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第7話

「ぐぬぬぬぬ……っ!」


 静寂に包まれた『久遠堂』の店内に、苦悶の唸り声が響いていた。

 声の主は、リナだ。

 彼女は床に四つん這いになり、一枚の雑巾を両手で押さえつけ、必死の形相で前に進もうとしていた。


「重い……! なんで……ただの雑巾がこんなに重いのよぉおおおお!!」


 リナの腕はプルプルと痙攣し、額からは滝のような汗が流れ落ちている。

 傍から見れば、ただの床拭きだ。だが彼女の体感としては、漬物石を雑巾の上に乗せて引きずっているに等しい負荷がかかっていた。


 カウンターの奥、指定席で文庫本を広げる湊は、その様子をチラリと見て鼻を鳴らした。


「おいおい、情けない声出すなよ。まだ畳二畳分も進んでないぞ」

 

「だ、だって! この床、接着剤でも塗ってあるんじゃないの!?」

 

「ただの汚れだ。長年染み付いた『澱み』ってやつだな」


 湊は涼しい顔で嘘――ではないが、真実の半分しか言わずにページをめくった。


 リナが手にしている雑巾と、彼女が磨いている床。

 そこには、現代の魔術師たちがとうに忘れた法則が働いている。


 『久遠堂』に並ぶ商品は、長い時を経た古道具ばかりだ。

 それらは微弱な霊性を帯び、人の念や土地の穢れを吸い寄せ、蓄積する。

 それは物理的な埃ではない。霊的な質量を持った「汚れ」だ。

 

 普通の掃除道具では、その上を滑るだけで何も拭き取れない。

 だから湊は、リナに特製の「呪具」を渡した。

 霊力の伝導率を極限まで高めた、麻の繊維で編まれた雑巾。

 これを使って穢れを拭い去るには、使用者が無意識に自身の生命力――霊力を指先に練り上げ、雑巾を通して対象に浸透させ、穢れを中和・剥離させなければならない。


 つまり、リナが感じている「重さ」は、彼女の霊力不足とコントロールの未熟さが生む抵抗そのものだった。


「ほら、腰が浮いてるぞ。丹田……へその下あたりに力を入れろ。腕で拭くんじゃない、体幹で拭くんだ」

 

「い、言われなくてもぉおおおおお!!」


 ズズズ……ッ。

 リナが渾身の力で雑巾を押し出すと、黒ずんでいた床板が一瞬で白木のような輝きを取り戻した。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

「お、綺麗になったな。やればできるじゃないか」

 

「こ、これ……店中やるの……?」

 

「当たり前だ。天井の梁も、商品の隙間もな。チリ一つ残すなと言っただろ」

 

「鬼! 悪魔! ぐうたら店主!」


 リナの悲鳴を聞きながら、湊は心の中でほくそ笑んだ。

 これは、かつて陰陽寮の新人が最初にやらされた「練気」の基礎訓練だ。

 

 本来なら三年かけて呼吸法から学ぶところを、これなら実戦形式で無理やり叩き込める。

 

 (ま、三日もすれば音を上げて辞めるだろ)


 湊はそう高を括っていた。

 リナの根性を舐めていたわけではないが、霊力の消耗は肉体の疲労とは質が違う。

 精神が摩耗し、泥のように眠り続けることになるはずだ。

 そうすれば、この騒がしい姪っ子も少しは大人しくなるだろう。


 ――だが。

 その予想は、わずか一週間で裏切られることになる。




 一週間後。


 シュババババババババババババッ!!!


 凄まじい風切り音が店内に響き渡っていた。

 湊が呆然と見守る中、一つの「残像」が店内を縦横無尽に駆け巡っている。


「ふふ〜ん♪ 今日もいい天気〜♪」


 鼻歌交じりに、リナが雑巾がけをしていた。

 その速度は尋常ではない。

 

 四つん這いの姿勢のまま、まるで低空飛行するツバメのようなスピードで廊下を滑走し、ターンを決め、柱の側面を垂直に駆け上がり、天井の梁を拭き上げ、また床に着地する。


 一連の動作に淀みはなく、呼吸すら乱れていない。


「……おい」

 

「あ、叔父さんおはよう! 見てよ、この棚! ピカピカでしょ?」


 リナが満面の笑みで振り返った。

 その指先からは、薄っすらと青白い光――高純度の霊気が漏れ出しているが、本人は全く気づいていない。


「重かった雑巾も、コツを掴んだら軽くなったよ! やっぱり筋トレって大事だね!」

 

「……筋トレ、ねぇ」


 湊は引きつった笑みを浮かべた。

 違う。

 それは筋力じゃない。

 

 リナは無意識のうちに「身体強化」の術式を常時発動させ、さらに雑巾に最適な量の霊力を流し込む「流転」の技術を習得してしまっている。

 あの重たい穢れの抵抗を、「コツ」という感覚だけでねじ伏せたのだ。


「叔父さん、そっちの壺どかしてー」

 

「あ、ああ」


 湊が指示しようとする前に、リナは片手でひょいと、大人が二人掛かりでも持ち上がらないような巨大な鉄瓶を持ち上げ、その下の埃をサッと拭き取った。


「よし、完了! 次は倉庫ね!」


 風のように去っていくリナの背中を見送り、湊は冷や汗を拭った。


 (化け物か……やっぱり、あの姉さんの娘ってことか)


 血筋か。

 それとも、あの管狐との契約が彼女の回路を開いたのか。

 

 いずれにせよ、今のリナの身体能力は、強化魔法を使った一流の探索者すら匹敵し始めている。

 しかも、それを「掃除で体力がついた」程度にしか認識していないのが恐ろしい。


 (こいつをこのまま世間に出すのはまずいか、ある程度コントロールできるように術式を教えるか……ああ、面倒だ)


 湊が頭を抱えようとした、その時だった。


 


 ドンドンドン!!

 ガタガタガタッ!!


 静寂を切り裂くように、再び入り口の戸が悲鳴を上げた。

 外からの騒音は、一週間前よりもさらに激しさを増していた。


「ごめんくださーい」

 

「ここが『久遠堂』だろ!? 隠れてないで開けろ!」

 

「この店自体が魔導具らしいぞ、剥がして持って帰れば報酬がもらえるらしいぞ!」

 

「剥がせ剥がせ!」


 マスコミだけではない。

 ネットの噂を信じ込んだ野次馬や、再生数を稼ぎたい配信者、さらには店の商品を狙う盗賊紛いの連中までが押し寄せている。

 結界も、物理的な破壊行動の前には限界があった。


「……あー、うるさい。本当にうるさい、いつまでくるんだこいつらは」


 湊は深く、重く溜息をついた。

 リナの成長という悩み事に加え、この騒音。

 愛する読書の時間も、昼寝の静寂も、すべてが台無しだ。


「リナは掃除に夢中だし……やるか」


 湊はのっそりと立ち上がると、カウンターの上に置いてあった筆を手に取った。

 そして、空中にさらさらと見えない文字を書く。


「五行反転、八門閉鎖。道はありて無きが如く、入り口は出口に繋がる」


 呟きと共に、湊は指を鳴らした。


 パチン。


 その瞬間、店を包む空気が、ぐにゃりと歪んだような感覚が走る。

 外の騒音が、プツリと途切れた。


「……よし」


 湊は満足げに頷き、再び椅子に座った。


 

 ---


 

【新宿】ダンジョン配信スレ part3【久遠堂どこ?】


560 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:30:00 ID:Maigo

おい、誰か助けてくれ

さっきから『久遠堂』に辿り着けない


561 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:31:20 ID:HaTeNa

>>560

は? 住所特定されてるだろ

歌舞伎町の路地裏、自販機の横を入ったところだ


562 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:32:00 ID:Maigo

そこなんだよ!

自販機の横を曲がったはずなのに、気づいたら駅前のロータリーに出るんだよ!

もう5回目だぞ!?


563 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:33:45 ID:Streamer_X

俺もだ。

配信しながら向かってたんだけど、店の前まで行こうとすると、なぜかカメラの映像が乱れて、気づいたらファミレスの中にいた。

リスナーも「え? 転移した?」って大混乱してる。


564 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:35:10 ID:OcaLt

それマジ?

Googleマップ見ても、その区画だけ表示がおかしくないか?

ピンが刺さらないし、ストリートビューも砂嵐になる。


565 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:36:20 ID:Kowai

さっき現地行ってきたけど、ヤバいぞ。

路地に入った瞬間、方向感覚が狂う。

真っ直ぐ歩いてるつもりなのに、気づいたら同じ電柱の周りをグルグル回ってた。

「狐に化かされた」って、こういうことか?


566 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:38:00 ID:Matome

【悲報】リナちゃんの店、都市伝説化する

「行こうとすると戻される」「店そのものが消えた」との報告多数。

現代の「迷いマヨイガ」かよ。


567 :名無しの探索者:202X/XX/XX(金) 15:40:00 ID:Majic

魔術協会の解析班も撤退したらしい。

「認識阻害のレベルが違う。空間そのものが隔離されている」だと。

あの店、何なんだ……?


 

 ---



 外の世界で起きている「神隠し騒動」など露知らず、店の中は平和そのものだった。

 

「ふふ〜ん♪ ここも綺麗になった!」


 リナは一心不乱に床を磨いている。

 その背中からは、充実感すら漂っていた。

 一週間前までは「ただの雑用」と腐っていたのが嘘のようだ。


「……叔父さん、なんか外、静かになったね?」


 手を止めずにリナが尋ねる。

 湊は文庫本から目を離さずに答えた。


「ああ、みんな飽きて帰ったんじゃないか? 日本人は熱しやすく冷めやすいからな」

 

「そっかー。じゃあ、もう少し掃除したら買い物行ってこようかな! 最近、体が軽くて走りたい気分なんだよね!」


 リナが無邪気に笑う。

 その笑顔の裏で、彼女の身体能力と霊力は、常人の域を遥かに超えつつあった。


 そして、店を取り巻く結界もまた、湊の手によって、国家最高機密レベルの防壁へと書き換えられてしまっている。


 湊は本を読みながら、小さく溜息をついた。


 (想像より早いな……)


 リナの才能の開花。

 

 そして、それを隠すために行使した、俺自身の力の露出。

 平穏を求めて打った手が、皮肉にも、より大きな注目を引き寄せる種になっている気がしてならない。


 「迷い家」と化した『久遠堂』。

 地図から消えたその場所を、しかし、世界は見逃さないだろう。


 静寂は戻った。

 だがそれは、より大きな嵐が訪れるまでの、束の間の凪に過ぎなかった。

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