第36話
成田の空に、突き抜けるような蒼穹が戻っていた。
先ほどまで眼前を覆い尽くしていた紫色の悪夢――御影恭一郎の成れの果てである巨大球体は、今や跡形もない。
空に舞うのは、キラキラと輝く白い灰だけだ。
それは太陽の光を浴びてダイヤモンドダストのように煌めき、浄化された霊力の残滓となって大気に溶けていく。
圧倒的な静寂。
広場に残っていた群衆、マスコミ、機動隊員。
誰一人として、言葉を発することができなかった。
目の前で起きた出来事が、あまりにも常識を逸脱していたからだ。
見たこともないような怪物を、たった一人の人間が、たった数分で、しかも傷一つ負わずに消滅させたのだ。
それを「現実」として処理するには、人間の脳はあまりにも脆弱だった。
「ふぁぁ……」
そんな凍りついた時間を溶かしたのは、間の抜けたあくびの音だった。
視線が集まる先。
モニュメントの上に立つ白い狩衣の陰陽師――久遠湊が、大きく伸びをしていたのだ。
「終わった終わった。……肩凝ったなぁ」
そのあまりの緊張感のなさに、張り詰めていた空気がカランと音を立てて崩れ落ちた。
神殺しの英雄ではなく、ただの仕事終わりのサラリーマンのような背中。
だが、その姿を見て、一人の少女だけが我に返った。
「叔父さんッ!!」
久遠リナだ。
彼女はへたり込んでいた足に力を込め、涙を拭いながら湊の元へ駆け寄った。
怖かった。
死ぬかと思った。
もう二度と会えないかもしれないと、絶望しかけた。
でも、来てくれた。
いつものように、ダルそうな顔をして、けれど誰よりも強く、私の世界を守ってくれた。
「叔父さぁぁぁん!!」
感極まったリナは、勢いよく湊の胸に飛び込んだ。
「ぐっ……」
湊がわずかによろめく。
リナは湊の狩衣にしがみつき、顔を埋めて叫ぼうとした。
「すごかった! 本当にすごかったよ! ありがとう叔父さ……むぐぅッ!?」
言葉は最後まで続かなかった。
湊の大きな手が、リナの口を物理的に塞いだのだ。
ガシッ。
アイアンクローのような形相で、しかし力加減は絶妙に優しく。
「んー! んー!!(なにするのー!)」
ジタバタと暴れるリナの耳元で、湊がドスの利いた小声で囁いた。
「馬鹿。声がデカい」
湊は、周囲をキョロキョロと見回しながら、唇を動かさずに告げる。
「今、カメラが何台回ってると思ってるんだ? ここでもう一度『叔父さん』なんて呼んでみろ。俺の身元が一発で特定されて、明日から家の前にマスコミがテント張ることになるぞ」
「ッ……!」
リナの動きがピタリと止まった。
恐る恐る周囲を見る。
数台のテレビカメラ。
数百のスマートフォン。
そのすべてが、今、この「感動の再会」に向けられている。
もしここで、「久遠湊」という名前と、「久遠リナの叔父」という関係性がバレたら……。
平穏な隠居生活どころか、湊の嫌いな「しがらみ」が津波のように押し寄せてくる未来が確定する。
「むぐぐ……(ごめんなさい)」
リナが眉を下げて謝罪の意を示すと、湊はようやく手を離した。
「ぷはっ……! うぅ、ごめん。嬉しくてつい……」
「気持ちはわかるが、今は状況が悪い。……見ろ、動き出した」
湊が顎でしゃくった先。
静寂から解き放たれたマスコミ陣が、特ダネの匂いを嗅ぎつけて、バリケードを突破しようと押し寄せ始めていた。
「あの! そこの陰陽師の方ーッ!!」
「一言お願いします! あなたは一体何者なんですか!?」
「その力は何なんですか!? 政府の関係者ですか!?」
「リナちゃんとの関係は!?」
怒号のような質問の嵐。
フラッシュの光が、機関銃のように明滅する。
「うわぁ……」
リナがドン引きして後ずさる。
モンスターの群れよりも、人間の群集の方がよほど質が悪い。
「……はぁ、面倒だな」
湊は心底嫌そうにため息をつくと、ポンとリナの背中を押した。
「え?」
「あとは若いもんでなんとかしろ。俺は帰る」
「ええぇ!?」
リナが素っ頓狂な声を上げた。
この状況で、私一人を置いていく気!?、とでも言いたげな表情だ。
「だって俺、一般人だし。顔出しNGだし。後の説明は『現場にいた人気配信者』に任せるのが筋ってもんだろ?」
「そんな無茶苦茶な! 私だって何て説明すればいいか……!」
「『通りすがりの変な人に助けられました』でいい。じゃあな、晩飯の時間には戻る」
湊は面を少しずらしてニヤリと笑うと、右手の指を立てた。
「ちょ、待っ――」
リナが伸ばした手は、空を切った。
パチン。
乾いた指の音が響いた瞬間。
湊の姿が、陽炎のように揺らいだ。
空間を折り畳み、座標を入れ替える高等転移術。
フッ……。
まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、白い狩衣の陰陽師は跡形もなく消え失せた。
残されたのは、マスコミの群れと対峙することになった、可憐な女子高生が一人。
「あ……」
リナは引きつった笑顔で、押し寄せるカメラの砲列に向き直った。
「リナちゃん! 今の男性は!?」
「どこへ消えたんですか!?」
「コメントを! コメントをォォォ!!」
「えっと、その、あの……!」
リナは心の中で叫んだ。
(叔父さんのバカァァァァァッ!! 覚えてろーッ!!)
成田の広場は、新たな狂騒の渦に飲み込まれていった。
***
その頃。
インターネット上では、すでに「祭り」が始まっていた。
SNSのトレンドは、瞬く間に成田関連のワードで埋め尽くされた。
『成田ダンジョン』
『紫の球体』
『陰陽師』
『リナちゃん無事』
『謎の狐面』
動画サイトにアップロードされた中継の録画映像は、数分で数百万回再生を突破。
コメント欄は滝のように流れている。
『なんだあの陰陽師!? かっこよすぎだろ』
『CG? 映画の撮影?』
『いやガチだよ。現地いたけど空飛んでたもん』
『リナちゃんのスタンド説』
『フィクションの陰陽師だろ。あの攻撃のいなし方、達人すぎる』
『リナちゃんの知り合いっぽい?なんでマイクを向けてねえんだよ、マスゴミ』
『誰か特定班いないの?』
『無理。狐面で顔見えないし、一瞬で消えた』
正体不明。
圧倒的強者。
そして、俗物的な言動。
そのギャップは現代人の心を鷲掴みにし、またたく間に「謎の英雄ファンクラブ」が結成され、イラストや考察記事が乱立し始めた。
世界は、新たな「特異点」の出現に熱狂していた。
だが、それを笑って見ていられない者たちがいた。
***
東京・永田町。
首相官邸、地下危機管理センター。
分厚いコンクリートに守られた大会議室には、重苦しい空気が沈殿していた。
円卓を囲むのは、内閣総理大臣をはじめ、防衛大臣、国家公安委員長、そして各省庁のトップたち。
彼らの視線は、正面の巨大モニターに釘付けになっていた。
そこに映し出されているのは、衛星カメラが捉えた成田上空の映像。
湊が『八卦煉獄炉』を発動し、御影を消滅させる瞬間の高解像度データだ。
「……測定不能。測定不能。エラー、エラー、エラー。すべての計器が振り切れています」
技官がため息をつくように報告した。
「熱源反応なし。放射線反応なし。ですが、観測されたエネルギー係数は……戦術核兵器の爆心威力を遥かに上回っています」
シン……。
会議室が凍りついた。
一人の人間が、核兵器以上の破壊力を、行使したという事実。
「バカな……。そんな人間が存在していいはずがない」
防衛大臣がハンカチで額の汗を拭いながら呻いた。
「先ほど報告のあった御影恭一郎の『賢者の石』計画も脅威だったが、それを単独で、あのような形で無力化する存在……。これはもはや、国家安全保障上の最大懸念事項だ」
「直ちに身元を特定し、拘束すべきでは?」
公安委員長が鋭く発言する。
「彼がその気になれば、皇居も国会議事堂も一撃で消し飛ぶ。野放しにはできん。管理下に置くべきだ」
「……それは、おやめになった方がよろしいかと」
冷静な、しかし絶対的な響きを持つ声が、議論を遮った。
部屋の隅。
スーツ姿の女性――内閣府直轄・対ダンジョン特務機関のエージェント、佐伯美香が静かに手を挙げていた。
「佐伯くん。君は、何か知っているのかね?」
総理が問う。
佐伯は一瞬だけ躊躇いを見せたが、すぐに無表情の仮面を被り直した。
彼女は湊の正体を知っている。
だが、それをここで明かせばどうなるか。
政府は彼を利用しようとし、湊はそれを拒絶し……最悪の場合、この国が焦土と化すかもしれない。
「あの人物の特定は、現時点では不可能です」
佐伯は嘘をついた。
国家を守るための、必要な嘘を。
「現場の映像解析、魔力波長の照合を行いましたが、データベースに該当者は存在しませんでした。おそらく、既存の探索者枠組みに属さない、独自の術理を持つ『隠れ人』かと」
「だからこそ、捕獲して尋問を……」
「不可能です」
佐伯は断言した。
「先ほどの転移術を見ましたか? 彼は一瞬で座標を書き換えたのでしょう。軍隊で包囲しようが、ミサイルを撃ち込もうが、彼を捕らえることはできません。逆に、彼を敵に回せば、我々は寝首をいつ掻かれるのか、それに怯えながら過ごすことになるでしょう」
佐伯はモニターの中の、白い狩衣の背中を見つめた。
「彼には、政治も、金も、権力も通じない。彼が求めているのは、おそらく『不干渉』です」
会議室に沈黙が戻る。
圧倒的な力を持ちながら、社会への干渉を避ける存在。
それを刺激することのリスクは、計り知れない。
総理が重々しく口を開いた。
「……つまり、腫れ物には触るな、ということか」
「はい。彼を公に特定し、管理しようとすれば、必ず反発を招きます。彼一人が敵に回れば、日本の防衛機能は崩壊するでしょう」
佐伯は深く一礼し、提言した。
「彼を、国家最重要機密レベルの『特異点』に指定することを具申します。政府からの接触は一切行わず、彼を敵に回すような行為は、国家反逆罪と同義とする。……彼を『味方ではないが、敵でもない』位置に留めておくことが、唯一の戦略です」
高官たちは顔を見合わせた。
悔しさと、恐怖と、そして安堵。
様々な感情が交錯し、やがて総理がゆっくりと頷いた。
「……承認しよう」
その瞬間、久遠湊は、日本政府が非公式に認めた「特異点」となった。
触れてはいけない。
探してはいけない。
ただ、嵐が過ぎ去るのを待つように、その存在を黙認する。
佐伯は心の中で深くため息をついた。
(これで少しは、あなたの望む平穏が守れるかしら……久遠さん)
彼女の苦労は、まだ始まったばかりだった。




