第6話
ドンドンドン!! ガンガンガン!!
古びた木造建築が悲鳴を上げている。
『久遠堂』の入り口である引き戸は、今にも外れて倒れ込みそうだった。
磨りガラスの向こうには、無数の人影が蠢いている。
「リナちゃーん! 居ますかー? 居たら、出てきてくださーい!」
「一言だけでいいんで! コメントを!」
「ここが伝説の武器屋ですか!? 撮影許可くださーい!」
「おーい! 隠れてないで出てこいよー!」
マスコミ、迷惑系配信者、ただの野次馬。
欲望と好奇心に塗れた濁流が、薄い一枚の戸を隔てて渦巻いている。
店内に避難していたリナは、青ざめた顔で後ずさりした。
「ど、どうしよう叔父さん……これ、警察呼んだ方がいいかな?」
「警察か。呼んでも来る頃にはドアが壊されてるだろうな」
カウンターの中、店主の湊は心底めんどくさそうに溜息をついた。
彼は読みかけの文庫本をパタンと閉じ、ボサボサの頭をガシガシと掻く。
「まったく……これだから現代っ子は。少しは常識ってもんを学べよ」
「常識とか言ってる場合!?」
「常識ってのは大事なんだぞ、特にコミニュケーションにおいては非常に大事だ」
湊は緩慢な動作で立ち上がると、騒音に揺れる入り口の方へと目を向けた。
その瞳の奥で、何かが冷たく光った気がした。
「だから、そんな常識のない人たちは……」
「――邪魔だなぁ」
彼は右手を軽く持ち上げ、中指と親指を重ねた。
そして、軽く鳴らす。
パチン。
乾いた音が店内に響いた。
ただの指パッチンだ。魔力が高まる予兆も、詠唱も、魔法陣の展開もなかった。
だが。
「え……?」
リナは耳を疑った。
次の瞬間、外から聞こえていた怒号と悲鳴、戸を叩く音が、完全に消滅していたのだ。
まるでテレビの電源を落としたかのような、唐突な静寂。
リナは恐る恐る、入り口に駆け寄った。
少しだけ戸を開け、外を覗き込む。
「嘘……」
誰もいない。
つい数秒前まで、そこには数十人の人間が密集していたはずだ。
地面には彼らが落としたであろうタバコの吸い殻や、踏み潰された空き缶が残っている。
だが、人間だけが綺麗さっぱり消えていた。
路地裏には、ただ湿った風が吹き抜けているだけだ。
「お、叔父さん! みんなどこ行ったの!?」
「ん? ああ、ちょっと場所をズレてもらった」
湊は再び椅子に座り込み、あくびを噛み殺している。
「ズレてもらったって……どこに!?」
「三丁目の公園とか、駅前のロータリーとか、まあその辺だろ。急に景色が変わってキョトンとしてるんじゃないか?」
「それって……転移魔法!? それも、数十人同時に!?」
リナの声が裏返った。
現代魔術において、人間一人の転移ですら極めて高等な術式だ。
莫大な魔力と、複雑な座標計算が必要になる。
それを、指先一つで、しかも対象を強制的に移動させるなんて聞いたことがない。
リナの脳裏で、これまでの出来事が走馬灯のように繋がった。
ダンジョンでの管狐の召喚。
Sランクモンスターの消滅。
そして今の、デタラメな転移術。
目の前にいる、寝癖頭の冴えない叔父。
彼はただの古道具屋じゃない。
「叔父さん……すごい……」
「ん?」
「かっこよすぎでしょおおおおおおおおおお!!」
リナはカウンターに身を乗り出し、目をキラキラと輝かせて湊に詰め寄った。
「今の何!? どうやったの!? 魔法陣もなしで!? 私にもできる!?」
「うおっ、近い近い! 唾飛んでる!」
「教えて! ねぇ教えてよ叔父さん! いや、師匠!」
「誰が師匠だ」
リナの興奮は最高潮に達していた。
憧れの探索者になっても、優れた相手と比較され、悔しい思いをしてきた日々。
けれど、自分のすぐ身近に、常識を覆す「本物」がいたのだ。
「私、弟子入りする! 叔父さんのその術、全部教えて!」
「嫌だ」
「即答!?」
「めんどくさい」
「理由がクズ!!」
湊は心底嫌そうな顔で手を振った。
「いいかリナ。お前が勘違いしてるようだから言っとくがな、俺がやってるのは『魔術』じゃない。陰陽術だ」
「陰陽術……」
「そう。あんなもん、今どき流行らない古臭い技術だよ。スマートじゃないし、泥臭いし、地味だ」
湊はもっともらしく語り始めた。
なんとかしてリナの興味を削ごうという魂胆が見え見えだ。
「現代魔術を見てみろ。魔道具で誰でも起動できて、エフェクトも派手でキラキラしてて、かっこいいだろ? ナウいヤングはみんなあっちに行くんだよ」
「ナウいヤングっていつの時代の言葉よ……」
「とにかく! 俺の技なんぞ覚えても、探索者として何の役にも立たん。モテないぞ? インスタ映えもしないぞ?」
「そんなのどうでもいい! あんな凄いの見せられて、納得できるわけないじゃん!」
リナは食い下がる。
彼女の熱意は本物だった。
あの白い狐に守られた時の温かさと、圧倒的な力強さ。
あれが「古臭い」なんて嘘だ。
「私、強くなりたいの! バカにされてきたけど……この子……白雪ちゃんと一緒に、もっと上に行きたい!」
『キュウ!』
いつの間にか湊の肩から、リナの肩に乗り移っていた管狐の白雪も、同意するように鳴いた。
「あー……もう」
湊は天を仰いだ。
(参ったな……)
湊の本音は、ただ一つ。
「平穏に暮らしたい」。
それだけだ。
弟子なんて取れば、修行だなんだと時間を取られるし、責任も生じる。
何より、自分の「隠居」が脅かされる。
だが、リナの現状を冷静に考えると、突き放すのも危険だった。
彼女は今、世界中から注目されている。
『ダンジョンのイレギュラー』を一撃で葬った少女。
その力の秘密を知りたがる連中は、マスコミだけではないだろう。
魔術協会、大手の探索者クラン、あるいは裏社会の組織。
無防備な彼女を野放しにすれば、遅かれ早かれ拉致されるか、実験台にされるのがオチだ。
(それに……これが一番の問題だが)
湊は脳裏に、ある人物の顔を思い浮かべて身震いした。
リナの母親。つまり、湊の実の姉だ。
『湊? もしリナにあんたが原因で何かあったら……わかってるわよね?』
かつて笑顔で告げられた言葉が、呪いのように蘇る。
あの姉は、魔術など使えなくとも、湊より遥かに恐ろしい「物理的な暴力」と「精神的な圧迫」の使い手だ。
リナがトラブルに巻き込まれたと知れば、間違いなく『久遠堂』は更地にされ、湊は東京湾の底に沈められるだろう。
(……守るしか、ないか。俺の命のために……まあ、可愛い姪っ子だしなぁ)
湊は大きな溜息と共に、観念したように肩を落とした。
「……わかったよ」
「えっ!? 本当!?」
「ああ。ただし! 条件がある」
湊はビシッと人差し指を立てた。
「俺の指導は厳しいぞ。現代魔術の理論なんて通用しない。理不尽で、非効率で、前時代的だ。それでもやるか?」
「やる! やります! どんな修行でも耐える!」
「言ったな? じゃあ、早速修行開始だ」
湊はカウンターの下から、一本のほうきと、薄汚れた雑巾を取り出した。
それをリナの方へ放り投げる。
「へ?」
リナは反射的にそれらを受け止めた。
「まずは、店の大掃除だ」
「……はい?」
「見ての通り、この店はガラクタだらけで埃っぽい。商品の陳列棚、床、天井の梁、裏の倉庫。全部ピカピカにしろ。チリ一つ残すな」
「はあ!? い、いや掃除って……修行は? 術の使い方は!?」
「これが修行だ。文句があるなら帰れ」
湊は冷たく言い放つと、再び文庫本を開き始めた。
「……なんだ、雑用か」
リナはガクリと肩を落とした。
漫画やアニメのような、かっこいい陰陽術の練習を期待していたのに。
結局、体のいい家政婦扱いということか。
「……わかったよ。やればいいんでしょ、やれば」
「返事は『はい』だ」
「はいはい!」
「『はい』は一回!」
「はい!」
リナは不満たらたらで、雑巾をバケツの水に浸した。
彼女は憤りをぶつけるように、近くにあった壺のような商品を拭き始めた。
――しかし。
リナはまだ気づいていない。
「んぐっ……」
雑巾が、異常に重かった。
水を含んでいるからではない。
まるで、雑巾が何かに吸い付いているような、泥の中を掻き回しているような抵抗感があるのだ。
「何これ……汚れが、こびりついて離れない……?」
リナは歯を食いしばり、全身の力を使って壺を磨く。
額に汗が滲む。
ただの掃除なのに、数回拭いただけで、ダンジョンで剣を振るった時のような疲労感が襲ってくる。
その様子を、湊は文庫本の陰から横目で観察していた。
口元に、微かな笑みが浮かぶ。
(気づいてないようだな)
この店にある「ガラクタ」たちは、ただの古道具ではない。
呪物、霊具、あるいは数百年を経た付喪神予備軍。
それらが発する「穢れ」や「澱み」は、物理的な埃とは違う。
霊的な質量を持った泥のようなものだ。
それを拭い去るには、無意識のうちに自身の生命力――すなわち「霊力」を指先に集中させ、対象に浸透させて、穢れを剥離させなければならない。
湊が渡した雑巾とほうきは、その霊力の伝導効率を極限まで高めた特製の呪具だ。
現代の魔術師は、体外にあるマナを集めて術式を組む。
だが、陰陽術の基本は、己の内にある霊力を練り上げ、万物に干渉すること。
掃除をすればするほど、リナは強制的に陰陽術の基礎となる「練気」と「霊力操作」の反復練習をさせられることになる。
しかも、店の商品をメンテナンスすることにも繋がるのだ。
(よくよく考えると一石二鳥だな)
湊は心の中でほくそ笑んだ。
店は綺麗になるし、結界は強固になるし、俺は楽ができる。
リナが音を上げて辞めるならそれでよし。
もし続けられるなら……まあ、少しはマシな使い手になるだろう。
「ふーっ、ふーっ……! なんでこんなに落ちないのよ!」
リナは悪戦苦闘している。
だが、彼女の指先から、微かだが温かい光が漏れ始めていることに、本人はまだ気づいていない。
管狐の白雪が、心配そうに、しかしどこか楽しげに、リナの周りを飛び回っていた。
外の世界では、「リナちゃん捜索」の狂騒が続いている。
だが、時空が歪んだように静かなこの古道具屋の中だけで、世界を変えるかもしれない「弟子入り」の初日が、地味に、しかし確実に始まっていた。
「おいリナ、そっちの棚の裏も忘れずにな」
「わかってるってば! ……クソぉ、絶対綺麗にしてやる!」
夕暮れの光が差し込む店内で、少女の戦いは続く。
これが、後の世に語り継がれる大陰陽師の、最初の第一歩であるとは、まだ誰も知らない。




