第35話
成田ダンジョン・ゲート前広場。
そこは今、阿鼻叫喚の地獄絵図と化していた。
上空を覆うように存在するのは、直径五十メートルを超える紫色の巨大球体。
御影恭一郎の成れの果てであるその怪物は、地上の空気を吸ったことでさらに活性化し、無数の触手と光弾を雨あられと降り注がせた。
「ヒカリダ……! ヒカリダァァァァッ!!」
怪物の咆哮が空気を震わせる。
ドォォォォンッ!!
紫色の光弾がアスファルトに着弾し、爆発する。
逃げ惑う人々、カメラを抱えて悲鳴を上げるマスコミ。
誰もが死を覚悟し、頭を抱えてうずくまった、その時だった。
ヒュン、ヒュン、ヒュン。
風を切る音が、戦場の喧騒を切り裂いた。
空中に舞ったのは、数枚の和紙――霊符。
それらは意思を持った鳥のように編隊を組み、広場の上空に見えない天蓋を展開した。
ガガガガガガッ!!
降り注ぐ光弾の雨が、人々の頭上数メートルの位置で、何もない空中に弾かれ、霧散していく。
透明な結界。
傷一つ負うことなく守られた群衆は、呆然と空を見上げた。
「散らかすなよ。後片付けが面倒だろ」
呆れたような声が降ってきた。
見上げれば、モニュメントの上に立っていたはずの白い狩衣の陰陽師――久遠湊が、重力を無視して空へと歩み出していた。
透明な階段でもあるかのように、一歩、また一歩と上昇し、巨大な怪物の正面へと対峙する。
「ギィィィッ!!」
怪物の表面に浮かぶ無数の顔が、一斉に湊を睨みつけた。
憎悪。
それだけが、今の御影を動かす原動力だ。
ズズズッ!
球体から無数の触手が槍のように突き出され、湊を串刺しにせんと殺到する。
全方位からの同時攻撃。
逃げ場などない。
だが、湊は動じない。
懐から扇子を取り出し、まるで舞を舞うかのような優雅な動作で、迫り来る触手をいなしていく。
パシッ。
扇子で軽く触れられた触手が、次の瞬間、青い炎に包まれて燃え尽きる。
別の触手は凍りつき、砕け散る。
また別の触手は、泥のように溶け落ちる。
「芸がないな。力任せに垂れ流しているだけだ」
湊はため息交じりに言った。
湊と御影には圧倒的な質量差があるはずだ。
エネルギー量も御影の方が上かもしれない。
だが、そこには決定的な「理」の差があった。
「万物は五行に帰す。理を知らぬ力など、ただの暴力に過ぎない」
湊は空中で静止し、人差し指を立てた。
それはまるで、出来の悪い生徒に講義をする教師のようだった。
「『木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず』。これを五行相生という」
湊の周囲に、五色の光球が浮かび上がる。
「そして、『木は土に勝ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ』。これを五行相剋という」
御影が放つ紫色の呪い。
それは強力だが、属性が偏っている。
湊は瞬時にその属性を見抜き、相性の良い術式をぶつけて相殺、あるいは無効化していたのだ。
水には土を。
火には水を。
金には火を。
ジャンケンの後出しのように、湊は御影の全力攻撃を、最小限の力で完封していく。
しかし、御影はただの怪物ではなかった。
彼の「進化」は、絶え間ない適応を意味していた。
触手が次々と変化し始めた。最初は単純な槍状だったものが、突如として分岐し、鞭のようにしなりながら湊を狙う。
紫色の毒液を滴らせ、触れるだけで腐食させる触手も現れた。
「ほう、学習するのか。面白い」
湊は軽く笑ったが、目は鋭かった。
扇子を振るう速度を上げ、迫る触手を次々と撃退する。
だが、触手の数は増え続け、広場全体を覆うほどの密度になった。
触手が地面に叩きつけられるたび、爆音が響き、アスファルトが抉られる。
だがそのすべてが湊によって、防がれ、逸らされていた。
「ナ、なゼだ……!?」
御影の焦燥が、怪物の咆哮となって響く。
「なゼ私の『進化』が通じなイ!? 私は新人類ダぞ! 全知全能ノ神になるハずの存在だゾ!!」
湊は冷ややかな目で、足掻く怪物を見下ろした。
「進化? 笑わせるな」
バサリ、と狩衣の袖が風に鳴る。
「理性を捨て、形を捨て、ただ欲望のままに膨れ上がる。……お前のはただの『退化』だ」
「ダマレェェェェェェッ!!」
図星を突かれたのか、御影が激昂した。
巨大な球体が、ドクンと収縮する。
表面の紫色の光が、どす黒い漆黒へと変わっていく。自爆覚悟のエネルギー凝縮。
理屈も相性も関係ない、純粋な破壊のエネルギーで、この一帯ごと湊を消し飛ばすつもりだ。
だが、それこそが湊の待ち望んだ隙だった。
「終わりだ」
湊は懐から、八枚の巨大な霊符を取り出した。
通常の札より一回り大きい、祭事用の大札だ。
ヒュッ!
湊が放つと、八枚の札は御影の巨体を包囲するように、八方位――乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤へと展開された。
空気が張り詰める。
世界の色が変わる。
リナも、群衆も、カメラの前の全世界の人々も、肌で感じていた。
これから、とてつもない何かが起きる、と。
「存在の定義から書き換えてやる」
湊が印を結ぶ。
その口から紡がれるのは、神代の言霊。
「――乾坤定位、離火猛りて罪を灼く。八卦の理、ここに極まれり!」
カッッ!!!
八枚の札が、天を衝く光の柱となった。
それらは互いにラインで結ばれ、御影を閉じ込める正八角形の結界を形成する。
『符術・八卦煉獄炉』
結界の内部が、白熱した。
それは物理的な炎ではない。
概念的な「炉」だ。
物質、魔力、呪力、霊力……ありとあらゆるエネルギーを「燃料」として燃やし尽くし、無へと還す、絶対的な殲滅空間。
「ギャァァァァァァァッ!!??」
炉の中で、御影の絶叫が上がった。
熱い。痛い。
いや、それ以前に「消えていく」。
自慢の再生能力が追いつかない。
細胞の一つ一つ、呪いの一滴に至るまで、炉の炎が根こそぎ燃やし尽くしていく。
「なゼだ……私は究極ノ力を得たハずだ!!!」
崩れゆく肉体の中で、御影の意識が叫ぶ。
理解できない。
納得できない。
「なぜそこマデの力が……力があるのに!! ナぜ貴様は王になロウとしない!!」
これほどの力があれば、世界を支配することなど造作もないはずだ。
それなのに、なぜこの男は、しがない古物商などという仮面を被って生きていたのか。
湊は燃え盛る炉を見下ろし、ポリポリと頬を掻いた。
そして、つまらなそうに答えた。
「そりゃ、平穏に生きたいからな」
「……ハ?」
「過ぎた力なんて持ってても、しがらみが増えるだけだろ。俺はコタツでみかん食ったり、昼まで寝てたり、そういう平穏な時間をのんびり過ごしたいんだよ」
あまりにも人間臭く、あまりにも俗っぽい答え。
新世界の神を自称した男に対し、最強の陰陽師が返したのは「コタツとみかん」だった。
「平穏な……時間……? ソン……な……ことを……求メる……程度の……ヤツニ……」
御影の思考が停止する。
私は……新世界の王に……ダンジョンの先を統べる力が……。
彼の言葉は、そこで途切れた。
シュゥゥゥゥ……。
断末魔を上げる暇もなかった。
八卦煉獄炉の光の中で、御影の巨体は素粒子レベルまで分解されていく。
禍々しかった紫色の球体は、浄化され、綺麗な白い灰となってサラサラと崩れ落ちた。
灰は風に乗り、キラキラと輝きながら成田の空へと溶けていく。
雲が晴れる。
暴風が止む。
突き抜けるような青空が、そこには戻っていた。
圧倒的な静寂。
誰一人として声を発することができない。
湊はふわりと地上に降り立った。
足元の白い灰を踏みしめ、彼は大きく伸びをした。
「はぁ……終わった終わった。……帰って寝るか」
その背中は、世界を救った英雄というよりは、残業を終えたサラリーマンのようだった。
だが、その姿を目に焼き付けた群衆、リナ、そしてカメラの向こうの全世界の人々は見てしまった。
この男こそが、現代に降り立った最強の陰陽師であることを。




