第4話
死ぬ。
誰もがそう確信した瞬間だった。
ダンジョンの変異種、鬼の棍棒が、風を切り裂いて振り下ろされる。
その棍棒は、人間の頭蓋骨など熟れたトマトのように容易く粉砕するだろう。
みーちゃんは腰を抜かしたまま動けず、その前に立ったリナもまた、恐怖で足が縫い止められていた。
安物の杖を構える手は震え、呼吸さえ忘れている。
視界がスローモーションになり、迫りくる死の影だけが鮮明に焼き付く。
(ごめんなさい、叔父さん……装備、返しに行けそうにないや)
リナはギュッと目を閉じた。
せめて、痛みを感じる暇もなく終わりますように。
暴風が肌を叩く。
しかし――。
いつまで経っても、骨が砕ける音も、激痛も訪れなかった。
「……グルル?」
代わりに聞こえてきたのは、鬼の困惑したような低い唸り声。
そして、チリリ、という涼やかな鈴の音だった。
「え……?」
リナは恐る恐る目を開けた。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
紅。
視界を埋め尽くすほどの鮮烈な紅の光が、リナとみーちゃんをドーム状に包み込んでいた。
鬼の巨大な棍棒は、その光の膜に阻まれ、ピタリと静止している。
あれほどの怪力で振り下ろされたはずの一撃が、薄い光の膜一枚を揺らすことすらできていない。
「な、なにこれ……?」
みーちゃんが震える声で呟く。
彼女の左目にある魔導スカウターは、けたたましいアラート音を上げ続けていた。
『警告:測定不能』
『警告:未知のエネルギーを検知』
「測定不能……!? なにこれ……いや、魔力じゃない!?」
その光の源は、リナの黒髪に挿された一本の簪だった。
安っぽい珊瑚玉だと思われていた飾りが、今は灼熱の太陽のように輝いている。
不意に、光が収束した。
リナの頭上から、スウッと白い霧のようなものが漏れ出す。
それは瞬く間に形を成し、一つの「生命」として顕現した。
大きさは、子猫ほどだろうか。
しかし、その全身は白銀の毛並みに覆われ、尾は長く優雅に揺らめいている。
キツネだ。
だが、ただのキツネではない。
その瞳は宝石のルビーのように紅く、そこから放たれる威圧感は、目の前の巨鬼をも凌駕していた。
『キュウ……』
愛らしい、けれどどこか神々しい鳴き声。
それは、湊が気まぐれに封印しておいた守護式神――『管狐』。
かつて平安の都で、要人警護のために陰陽師たちが使役した、退魔の霊獣である。
管狐はリナの肩にふわりと降り立つと、主に危害を加えようとした不届き者を見上げた。
その瞬間、可愛らしい瞳がスゥッと細められる。
空気が凍った。
物理的な温度ではない。
その場を支配する「格」の差が、空間そのものを震わせたのだ。
「グ、オ……?」
さっきまで殺意の塊だった鬼が、後ずさった。
本能が告げているのだ。
目の前の「小さな白い獣」は、自分など比較にならないほど上位の捕食者である、と。
管狐は、小さくあくびをした。
それはまるで、持ち主である湊の癖が乗り移ったかのようだった。
『キュッ』
短く鳴いた次の瞬間。
世界から音が消えた。
みーちゃんの高性能ドローンカメラでさえ、その動きを捉えることはできなかった。
白銀の閃光。
ただ一筋の光が、鬼の巨体を突き抜けたように見えた。
管狐はすでに元の位置――リナの肩の上に戻っており、何事もなかったかのように毛繕いをしている。
「……え?」
リナが瞬きをする。
目の前の鬼は、まだ立っていた。
棍棒を振り上げた姿勢のままだ。
「外した……の?」
誰かがそう呟こうとした時だった。
パキィィィィィン……。
ガラス細工が砕けるような、澄んだ音が響いた。
鬼の巨体に、無数の亀裂が走る。
傷口から血は出ない。
代わりに溢れ出したのは、白い光の粒子だった。
「ガ、ア……」
断末魔すら上げることは許されなかった。
鬼の体は足元からさらさらと崩れ去り、光の塵となって大気中に霧散していく。
現代魔術の総攻撃でも傷一つ付かないであろうSランク相当の変異種が、たった一撃。
それも、破壊ではなく「浄化」。
存在そのものを理から抹消する、神域の術だった。
数秒後。
そこには、何も残っていなかった。
鬼も、殺気も、恐怖も。
ただ、リナの肩で「仕事終わりましたけど?」と言わんばかりに首を傾げる、小さな白い狐だけを残して。
当のリナは、まだ事態を飲み込めていなかった。
肩に乗った管狐と目を合わせ、呆然と呟く。
「……これ、叔父さんのおまけ……だよね?」
管狐は『キュウ』と愛想よく鳴くと、ふわりと光の粒子となって簪の中に吸い込まれていった。
あとには、元の煤けた黒い簪だけが残る。
「リ、リナちゃん……」
腰を抜かしていたみーちゃんが、震える手でリナの服の裾を掴んだ。
「あんた……一体、何持ってきたの……?」
「わ、私にも分からないよ……」
リナの声は震えていた。
ただ一つ確かなのは、あのやる気のない古物商の叔父さんが、とんでもないものを渡してくれていたということだけだった。
一方その頃。
ダンジョンの喧騒から遠く離れた、路地裏の『久遠堂』。
店主の久遠湊は、カウンターの上で気持ちよさそうに寝息を立てていた。
平和な午後。
西日が差し込み、埃がキラキラと舞っている。
ピクッ。
不意に、湊の眉がわずかに動いた。
微睡みの中で、彼は遠く離れた場所で自分の術式が起動したのを感じ取っていた。
「……ん?」
湊は薄っすらと目を開け、あくびを噛み殺した。
「……ああ、管狐か。リナのやつ、何かトラブったか?」
彼が感じたのは、管狐が「羽虫を一匹潰した」程度のごく微細な霊力消費だった。
湊の感覚では、鬼など「羽虫」と同義である。
だからこそ、彼は事態を深刻に捉えなかった。
「まあ、発動したってことは無事ってことだろ。……やっぱり持たせておいて正解だったな」
姪っ子の安全が確認できたことに満足し、湊は再びカウンターに突っ伏した。
「ふぁぁ……。これで安心して寝れる……」
彼はまだ気づいていない。
その「羽虫退治」の光景が、全世界に配信されてしまったことを。
そして、自分が持たせた「おまけ」が、現代社会のパワーバランスを崩壊させる引き金になったことを。
平穏な隠居生活を愛する男、久遠湊。
彼の望む「静かな老後」は、この瞬間、音を立てて崩れ去った――のだが、本人がそれを知るのは、もう少し先の話である。
「むにゃ……次は、猫になりたい……」
幸せそうな寝言を残し、伝説の陰陽師は深い眠りへと落ちていった。
〜あとがき〜
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