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第8話

 鼻歌交じりに、リナは歌舞伎町の路地裏を歩いていた。

 両手にはスーパーの袋が三つ。

 中身は米5キロ、水2リットル×6本、その他食料品。

 総重量20キロ近い荷物だが、今のリナにとってはハンドバッグを持っているのと変わらない感覚だった。


「ふふ〜ん♪ 掃除のおかげかな、体が軽い軽い!」


 一週間の「雑巾がけ修行」の成果は劇的だった。

 無意識の身体強化と霊力循環。

 それを習得したリナは、もはや一般人の枠を外れかけている。


 彼女は、『久遠堂』のある路地へと足を踏み入れた。

 周囲の景色がぐにゃりと歪む。

 湊が張った『五行反転・八門閉鎖』の結界だ。

 

 悪意や好奇心を持つ者は、ここを通ろうとすると空間ごとねじ曲げられ、駅前のロータリーや公園に強制転移させられる。


 だが、リナには湊から渡された簪が「通行手形」となっている。

 彼女の前でだけ、歪んだ空間は正常な道へと戻るのだ。


「ただいまー、叔父さん!」


 リナは結界を抜け、引き戸に手をかけた。

 ガラガラッと扉が開く。


 ――その瞬間だった。


 ゾワリ、とリナの背筋に冷たいものが走った。

 殺気ではない。もっと濃密で、圧倒的な「存在感」だ。

 リナが閉めようとした扉の隙間に、強引にねじ込まれるような影があった。


 バヂヂヂヂヂッ!!!


 空間が悲鳴を上げた。

 強制転移させようとする結界の力と、それに抗う強靭な魔力が衝突し、青白い火花が散る。


「……ッ、ここか……!」


 絞り出すような声と共に、一人の男が店の中へと転がり込んできた。


「きゃあっ!? な、なに!?」


 リナは飛び退き、瞬時に荷物を置いて構えた。

 

 強盗か?

 それとも熱狂的なストーカーか?

 

 だが、男の姿を見て、その思考は吹き飛んだ。


 鋭い眼光。

 鍛え抜かれた肉体。

 ボロボロのコートを羽織っているが、そこから滲み出るオーラは、ダンジョンで一度だけ見かけたSランク探索者のそれと同じ――いや、それ以上だ。


 男は肩で息をしながら立ち上がろうとし、ふらつき、そして床に膝をついた。


「おいおい……」


 カウンターの奥から、呆れたような声が聞こえた。

 湊だ。

 彼は文庫本から視線を外し、眼鏡の位置を直しながら男を見下ろした。


「人払いしてるんだぞ。無理やりこじ開けて入ってくるなんて、随分と行儀が悪い客だ」

 

「……すまない」


 男は低い声で言った。

 そして、リナと湊が予想もしなかった行動に出た。


 ダンッ!

 男は額を床に擦り付けたのだ。

 最上級の謝罪と懇願――土下座である。


「頼む……! 妹を、助けてくれ……!」


 


 店の中の空気が凍りついた。

 リナは口をあんぐりと開けている。

 あの圧倒的な強者が、プライドをかなぐり捨てて頭を下げている姿は、あまりにも衝撃的だった。


「……どちらさんだい?」


 湊は感情の読めない声で尋ねた。

 男は顔を上げず、震える声で名乗った。


「剣崎……剣崎龍也だ」


「えっ!?」


 リナが素っ頓狂な声を上げた。

 

 剣崎龍也。


 その名を知らない探索者はいない。

 国内に数人しかいないSランク探索者の一人であり、単独での深層攻略記録を持つ「孤高の剣聖」。

 リナにとっては雲の上の存在だ。


「剣崎って……あのSランクの!? なんでそんな人がこんなボロ屋に!?」

 

「……配信を見た」


 剣崎は顔を上げ、充血した目で湊を、そしてリナを見た。


「あの白い狐……そして、深層のイレギュラーを一撃で葬った術式。あれは、俺たちが知る『魔術』じゃない。もっと根源的で、理を超えた力だ」

 

「買いかぶりすぎだ。ただの不人気な魔術だよ」


 湊は冷たく切り捨てた。

 だが、剣崎は食い下がる。


「嘘だ! 俺にはわかる! あの波動は……俺が三ヶ月前、深層で遭遇した『奴』と同じ異質の気配だった!」


 剣崎は拳を握りしめ、血が滲むほど強く床を叩いた。


「俺の妹は……美咲は、その『奴』の呪いを受けて、今も死の淵にいるんだ!」




 剣崎の語った内容は、壮絶なものだった。


 三ヶ月前、剣崎は妹の美咲を含むパーティーで新宿ダンジョンの深層に潜っていた。

 そこで遭遇したのは、既存のデータにない変異種、イレギュラー。

 黒い霧を纏ったその怪物は、物理攻撃も魔法もすり抜け、美咲の体に「触れた」だけで消え去ったという。


「外傷はなかった。だが、地上に戻ってから美咲は倒れ、そのまま目を覚まさない」


 剣崎の声が震える。


「最高級のポーションも、教会の大司教による回復魔法も、エリクサーさえも効果がなかった。魔力枯渇でもない、精神汚染でもない……ただ、生命力だけが毎日削り取られていく」

 

「医者の診断は?」

 

「『原因不明の衰弱』だ。魔術協会の権威たちは『未知のウイルス』だの『新種の毒』だの言っているが、あいつらは何もわかっていない! あれは……もっと悍ましい、呪いのようなものだ!」


 剣崎は必死の形相で湊を見つめた。


「俺は見たんだ。君の狐が放った光が、あの『イレギュラー』を浄化するのを。あれと同じ光なら……妹の中に巣食う闇を祓えるかもしれない!」


 Sランク探索者としての地位も名誉も、今の彼には何の意味もない。

 ただ、妹を救いたい。

 その一心だけで、彼はこの「辿り着けない店」を、死に物狂いで探し当てたのだ。

 結界を力ずくで突破したのも、その執念の結果だった。


「俺の全財産を出す。命が必要ならそれでもいい。だから頼む……妹を助けてくれ!」




 痛切な叫びが店内に木霊する。

 リナは胸が締め付けられる思いだった。

 妹思いの兄。

 そして、原因不明の病に苦しむ少女。

 

 自分も、もし湊がいなかったら、才能がないと蔑まれながらダンジョンの露と消えていたかもしれない。


 リナは湊を見た。

 しかし、湊の表情は変わらず、気怠げなままだ。


「……悪いが、他を当たってくれ」


 湊は淡々と言った。


「うちは古物商だ。医者でもなければ、呪い専門の祈祷師でもない」

 

「そこをなんとか……!」

 

「帰ってくれ。俺は平穏に暮らしたいんだ」


 取りつく島もない拒絶。

 剣崎の顔から、希望の光が消え、絶望の色が濃くなる。

 その瞬間、リナが動いた。


「叔父さん!」


 リナはカウンターに駆け寄り、湊の甚平の袖を掴んだ。


「お願い、助けてあげてよ!」

 

「おいリナ、お前な……」

 

「だって、この人の妹さん、私と同じくらいの歳なんでしょ? もし白雪や叔父さんの力で助かるなら、試すくらいしてもいいじゃない!」

 

「簡単に言うな。失敗したらどうする? より悪化するかもしれないんだぞ」


 湊の言い分は正論だ。

 だが、リナは引かなかった。

 彼女の中で、「修行」を通じて知らずのうちに培われた自信と、持ち前の正義感が燃え上がっていた。


「失敗したら私が何とかする! 私が責任取るから!」

 

「お前なぁ……」

 

「それに! もし叔父さんが見捨てるなら……私、お母さんに言いつけるからね!」


 ピクリ、と湊の眉が跳ねた。


「……なんて?」

 

「『叔父さんは困ってる人を見捨てて、自分だけゴロゴロしてた』って! お母さんに全部話す!」


 最強のカードが切られた。

 湊の脳裏に、鬼の形相をした姉の姿が浮かぶ。

 

 (……あいつに知られたら、俺の命日はその日になるな)


 それに、と湊は冷静に計算した。

 

 リナの性格上、俺が断れば、彼女自身が剣崎についていこうとするだろう。

 

 今のリナは確かに強くなったが、呪いに対抗できる知識はない。

 リナが暴走して、取り返しのつかない事態になり、それが姉にバレる。

 

 ……詰みだ。

 

 どのルートを選んでも、俺の平穏は脅かされる。

 ならば、一番被害が少ない、そして姉に怒られない選択肢は――。


「……はぁーーーーーーー」


 湊は、この世の終わりかのような長い長い溜息をついた。

 そして、バタンと文庫本を閉じる。


「わかった。わかりました」

 

「叔父さん!?」

 

「勝ったと思うなよ、リナ。これは戦略的行動だ」


 湊はブツブツと文句を言いながら、カウンターの下をごそごそと漁り始めた。

 取り出したのは、埃を被った古い布袋だ。


「おい、剣崎と言ったな」

 

「は、はい!」

 

「勘違いするなよ。俺はただ『見る』だけだ。治せるとは言ってない。それに、もし治せなかったとしても、文句は言うなよ」

 

「もちろんだ! 来てくれるだけでいい!」


 剣崎は涙を流さんばかりに感謝し、再び頭を下げた。


「じゃあ、案内しろ。……タクシー代は出せよ?」


 湊は気だるげに立ち上がり、古い道具袋を肩に担いだ。

 

 その姿は、近所の銭湯に行くおっさんにしか見えない。

 だが、その袋の中には、現代魔術師たちが一生かかっても拝めないような、国宝級の呪具が眠っていることを、リナと剣崎はまだ知らない。


 こうして、千年前の最強陰陽師と、現代最強の探索者。

 そしてお節介な姪っ子による、奇妙な「往診」が行われようとしていた。

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― 新着の感想 ―
こんにちは。 困ってる人を助けたいという気持ち『だけは』良いものだと思うんですよ。でもなリナちゃん、君のエゴのせいで叔父さんに『本来背負わなくて良い』余計なものを背負わせてしまう…という事に気付いて…
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