キーボードのない世界
西暦2087年。
地球上から、キーボードが消えた。
正確には、消えたわけではない。博物館に数台が保存されているし、マニアのコレクターが隠し持っているものもある。
だが、一般の人々は誰も使わなくなった。
使う必要がなくなったのだ。
◆◆◆
音声入力技術が完成したのは、2050年代のことだった。
最初は不完全だった。誤認識が多く、方言には対応できず、騒がしい場所では使い物にならなかった。
だが、技術は進歩した。
AIが進化し、脳波解析技術が発達し、やがて「考えるだけで入力できる」時代が到来した。
キーボードを叩く必要はない。
ただ、頭の中で文章を思い浮かべるだけでいい。
それがそのまま、画面に表示される。
完璧だった。
速い。
正確。
疲れない。
キーボードなど、もはや過去の遺物だった。
◆◆◆
田中ケンジは、歴史学者だった。
専門は20世紀後半から21世紀初頭の情報技術史。
つまり、キーボードが全盛期だった時代の研究者だ。
「先生、なんでそんな古臭いもの研究してるんですか?」
学生がよく聞いてくる。
「キーボードなんて、もう誰も使わないのに」
ケンジは、いつも同じように答える。
「だからこそ、研究する価値があるんだ」
学生たちは、ピンと来ない顔をする。
無理もない。
彼らは生まれた時から、思考入力が当たり前の世代だ。
キーボードなど、見たこともない。
◆◆◆
ある日、ケンジの研究室に一通のメッセージが届いた。
差出人は、政府のサイバーセキュリティ局。
内容は簡潔だった。
「至急、ご来訪ください。重要案件です」
ケンジは、不審に思いながらも、局を訪れた。
◆◆◆
「田中先生、お忙しいところをありがとうございます」
局長は、深刻な顔をしていた。
「実は……重大な問題が発生しました」
「問題?」
「はい」
局長は、画面を指差した。
「三日前、世界中の思考入力システムにマルウェアが侵入しました」
「……何ですって?」
「現在、全てのシステムがロックされています」
ケンジは、息を呑んだ。
「つまり……」
「はい。誰も、何も入力できません」
沈黙。
「音声入力は?」
「それも、同じシステムを使っています。全滅です」
「……」
ケンジは、事の重大さを理解した。
入力ができない。
つまり、コンピュータが使えない。
現代社会は、完全に麻痺する。
「それで、私に何を?」
ケンジが尋ねると、局長は真剣な目で言った。
「マルウェアを除去するプログラムは、すでに完成しています」
「なら、問題ないのでは?」
「いえ」
局長は、首を横に振った。
「そのプログラムを起動するには……キーボードが必要なんです」
ケンジは、思わず笑った。
「キーボード? 本気ですか?」
「本気です」
局長は、真顔だった。
「マルウェアは、思考入力と音声入力を完全にブロックしています。唯一、物理的な入力外部装置——つまり、キーボードだけが使えます」
「……」
「ですが、問題があります」
局長は、困った顔をした。
「キーボードを使える人間が、いないんです」
◆◆◆
ケンジは、博物館から借りてきたキーボードの前に座った。
古い、20世紀のメカニカルキーボード。
カチャカチャと音がする、アナログな代物。
「先生、本当にこれで入力できるんですか?」
若い技術者が、不安そうに聞いた。
「……やってみる」
ケンジは、キーを見た。
QWERTY配列。
昔、研究のために少しだけ練習したことがある。
だが、実用レベルではない。
それでも——
やるしかない。
ケンジは、人差し指でキーを叩き始めた。
遅い。
とても遅い。
一文字打つのに、数秒かかる。
だが、確実に入力されていく。
「起動コードは……」
技術者が、コードを読み上げる。
ケンジは、必死にキーを叩く。
一文字、また一文字。
周りで見守る人々は、息を呑んで見守っている。
そして——
最後のキーを、叩いた。
Enter。
画面が、光った。
「成功です!」
技術者たちの歓声が上がった。
マルウェアが除去され、システムが復旧していく。
世界中で、思考入力が再び使えるようになった。
◆◆◆
数日後。
ケンジの研究室に、再び政府からメッセージが届いた。
今度は、感謝状だった。
そして、追記がされていた。
「今回の件を受け、政府は『物理入力外部装置保存法』を制定しました。全国の公共施設に、キーボードを常備することが義務付けられます」
ケンジは、苦笑した。
そして、その下に続く一文を読んだ。
「つきましては、緊急時に備え、全国民にキーボード入力技術の習得を義務付けます。講習会の講師として、田中先生にご協力をお願いしたく——」
ケンジは、頭を抱えた。
講習会。全国民に。
キーボード入力を教える。
それは、つまり——
ケンジの研究室の電話が鳴った。
受話器を取ると、局長の声。
「田中先生、お忙しいところ申し訳ありません。講習会の件ですが、第一回は来週、参加者は三千人を予定しておりまして——」
「三千人!?」
「ええ。その後、全国各地で順次開催予定です。先生には、マニュアル作成と、指導者育成もお願いしたく——」
ケンジは、静かに受話器を置いた。
そして、窓の外を見た。
世界を救ったはずだった。
英雄になったはずだった。
だが、待っていたのは——
残りの人生を、キーボード入力の講師として過ごす未来だった。
ケンジは、深くため息をついた。
研究室の棚には、古いキーボードが並んでいる。
かつては、愛すべき研究対象だった。
今は——
呪いの道具にしか見えなかった。




