第37話
東京、新宿。
昼下がりの日差しが、古びた商店街のアスファルトを柔らかく照らしている。
その一角にひっそりと佇む古物商『久遠堂』。
普段ならば、埃を被った骨董品たちが静かに眠るだけのこの店だが、ここ数日は店の外から奇妙な熱気が伝わってくるような気がした。
世間は今、成田ダンジョンで起きた「謎の怪奇現象」と、それを鎮めた「白き狩衣の英雄」の話題で持ちきりだ。
ワイドショーも、SNSも、週刊誌も、こぞってその正体を探ろうと躍起になっている。
だが、この店の木戸を一枚隔てた内側には、奇跡的な静寂が保たれていた。
「……ふぁぁ」
店主である久遠湊は、カウンター席で大きくあくびをした。
煎餅の欠片が散らばったちゃぶ台に頬杖をつき、うとうとと船を漕いでいる。
政府のエージェント、佐伯の根回しは完璧だった。
彼女が徹底的な情報操作と報道規制を敷いてくれたおかげで、「久遠湊」という個人名が表に出ることはなく、マスコミの矛先は「正体不明の陰陽師」という概念に向けられている。
加えて、湊自身が店の周囲に張り巡らせた「人払い」の結界も機能していた。
悪意や過度な好奇心を持った人間は、無意識のうちにこの店を素通りしてしまうのだ。
「……平和だ」
湊は、午後の陽だまりの中で独りごちた。
遠くから聞こえる車の走行音。
古時計が刻む、チクタクという規則的なリズム。
そして、鼻をくすぐる古い紙と畳の匂い。
「これだよ。俺が求めていたのは、この凪のような時間なんだ」
世界を救った? 知ったことではない。
新人類? どうでもいい。
今の湊にとって重要なのは、この絶妙な角度で配置したクッションに頭を預け、至福の二度寝へとダイブすることだけだ。
湊は満足げに目を閉じ、意識を微睡みの淵へと沈めていく。
あと数秒で、夢の世界へ到達できる。
そう確信した、その時だった。
ドタドタドタドタッ!!
静寂を木っ端微塵に粉砕する、荒々しい足音が廊下から響いてきた。
「叔父さん! 起きて! 起きてよ叔父さんッ!!」
バンッ! と襖が開け放たれる。
飛び込んできたのは、制服姿の久遠リナだった。
彼女は片手にスマートフォンを握りしめ、顔を紅潮させて息を切らしている。
「……なんだ、相変わらず騒がしいな。猛獣かお前は」
湊は不機嫌そうに片目だけを開けた。
夢への旅路は、無残にも強制終了させられたようだ。
「それどころじゃないの! 大変なことになってるんだから!」
「大変なこと? ……冷蔵庫のプリンなら、俺が食ったぞ」
「プリンの話じゃない! ……って、あれ私のだったのに! まあいいや、これ見て!」
リナはズイッとスマホの画面を湊の顔面に突きつけた。
液晶画面には、SNSの通知画面が映し出されている。
数字の桁がおかしい。通知バッジが「99+」でカンストしている。
「これ、全部DMの依頼なの!」
「DMの依頼? 借金の督促状か?」
「違うよ! コラボ依頼! 次のダンジョン配信で、ぜひうちの商品を宣伝してほしいとか、うちのクランと合同探索してほしいとか!」
リナは興奮気味にまくし立てた。
成田での一件以降、リナの配信チャンネルの登録者数は爆発的に増加していた。
「あの現場にいた配信者」として、世界中から注目を浴びているのだ。
「でね、ここからが本題! どの依頼も、みんな口を揃えてこう書いてあるの!」
リナが画面をスクロールさせる。
そこには、似たような文言が並んでいた。
『可能であれば、あの狐面の陰陽師様もご同伴いただけますでしょうか』
『謝礼は弾みますので、ぜひ例の陰陽師の方とコンタクトを……』
『我がクランの顧問魔術師として、彼を招聘したい』
「……ほら、叔父さん! 大人気だよ!」
リナがキラキラした目で湊を見る。
だが、湊の反応は極めて冷ややかだった。
「断れ」
一刀両断。
湊は興味なさそうにあくびをし、再びクッションに顔を埋めようとした。
「えーっ! なんで!?」
「俺は一般人だ。顔出しNGだ。それに、そんな面倒なことに関わったら、昼寝の時間が減るだろ」
「もったいないよ! すごいチャンスなんだよ? ほら、この企業案件なんて、提示額がすごいんだから!」
リナが食い下がる。
彼女としては、叔父の凄さが世間に認められるのは鼻が高いし、あわよくば一緒に配信をして、もっと盛り上がりたいという下心もあるのだろう。
「『出演料は言い値で構いません』だって! 白紙の小切手みたいなもんだよ!?」
ピクリ。
湊の眉が動いた。
埋めていた顔を、ゆっくりと上げる。
「……いくらだ?」
「え?」
「相場だ。言い値と言っても限度があるだろ。具体的に、どの程度の予算感だ」
リナはニヤリと笑い、湊の耳元に口を寄せた。
そして、提示された推定金額を囁く。
「――――万円くらい」
シン……。
店内に沈黙が落ちた。
湊の目が、カッと見開かれる。
その金額は、この古びた店をリフォームし、最高級の和牛を一年間毎日食べ続け、さらに最新のゲーミングPCを揃えても釣りが来るほどの額だった。
(……マジか)
湊の脳内で、激しい葛藤が勃発した。
『いけません! 平穏な生活こそが至高! 金に目が眩んでは、元の木阿弥です!』
『バカ言え! これだけあれば一生遊んで暮らせるぞ! 高い布団も買い放題だ!』
天使の湊、悪魔の湊の言い争いが聞こえてくる。
湊の喉がゴクリと鳴る。
リナは勝利を確信したような顔で、スマホを振ってみせた。
「ね? すごいでしょ? これ受ければ、美味しいものもいっぱい食べられるよ?」
悪魔の囁きだ。
湊は数秒間、真剣な顔で虚空を見つめ、計算し、悩み、そして――。
ドサッ。
再びカウンターに突っ伏した。
「……いや、やっぱり寝る」
「はああぁぁぁ!?」
リナが絶叫した。
「なんで!? 今、心が揺らいでたよね!? すごい揺らいでたよね!?」
「揺らいだ。震度7くらい揺らいだ。だがな、リナ……」
湊はクッションに顔を埋めたまま、くぐもった声で言った。
「金で平穏を乱すのはよくない。一度でも顔を出せば、次はもっと、その次はもっとと要求される。際限がないんだよ、人間の欲望ってのは」
それは、千年の時を生きた陰陽師の実感だった。
一度歯車に組み込まれれば、二度と抜け出せなくなる。
金は欲しい。
だが、それ以上に「誰にも邪魔されない時間」は、金では買えない至宝なのだ。
「もー! 叔父さんの商売っ気なさすぎ! 頑固じじい!」
「じじい言うな。これでもピチピチの29歳だ」
「知らない! ……もういいよ、私が代わりに稼いでくるもん! 配信でガッポリ稼いで、叔父さんに高級肉見せびらかしてやるんだから!」
リナは頬を膨らませ、プリプリと怒りながら店の奥へと消えていった。
配信の準備をするつもりなのだろう。
バタンッ! と扉が閉まる音がして、ようやく店内には再び静寂が戻ってきた。
「……ふぅ。嵐が去ったか」
湊は薄目を開け、リナが消えた方向を見やった。
やれやれ、と肩をすくめるが、その表情には微かな笑みが浮かんでいる。
かつて、平安の世を生きた頃。
「最強」の名をほしいままにしていた久遠湊――あるいは、その前身であった陰陽師には、拒否権など存在しなかった。
帝の勅命。
貴族の嘆願。
民の悲鳴。
力があるというだけで、休む間もなく妖と戦わされ、政治の道具として利用され、血と穢れに塗れた日々を送った。
「寝たいから断る」などと言えば、即座に謀反の疑いをかけられただろう。
それに比べれば、今はどうだ。
とんでもない額の報酬を提示されても、「面倒くさい」の一言で蹴ることができる。
誰に強制されることもなく、自分の意思で、この古臭い店で惰眠を貪ることができる。
「……まあ、前世よりはマシか」
自由だ。
この何気ない選択の自由こそが、湊が勝ち取った勝利の証なのかもしれない。
湊は満足げに息を吐き、今度こそ邪魔されることのない深い微睡みへと、意識を委ねていった。
平和な午後。
最強の陰陽師は、今日も今日とて、店番をサボって夢の中へ旅立った。
――だが。
彼が愛するその「平穏」を、根底から揺るがす影が、すでに動き出していたことを、湊はまだ知らない。
***
場所は変わり、西の都――京都。
喧騒に包まれた東京とは対照的に、そこには千年の時が凝縮されたような静謐な空気が流れていた。
洛北の山間。
一般の地図には載っていない、広大な敷地を持つ古風な屋敷。
手入れの行き届いた枯山水の庭園には、ししおどしが時折「カコン」と乾いた音を響かせている。
その庭園を望む座敷の奥。
御簾が下ろされた薄暗い部屋に、一人の女性が座っていた。
十二単を現代風にアレンジしたような、豪奢な着物を纏っている。
畳の上に流れる髪は、月光を紡いだかのような美しい銀色。
その容姿は人間離れして美しく、どこか、湊が使役する管狐の「白雪」を連想させる神秘性を帯びていた。
彼女の白魚のような指先が、現代の利器であるスマートフォンを操作している。
画面に映し出されているのは、動画サイトで再生回数が伸び続けている、成田ダンジョンの切り抜き動画だ。
白い狩衣の男が、空へ舞い上がり、紫色の怪物を消滅させる瞬間。
画質は荒く、顔には狐面がつけられているため、その素顔は窺い知れない。
だが、彼女にはわかっていた。
その所作。
指先の動き。
そして何より、画面越しでも伝わってくる、懐かしくも愛おしい魂の色。
「……ふふっ」
女性の唇から、艶めかしい吐息が漏れた。
それは獲物を見つけた肉食獣のようでもあり、愛する人を待ち続けた乙女のようでもあった。
「やっと、見つけたわ」
彼女は愛おしそうに、画面の中の湊の姿を指でなぞった。
その瞳孔が、縦に細く裂ける。
金色の瞳が、妖しく輝いた。
「東京……」
彼女は、はんなりとした京都弁で呟いた。
その声には、千年の時を超えた執着と、逃しはしないという絶対的な意思が込められている。
「随分と長いこと待たせてくれたやないの。……なあ、愛しの『旦那様』?」
カコン。
庭のししおどしが、一際大きく音を立てた。
「千年のかくれんぼは、もうおしまいやねぇ」
女性が立ち上がる。
銀色の髪が、生き物のようにうねり、衣擦れの音が闇に響く。
西から東へ。
最強の陰陽師にとっての「最大の過去」が、今、目覚めようとしていた。
湊の平穏な隠居生活に新たな波乱が起きるまで――あと僅か。
~あとがき~
これにて、第一部、完となります。
ここまで読んでくださりありがとうございました。
受賞して、続きが書きたいなあ……、なんて思ったり。
もしかしたら、ふらっと続きを書いたりするかもしれないのでフォローと星の評価をお願いします。
以上。




