花鋏 2
「父は、先代の雛男衆が雛をたぶらかしたと言っていたけれど。それは間違っているかもしれませんわ。きっと雛が、男衆を手玉に取ったんです」
何度も壁で肩をぶつけながら、志津香は廊下を進んでいく。
どこへ行くのかと訊かなくても分かった。
渡り廊下で、霜は志津香の前に立ちふさがった。
「この先へは行かせません」
「おどきになって。悪い子はこらしめてあげなければ。巫は神使のお世話だけではなく、いざという時には雛男衆の代わりとならねばならないのですから」
「俺の代わり?」
昏い瞳。目を細めて、志津香はにぃっと笑う。
「百年前から、光崎の本家では北門家を信頼しておりませんもの。また雛男衆が雛を連れて逃げるかもしれない、それを阻止するのが巫の務め。雛は魂だけあればよい。顔が切り刻まれようが、それは器だけのこと」
「あなたの妹なんですよ。これまで憎しみなど見せていなかったじゃないですか。なぜ今になって急に」
志津香の両肩を掴むと、手を払われた。
顔から笑みは失せ、下唇を強くかんでいる。
「期間限定の姉妹ですもの。優しい姉を演じることくらいできますわ。時が来れば、厄介者がいなくなって心安らかに暮らせますわ。それにあと百年は雛は生まれない。男衆にさせられる男児も出ない。私たちの幸福は保障されています」
どんっと志津香が霜にぶつかってくる。
不意を突かれて、霜はよろけた。
その間に志津香は離れへと走っていく。
まるで丑の刻参りへと向かう橋姫だ。神に仕える巫が、鬼女になるなんて。
「いけない。そんなことは絶対にしちゃいけない」
霜は必死に追いかけたが、驚くほどに志津香の足は速い。
離れの廊下がみしみしと音を立ててきしむ。
志津香は襖をばんっ! と力任せに開けた。
ベッドには上体を起こした涼香がいる。
驚いた表情もしていない、ただ静かに座っているばかりだ。
「あんたがっ、あんたがいるから。私はっ」
花鋏をナイフのように持ち、志津香は涼香を刺そうとする。
「やめるんだ」
霜は志津香の体を突き飛ばした。
志津香の手から落ちた鋏が、枕に刺さる。
白い羽毛がふわふわと、室内を舞う。まるで雪のように。
畳に倒れた志津香は体を起こし、羽毛が漂う中を突進してくる。
枕から鋏を抜き、再び涼香を襲うために。
涼香は悲鳴を上げることもなく、ただ静かに姉の凶行を見つめている。
この日が来るのを覚悟していたかのように。
「志津香さん、何をしているか分かっているのか」
霜は両腕を広げて、涼香をその背でかばった。
それなのに、涼香は霜の体を押しのけよとする。
「馬鹿っ。おとなしく守られてろっ」
「だめ。もし霜を刺したりしたら、姉さんは後悔するわ」
「お前を刺しても後悔しないってのが、すでにおかしいだろ」
肩越しにふり返ると、涼香は小さく首を振った。
「大学でエレベーターの扉に挟まれそうになったわ。姉さんが間違ってボタンを押したのだと思ったけど、思いたかったけど……」
「私は感情を顔に出さないことが得意なのに、本当にどうかしていましたわ。でも大丈夫、安全装置が働くでしょう?」
花鋏を空切りしながら、志津香が歩み寄ってくる。
「竹林の中に、鋏を突き立てた痕が残る竹があったわ。あの竹は、私?」
「ええ、そうよ。清浄な竹はあなたそのもの」
ずたずたにしてやりたくなるでしょう、と志津香は口の端をゆがませた。
異変に気づいた母親が、部屋を覗いて悲鳴を上げる。
甲高い声が、耳をつんざく。
「おばさん、警察に電話をしてください」
霜は叫んだけれど、母親は動かない。
「早くしてください」
「で、できません。光崎は神に仕える家。不祥事を外に洩らすわけにはいきません。うちから犯罪者を出すわけにはまいりません」
「まいりませんって、このままじゃ涼香が怪我をします。下手をすれば」
殺されるかもしれない。
それが現実になるかもしれない事実に、霜のうなじを冷汗が伝う。
「だって、おかしいじゃないですか。私だって変だと思います。どうして私の代になって、雛が生まれるの? 涼香が生まれたその時に、神使の祝福があったって……社が光に包まれたって、前の巫が。でも、そんなの喜べるはずがない。私だってこの家で生まれ育ったのだから、神使と雛のことは知っています。けれど昔話でしかなかったのだもの」
母親が必死にかぶりを振ると、涙の粒が散った。
「しっかり者で優しい姉と、のんびり屋だけれど人懐こい妹。どちらにも幸せになってほしい。母ならそう願うでしょう? なのに……ただ百年目に当たった、それだけのことで、この子たちは自由を奪われ、憎しみを育て……どうして、私の子ばかりが、こんな」
しゃくりあげる母親は、柱に手を当てて座りこんだ。
「見ていれば、分かります。志津香がどれほど自分の心を押さえこんでいたか。だから、霜さんとの縁談を進めようと……」
霜は言葉を失った。
自分は涼香して見ていなかった。
生まれて間もない涼香と出会い、この小さな存在を託されたのだと思うと、無我夢中で守り続けてきた。
(俺にとってのこの世は、涼香とそれ以外の人達でしかなかった)
いびつな、あまりにも歪んだ人間関係。
なのに、それを分かっていても涼香さえいればいいと考えてしまう。
「申し訳ありませんが、縁談はお受けできません。俺は志津香さんの気持ちを受け止めることも、幸せにすることもできない」
「だって、雛と雛男衆の恋愛は禁じられているのでしょう?」
「おばさんのおっしゃる通りです。分かっているんです、そのことは。でもこの気持ちをなかったことにすることは、できないんです」
「だからっ、その子さえいなくなればっ」
志津香が鋏をふり上げる。
激しい痛みが霜の肩を襲った、見れば着物の布地が裂けている。
あらわになった肌に一筋の傷、じんわりと鮮血が滲んでくる。
「……それでも、俺は涼香を忘れません」
ぎりっと、志津香が歯ぎしりする音が聞こえる。
「許さない絶対に。あんたが島に消えれば、次は私の順だと思ったから、そう信じていたから。あんた達が幸せそうにじゃれあって、仲睦まじくするさまを見せつけられても、我慢してきたのに」
「志津香、もうおやめなさい。霜さんは、あなたを見てはいないわ」
「涼香さえ、涼香さえいなくなれば」
「違う、そういう問題ではないのよ」
母親は、結った髪をほつれさせながらも、志津香の体にしがみついた。
「母さんまで、諦めろというの? あの子の味方なの?」
血走った眼を母に向け、志津香は母の腕をふりほどいた。
「涼香、あんたは奉饌の儀で魂を食われる自分のことを哀れだと思っているでしょう? なんでも持っているくせに、心を失っても霜さんを独り占めできるくせに。悲劇のヒロインぶっているのよね」
かしゃ、かしゃ、と鋏が空切りされる。
霜は涼香の体を抱きしめて、志津香に背を向けた。
畳を踏みつける音。風が背後で起こったと思うと、次に聞こえたのはじゃきん、という音だった。
妙に腕が涼しい。
見れば、霜の着物は袂の部分が裁たれて落ちていった。
「ほら、あんたの顔が見えた」
爛々と光る志津香の瞳に、怯えた表情の涼香の顔が映っている。
しまった。
霜が腕を下ろすのと、志津香が切っ先を涼香の顔へと動かすのは同時だった。
涼香は静かに瞼を閉じた。
その時、辺りが眩しい光に包まれた。




