第33話
粉塵が舞い上がる、成田ダンジョン第30層。
天井に穿たれた巨大な風穴からは、ダンジョンが生み出す明かりとは違う、赤い残火の光が差し込んでいた。
瓦礫の山の上に、その男は立っていた。
久遠湊。
白き狩衣の裾を揺らがせ、狐の面を被った陰陽師。
彼は右手の呪符を構え、油断なく眼下の男を見据えていた。
「ようこそ、久遠湊」
対する御影恭一郎は、湊の視線を受けてもなお、楽しげに両手を広げた。
ドーム状の広間に、その朗々とした声が響き渡る。
「待ちわびたぞ。君という存在こそが、この偉大なる実験の最後のパーツだ!」
御影は戦おうとはしなかった。
紫色の光を放つ『賢者の石』の傍らで、ただ自身の目的が成就しようとしている快感に酔いしれている。
その姿を見た湊は、ふぅ、と小さく息を吐いた。
構えていた呪符を、スッと下ろす。
戦意を喪失したわけではない。
目の前の男が、今すぐ斬り伏せるべき「敵」というよりも、ただの妄想に憑かれた「障害物」に過ぎないと判断したからだ。
今の最優先事項は、あそこで震えている姪の確保。
湊は瓦礫の山から足を運び出した。
ゆっくりと、まるで近所の散歩でもするかのような足取りで、祭壇へと下りていく。
自説を得々と語ろうとした御影が、眉をひそめた。
湊の視線は、御影を一瞥すらしなかったからだ。
彼の瞳はただ一点。
祭壇の上で黒い泥に縛り付けられている、姪の姿だけに注がれていた。
無視。
それは、御影の肥大した自尊心を何よりも逆撫でする行為だった。
「……無視か。まあいい」
御影が不愉快そうに鼻を鳴らし、指を弾いた。
「まずはその手足をへし折って、こっちを向いてもらおうか!」
ズズズッ……!
湊の足元の床から、無数の黒い影が噴出した。
それはリナを拘束しているものと同じ、高濃度の呪いそのものだ。
タールのように粘着質で、刃物のように鋭利な「泥」の触手が、全方位から湊を串刺しにせんと殺到する。
回避不能の包囲攻撃。
物理的な質量攻撃でありながら、触れれば魂を腐らせる呪詛の嵐。
しかし、湊は歩みを止めなかった。
印を結ぶこともしない。
防御結界を展開する素振りさえない。
ただ、歩きながら。
右手をだらりと横に上げ、中指と親指を重ねた。
パチン。
乾いた音が、一つ。
指を鳴らす音が、広大なドームに響いた。
ただ、それだけだった。
だが、その音が発生した瞬間。
――ドォォォォンッ!!
透明な衝撃波が、湊を中心に全方位へと奔った。
それは風圧ではない。
湊の体から瞬間的に放出された、純粋かつ圧倒的な質量の「霊力」だ。
襲いかかろうとしていた黒い触手たちが、湊の体に触れる数メートル手前で、見えない壁に衝突したかのように弾け飛んだ。
霊力の密度が高すぎて、呪いの構成そのものが維持できず、霧散させられたのだ。
ジュッ……!
黒い泥は蒸発し、ただの煤となって空中に消えていく。
湊は煤汚れ一つ付かない白い狩衣のまま、何事もなかったかのように歩き続けた。
「な……?」
御影の表情が凍りついた。
眼鏡の奥の白い瞳が、理解不能な現象を前に激しく泳ぐ。
「馬鹿な……詠唱も、術もなしで……ただの純粋な霊力放出だけで、私の呪いを消滅させたというのか!?」
魔術や陰陽術の理屈ではない。
ただの出力差。
蟻の群れが巨象に踏み潰されるような、圧倒的な「格」の違い。
湊は御影の驚愕など意に介さず、祭壇の前まで歩を進めた。
そして、リナを縛り付けていた泥の触手に手をかざす。
泥は恐れをなしたように、自ら形を崩して逃げ去った。
「リナ」
湊が短く名を呼ぶ。
その声を聞いた瞬間。
今まで恐怖と怒りで必死に気丈さを保っていたリナの瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「お、おじ……さぁぁぁん……ッ!」
リナは祭壇の上で身を起こし、湊の胸に飛び込もうとして、力が抜けてその場に崩れ落ちそうになった。
湊はそれを片手で支える。
「怖かったよぉぉ! 気持ち悪かったよぉぉ! うあぁぁぁぁん!」
それはもう、探索者・久遠リナの顔ではなかった。
ただの、心細さに耐えかねていた一人の少女の姿。
顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにし、子供のように泣きじゃくる姪を見て、湊は狐面の下で苦笑した。
「……ひどい顔だな。お前、配信されてたらファンが減るぞ」
「うるさいぃぃ! ばかぁ!」
リナは湊の狩衣をギュッと掴み、さらに声を上げて泣いた。
その温もりに触れて、ようやく彼女の中の恐怖が溶けていく。
大丈夫だ。
この人が来たからには、もう何も怖くない。
「まあ、無事でよかった」
湊はポンポンと、乱雑だが優しくリナの頭を撫でた。
その穏やかな光景は、しかし、この場の支配者を自称する男にとっては、最大の侮辱だった。
「貴様……ッ!」
御影の顔が怒りで赤黒く染まる。
額に青筋を浮かべ、彼は震える声で叫んだ。
「私の神聖な実験場に……その薄汚い土足で踏み入り、あまつさえ私の前で茶番を演じるとは!」
自身の崇高な計画。
新世界の創造。
それらを完全に無視され、蚊帳の外に置かれた屈辱。
湊は、ようやく御影の方へ首を巡らせた。
狐面の空洞のような目が、冷ややかに御影を射抜く。
「実験場?」
湊は周囲を見回した。
崩れた天井、悪趣味な紫色の光、そして腐ったような呪いの臭気。
「ただのゴミ捨て場だろ、ここは」
吐き捨てるような一言。
それが決定打だった。
「……いいだろう」
御影の口元が歪み、裂けたように吊り上がった。
彼の理性のタガが外れる音がした。
「ならば貴様も、ここで私の礎となれ」
御影は背後の『賢者の石』――人工コアに向けて両手を掲げた。
「手遅れだ、久遠湊! 彼女はすでにコアと接続されている! 貴様が来たことで、最後の鍵も揃ったのだからな!」
ドクンッ!!
御影の咆哮に呼応するように、紫色の球体が爆発的に膨張した。
今までとは比較にならないほどのエネルギーの奔流。
「さあ、融合しろ! 久遠リナ! 貴様のその身を以て、新たな神の苗床となるのだ!」
コアの表面が裂け、そこから極太の光の帯が触手のように伸びた。
それは物理的な速度を超え、瞬時にリナへと殺到する。
「ひっ……!」
リナの体が強張る。
光の帯は生き物のように軌道を変え、湊を避けてリナのみを狙う。
因果律によって「リナと融合すること」が確定しているかのような、不可避の呪い。
「いやぁぁぁっ!!」
リナが悲鳴を上げ、反射的に目を閉じた。
紫色の光が、彼女の体を飲み込もうとした、その瞬間。
カッッ!!!
強烈な閃光が、リナから迸った。
それは紫色の呪いの光とは対極にある、純白の浄化の光。
光源は――リナが額に乗せていた『隠形の狐面』だ。
「えっ……?」
リナが目を開ける。
お面がひとりでに輝き出し、空中に幾何学的な紋様――五芒星を描き出していた。
湊は、やれやれと肩をすくめた。
「……だから、やめとけって言ったのに」
それは、湊が最初から仕込んでいた「保険」だった。
あのお面は、単に気配を消すだけの道具ではない。
持ち主に対して致命的な害意、あるいは呪術的な干渉が行われた際、自動的に発動するカウンターの術式が組み込まれていたのだ。
その名は、『呪詛返し』。
平安の昔より、人を呪わば穴二つと言う。
放たれた呪いは、行き場を失えば、倍の威力となって術者の元へ返る。
それを強制的に執行する、最強の防御機構。
バギィィィンッ!!
鏡が割れるような音が響いた。
賢者の石から伸びていた紫の光が、五芒星の結界に衝突した瞬間、そのベクトルを完全に反転させられたのだ。
「なっ……!?」
御影が目を見開く。
「呪いが……逆流して……!?」
制御不能になった光の奔流は、リナを避けるように湾曲し、そのまま発生源であるコアと、御影が立つ側にある制御装置へと直撃した。
ズガァァァァァァァンッ!!!
凄まじい爆発。
自分自身が生み出した最高密度の呪いを、至近距離で浴びせられたのだ。
装置は粉々に砕け散り、黒い泥も衝撃で消し飛んだ。
「きゃぁぁっ!?」
爆風が広間を吹き荒れる。
支えを失ったリナの体が、木の葉のように空中に投げ出された。
数メートル下の硬い床へ向かって落下する。
受け身も取れない体勢。
「いっ……!」
激突の痛みを覚悟して、リナが身を固くした瞬間。
ふわり。
唐突に、重力が消えた。
誰かの腕が、優しくリナの体を受け止めていた。
ゆっくりと目を開けると、そこには涼しい顔をした湊がいた。
いわゆる「お姫様抱っこ」の体勢で、リナを軽々と抱きかかえ、安全な瓦礫の上にスタッと着地する。
「……へ?」
リナがぽかんと口を開ける。
「保険はかけとくもんだな」
湊はリナを下ろすと、被っていた自身の狐面の位置を直し、前方の爆心地を見据えた。
もうもうと立ち込める紫色の煙。
その中から、何かを引きずるような音が聞こえてくる。
「ギャ……ア……、アアア……ッ!」
人の声帯からは出ないはずの、濁った絶叫。
煙を切り裂いて現れたのは、もはや人間の形をしていなかった。
高級なスーツは焼け焦げ、皮膚はどす黒くただれ、体中の至る所から黒い触手のような血管が飛び出している。
呪いの逆流によって、自身の肉体が飛散した「賢者の石」と不完全な形で融合してしまった成れの果て。
御影恭一郎だったモノが、そこにいた。
「おのれ……おのれぇぇぇ!! 久遠、リナァァ! 久遠、湊ォォォッ!!」
憎悪だけが彼を動かしていた。
背中から骨のような突起が生え、右腕は肥大化して赤鬼以上の金棒のような形状に変化している。
その瞳から知性の光は消え失せ、あるのは殺戮衝動のみ。
リナは恐怖に息を呑み、湊の背中に隠れた。
「化け物……」
「ああ、そうだな」
湊は一歩、前へ出た。
その背中から放たれる気配が、変わった。
先ほどまでの「頼れる叔父」の空気ではない。
あらゆる怪異を祓い、滅ぼす、冷徹な「処刑人」の気配。
湊は懐から一枚の呪符を取り出し、指に挟んだ。
青白い霊力が、刀身のように呪符から立ち上る。
「さて」
湊の声は低く、地獄の底まで届くように重かった。
「可愛い姪っ子を泣かせた罪、どうやって償ってもらおうか」
御影が吠える。
湊が構える。
崩壊寸前の最深部で、最後の決着が始まろうとしていた。




