「い、いらないと? 私が、ですか? ご冗談はおよしください」


「言わないよ、冗談なんて。雛を裏切る巫なんて、いつ僕のことも裏切るか分かったもんじゃないからね」


「そんなっ、私は心を込めて」


「私、私って、うるさいなぁ」


 時久は、肩をすくめて長い息を吐く。


「三度目はもう言わないよ。君はいらないんだ、今からね。そこの雛の母親、親族を当たれば、どっかにでも巫になれる娘がいるんじゃないの? 捜しておいてよ。明日までにね」


 さくっと音がした。

 志津香の手から落ちた鋏が、畳に刺さった音だった。


 志津香は力なく座り込み、うつろな瞳には何も映していない。


「巫こそが、私の生きるすべてと教えられて……気持ちを抑え込んで、その日が来るまで耐えれば、と。それだけを心の支えに」


「姉さんっ」


 かけよろうとする涼香の体を、霜が抱きとめる。

 志津香は、ぶつぶつと同じような言葉を繰り返すばかりだ。


「行くな。このままそうっとしておいた方が、志津香さんのためなんだ」


 霜の言うことが分からなかったわけじゃない。

 自分が寄り添えば、志津香はまた暴れだすかもしれない。

 そうすれば刃傷沙汰は免れない。


 誰かが深い傷を負えば、病院に行かなくてはならなくなる。

 救急車を呼ぶことになるだろう。怪我の原因を黙っていることはできない。


 志津香を犯罪者にしないためにも、放っておくしかないなんて。


「姉さんは、どうなるの?」


 問いかけると、母は目をそらした。


「ねぇ、霜。あなたなら知ってるわよね」


「……これまで雛を裏切り、害そうとした巫はいない。神使の言うとおり、前例がないんだ。しばらくは座敷牢に幽閉されるだろう」


 座敷牢が蔵にあるとは聞いていたけれど。

 自分の家なのに底知れない恐ろしさに、涼香は背筋がぞくりとする。


「その座敷牢って、もしかして御饌みけになることを望まない雛を、改心させるためのものなの?」


 霜は、今度は返事してくれない。

 だからこそ、それが真実だと分かった。


「おかしいわ、こんなの。人を何だと思っているの? 私たちは操り人形じゃないわ」


 伝統という名に縛られて、皆が渦の中に落ちていく。

 もしかしたら神使さえも?


 涼香は、空中に浮いている時久を見つめた。


「覚えていられないくらい昔のことだけどねー。神社の神官が、津や海路の関を支配していたんだ。海民は海でしか流通できない。陸路は彼らのものじゃないからね。だから海民は、航海の安全を祈願してもらうためにも神社と結びついた。神官にしても、海民を守るという名目のもと物資が楽に確保でき、富み栄える。百年に一人、娘を差しだすだけでいいんだから、気楽なものだよ」


「私は、雛たちは気楽なんかじゃ」


「だよねー。廃人になると分かっていて、生まれた時から切り捨てられている雛が、心安らかなに過ごせるわけがないよ」


 時久は足を組んだと思うと、体を左右に揺らせた。


「でも、切り捨てられたのは僕も同じだ」


 体を斜めに傾けたまま、時久は金色の瞳をかっと見開く。


「誰が好んで、人の世に降りるものか。神の眷属の中でも最下層の僕は、日輪の神と海民の取り引きにいいように使われたんだ。この家から動くことはできないし、地上に長くいれば消耗が激しい。人は生贄をささげることで僕を生かし続けたんだよ」


 腕を前に差しだして、時久は宙を漂う純白の羽毛を掌に載せた。


 慈しむように指で包むと、そっと頬にあてる。


「陸子なら、解放してくれると思ったのに」


 竹林を渡る風の音が聞こえる。

 涼香が窓に目を向けると、陸から海へと吹く風が、一斉に白い紙垂を揺らした。




 陸子は、時久という名をつけてくれた先代の雛だという。


 雛に固有の名はない。

 だからお返しに時久は陸子の名を与えたのだと。


 いつの時代も巫はただ無心に自分に仕え、そして雛は恐れおののくばかりだった。


 そう時久は話しはじめた。


「僕には対等の関係を結べる者はいないんだよねー。日輪の神は主だけど、じかに会うことなんてもうないしね。巫は下僕だし、雛は食べ物。つまらないよ」


 それでも陸子だけは、違ったのだと。

 禊も大祓も何も関係なく、幣殿にやって来ては語らってくれた。


 いずれ自分を食らう存在に名をつけ、しかも仲良くするなど己が御饌である自覚が欠けていたとしか思えない。

 馬鹿な娘。

 目の前に迫る危機にも気づかずに暢気で、愚かで……けれどそこが愛おしかったと、時久は目を細めた。


 まるで恋人を想うような優しい瞳だと、涼香は感じた。 


「なぜ陸子さんは、時久という名をお与えになったのですか」


 すでに部屋には志津香と母親はいない。

 時久はベッドに腰を下ろし、枕から溢れる羽毛をもてあそんでいる。 


「なぜだと思う? 涼香が答えてみてよ」


「合っているかどうか分からないけど。その、違っていたらごめんなさい」


「別に違ってても怒らないよー。そうだな、橘を十倍食べるってので手を打ってもいいけどね」


「う、それは」


 涼香は苦くて酸っぱい味を思いだし、顔を歪めた。


 畳や布団には、志津香の凶行の痕が残っている。

 座敷牢で誰からも顧みられずに暮らさなければならない姉のことは、心の大部分を占めている。


 それでも日常は戻ってくる。


 座敷牢に会いに行くことを、姉は嫌がるだろうか。

 二度と顔を合わすこともないままに、奉饌の儀を迎えるのだろうか。


 涼香は瞼を閉じて、頭をふった。


「分からない? 降参?」


「いえ、そうじゃないですけど。えっと、長い時を地上に留め置かれて、でもその長さゆえに久しい? うーん、うまく言えないんだけど。そう、長く久しい時の果てに、大事な相手といつか神域へと帰れますようにと……違いますか? 違いますよね」


 苦笑した涼香を、時久はじっと見据えている。その唇が「りくこ」と動いたような気がした。


「陸子さんの名は、どういう由来ですか?」


「そのままの意味だよ」


「陸の子ですよ。意味も何も」


「だから、僕がたった一人だけ認めた陸の子。それでも分からないなら、涼香、君も相当なお馬鹿さんだよー」


 唇を尖らせる時久の頬が、なぜか朱に染まっていた。


「まるで人のようですね」


「なんだって?」


「いえ、失礼かなとは思うんですけど。もしかして陸子さんの力なのかな。私、時久さまは、もっと超然として厳しいだけの方だと思っていましたから。陸子さんと暮らした日々が、すごく影響しているのかなと思って」


「無礼な子だなぁ。そこの雛男衆、君の教育はとっても悪いんじゃないの?」


「申し訳ございません。不肖の雛で」


 畳に正座していた霜が、土下座する。

 そこまでする必要はないじゃない。

 涼香はため息をついた。


「だけど陸子は、僕を裏切った」


 時久は窓に目を向けると、竹の間からわずかに覗く海を見つめた。




 それは遠い昔の嵐の晩だった。


 重く湿った風はすぐに激しい雨を伴い、伸ばした手の先も見えぬほどの豪雨になった。


 なれの果ての島へ渡っていた雛男衆の乗った舟が遭難したと知らせが入ったのは、夜中だった。

 確か名を相雨といった。


 陸子の暮らす予定の殺伐とした島に、せめて簡易の小屋でも建てようとしていたのだろう。

 毎日海に出て操舟に慣れていた相雨は、舳先に篝火をともして舟を出したようだ。


 朝一番に、橘の実を摘んで雛に食べさせないといけないからというのが、嵐に舟を出した理由だという。


「どうか、嵐を静めてくださいませ」


 寝間着のままで、なりふり構わず陸子は幣殿に飛び込んできた。

 離れから裸足で、傘もささずに来たのだろう。

 陸子はずぶ濡れで、長い髪を顔や体に張りつかせていた。


「何言ってんの。僕にそんな力はないよ」


「でも、時久さまは日輪の神のつかわしめですよね。晴れを、あの方の頭上に晴れ間を」


「今は夜だよ。日輪の神がいらっしゃるわけないじゃないか」


「ですが」


 すがりついてくる陸子は必死だったから、意地悪をしたくなったのだと時久は言った。


 雛のくせに、神使以外の者を案じるのが許せなかった。

 どうせ、断るだろう。

 恐れて、泣きながら離れに帰るだろうと思ったらしい。


「じゃあ、特別に月神さまにお願いしてあげようか?」


「本当ですか」


「当然だよー、僕を誰だと思ってるのさ」


 月神にツテなんてあるはずがない。

 主たる日輪の神にすらお目通りの叶わぬ身だというのに。


 ただ日輪の光がこの地に届くように、据え置かれているだけだ。

 電信柱みたいに。


 地面を叩きつける雨の音は激しく、幣殿の中にまで跳ね返った雨水が入り込んでくる。


 うっとうしい天気だ。


 いつもは二人でいることがとても楽しいと思えたのに。

 まるでひどく湿気たみたいに、陸子との関係が疎ましくなる。


「じゃあ、男衆の周りの雨を止ませる代償に、君の目をもらおうかな」


「え? 目、ですか」


 陸子は言葉の意味が分からぬように、きょとんとした。


「そう。目ん玉だよー。もう百年も何も食べてないから、お腹がすいたんだー。君が十七になるのにも、まだもう少しかかるしね」


 雨足はますます強くなる。心配した巫が、幣殿へ入ってくるのが見えた。


「ほら、急がなきゃ。叱られるよ。勝手に僕と取り引きしたってね。それに今にも、雛男衆の舟が沈んでいくかもしれないし」


 こんなにも雨音が激しいのに。陸子が息を呑む、ごくりという音が聞こえる。

 震える指を、陸子は自分の左目に添えた。


 ふん、どうせできるはずがない。

 馬っ鹿みたいだ。

 ごめんなさいって謝って、土下座すればいいんだ。

 そうしたら雛男衆を選んだ無礼は許してあげる。


 時久は口の端をつり上げた。

 だがその瞳に映ったのは、信じられない光景だった。


 指が、細くてきれいな指が、陸子の瞼の奥にうずもれていく。


 うそ、だろ? うそって言ってよ。


「あ、ああっ……う、あああっ」


「雛さま。どうなされました」


 濁った血のにおい。

 まさか、そんなこと。あるはずがない。


「どうか、どうか……相雨さんを……どうか、お助けください」


 罰だ。そう感じた。


 そこまで陸子の思いが真剣だと、考えもしなかった。


 がたがたと震える手に包まれたものが、時久に向かって突きだされる。


 陸子の閉じた左の瞼は膨らみがない。空洞なのだ。


「お召し上がり……ください」


 歯をがちがちと鳴らしながら、今にも消え入りそうな声で陸子が話す。


「雛さまーっ、なんということをっ」


 巫の悲鳴が、雨夜を切り裂いた。


 なぜこんなものを望んだ。

 陸子に好いた男がいるのなら、彼を救ってやればよかったのだ。

 神使と人が交わることなどないのだから。


 それでも……大好きだった。陸子を抱きしめてやりたかった。

 たくさん話して、笑顔にしてやりたかった。

 なのに。

 彼女の愛情も信頼も踏みにじってしまった。


 掌に載ったものが、涙で滲んでぼやけて見える。


 ――これがあなたの本当に望んだことなの?


 責めるような友の声。


「食べるよ、僕は。食べなきゃいけないんだ」


 それは重く、鉛のように胃の腑へと落ちていった。


 あまりにも長き一生、これを身の内に抱えたままで生きていくのか。

 陸子が亡くなった後も。

 目眩がしそうだった。


「時久さまも、外へ参りましょう」


 痛みに耐え、喘ぎながらも陸子は訴えていた。


「いつまでも地上につながれて、そんなのよくないです」


「どうして君はそんなに愚かなんだよ。君を苦しめてるのは、僕なんだよ。雨だって、本当は……」


 陸子は大きく首を振った。


「静まっています。時久さまが約束を叶えてくださったから」


「馬鹿な」


 いつしか雨は小降りになっていた。

 幣殿の屋根から、ぽたぽたと雫が落ちているが、降る雨はまるで霧のようだ。


 ありえない。偶然だ。

 なのに陸子はとてもうれしそうに微笑んだ。

 ありがとうございます、と。


「僕は今は常世には戻れない。君だけで行くといい」


「時久さま」


「雛男衆が待っているんだよね?」


 時久は、陸子の背中を押した。


 君がいる地上になら、留め置かれてもいいかもしれない。


 大好きな陸子。ただ一人の人。

 どうか幸せに。



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