第32話
ドクン……ドクン……。
耳元で、巨大な心臓が脈打っているような不快な音が響いていた。
重い瞼を持ち上げると、視界に飛び込んできたのは、毒々しいまでの紫色の光だった。
「っ……、あ……?」
リナは身じろぎしようとして、体が動かないことに気づいた。
冷たく、ヌルヌルとした感触。
祭壇のような石の台座に寝かされた彼女の手足は、そこから湧き出るタールのような黒い泥――高濃度の呪いによって、強固に拘束されていた。
目の前には、あの「賢者の石」がある。
人工ダンジョンコア。
直径五十センチほどの肉塊めいた球体は、先ほどよりも激しく脈打ち、リナの目覚めを歓待するように明滅を繰り返している。
(気持ち悪い……力が、入らない……)
魔力も霊力も枯渇したままだ。
指先一つ動かすことさえ億劫な倦怠感。
自分の生命力が、じわじわとあの球体に吸われているような感覚があった。
「やあ、お目覚めかね」
頭上から、陶酔を含んだ声が降ってきた。
リナが視線を巡らせる。
祭壇の傍らに、御影恭一郎が立っていた。
彼はリナを見下ろしている。
その瞳には、実験動物を見るような冷徹さと、偉業を前にした芸術家のような熱が入り混じっていた。
「離して……! なんで、こんなことするの……!」
リナは掠れた声で叫んだ。
恐怖を怒りで塗りつぶし、必死に睨みつける。
「なんで、と問われれば答えは一つだ」
御影は両手を広げ、朗々と謳うように言った。
「新世界のためさ」
「……新世界?」
「そう。古き理を捨て、人類が新たなステージへと進化するための世界だ」
御影の言葉は滑らかだった。あまりにも滑らかすぎて、どこか現実味がない。
「新世界って何よ! 具体的にどういうこと!? わけがわからないわ!」
リナが食って掛かる。
すると、御影はきょとんとした顔をした。
まるで「なぜ空が青いのか」と聞かれた時のような、自明の理を問われた困惑。
「わからない? なぜだ? 新世界は、新世界だよ」
御影は優雅に微笑んだ。
「すべてはダンジョンだ。ダンジョンを制し、ダンジョンをコントロールする者が王となる。王となり、私が新世界を導く。私が定義するのだから、それが世界だ。……至極、論理的だろう?」
その笑顔に、リナの背筋が凍った。
話が通じない。
言葉は通じているのに、前提となる「常識」や「倫理」が根底から書き換わっている。
御影はリナの拘束具となっている黒い泥を、愛おしそうに撫でた。
「最期だ、教えてあげよう。君たちが『ダンジョン』と呼んでいる場所の、本当の正体を」
「……正体?」
「今から約七十年前、第二次世界大戦の最中だ。最初の『門』が確認されたのは。ダンジョンとは本来、この世界と並行して存在する『別世界』を繋ぐための『門』だったのだよ」
御影が語り始めたのは、歴史の教科書には載っていない、世界の裏側の真実だった。
門が開いた時、そこから現れたのは魔物だけではなかった。
人類とは異なる姿形をした、しかし高い知性を持つ「異種族」たちがいたのだという。
彼らは魔術という概念を持ち込み、一部の人類と接触した。
「彼らは警告した。『我々の世界の脅威が、じきにそちらへも侵攻を開始する』と。彼らは侵略者ではなかった。難民であり、警告者だったのだ」
御影の声が熱を帯びる。
「彼らは人類に魔術を教え、共に戦おうとした。だが……間に合わなかった。五年前に、向こう側の世界は完全に滅びた。門の向こうからの通信は途絶え、今はただ、溢れ出した魔物たちがこちらの世界を目指しダンジョンに現れている」
五年前。
それはリナの両親が行方不明になった時期とも重なる。
もしかして、そこにも何か関わりがあるのだろうか?
「わかっただろう? 魔術などという、彼らの世界で敗北した技術では、奴らの侵攻は止められないのだよ! 既存の魔術も、科学兵器も無意味だ!」
「残念なことに、便利な魔術はこの世界に存在したはずの神秘を隠してしまった」
御影は叫び、背後の「賢者の石」を指差した。
「だから私は求めた! 奴らに対抗しうる、理を超越した絶対的な力を! それがこの『呪い』だ! 毒を以て毒を制す。ダンジョンを作ることさえもかなうこの力を、私がそのコントロールを得ることで、世界を次なるステージへ登らせる!」
恍惚とした表情で語る御影。
彼は本気で信じているのだ。
自分こそが救世主であり、この狂気じみた計画こそが唯一の希望なのだと。
リナは首を振った。
あまりにも身勝手な論理。
「違う……」
「何が違う?」
「それがどうして新世界に繋がるのよ!!」
リナは喉が裂けんばかりに叫んだ。
「侵略を止めるために、私を犠牲にするの!? 人を部品にして、呪いで満たして……そんなの、ただの理不尽じゃない! 」
リナの言葉は正論だった。
手段と目的が入れ替わっているような違和感。
正しい意見のようで何かが根本から可笑しいのだ。
「あなたは世界を救いたいんじゃない! ただ自分が『王』になりたいだけよ! そんなの、ただの子供のわがままじゃないッ!!」
リナの指摘が、ドーム状の空間に響き渡る。
痛いところを突かれたはずだ。
怒るか、動揺するか。
だが。
「ククッ……」
御影の喉から漏れたのは、堪えきれない笑い声だった。
「ははははっ! 子供のわがまま! ああ、そうかもしれないねぇ!」
御影は眼鏡を外し、涙を拭う仕草をした。
その顔に、羞恥や反省の色は一切ない。
あるのは、理解力の低い幼児を見るような、底知れない侮蔑と優越感だけだ。
「だがね、リナ君。神の御業とは、いつだって人間には理不尽に見えるものだよ。ノアの方舟しかり、ソドムとゴモラしかり」
御影がゆっくりと顔を上げる。
「ヒッ……!?」
リナは息を呑んだ。
御影の目は、笑っていた。
だが、その白目はどす黒く染まり、瞳孔は白く反転している。
人ならざる異形の眼球。
それなのに、彼の口調は理性的で、態度は紳士的ですらあることが、逆におぞましい。
「選別だよ。私が選ぶ。私が残す。それ以外は不要な塵だ。……ああ、素晴らしい合理性じゃないか」
彼は自分が狂っているとは微塵も思っていない。
肉体が呪いに侵食され、異形化してもなお、それを「進化」だと信じて疑わないのだ。
話が通じないのではない。
御影が信じ込んでいる世界の理が、根本から違うのだ。
「さあ、光栄に思うといい。君は塵ではない。新世界の礎という、名誉ある部品になれるんだ」
ドロリ、と。
御影の全身から、どす黒い影が溢れ出した。
リナを拘束していた泥が活性化し、蛇のように這い上がり、首を、顔を覆い尽くそうと迫る。
「受け入れたまえ。ああ、これこそが愛だ」
「いや……っ! いやぁぁぁぁッ!!」
リナは悲鳴を上げた。
飲み込まれる。
この狂人の妄想の一部として、永遠に塗り潰される。
(助けて……!)
リナはギュッと目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、たった一人の家族の顔。
いつも気だるげで、でも誰よりも強くて優しい、大好きな叔父さん。
(助けて、叔父さんッ!!)
黒い泥がリナの顔面に触れようとした、その瞬間。
「――やめといたほうがいい」
頭上から。
氷柱のように冷たく、それでいて懐かしい声が降ってきた。
直後。
ズドォォォォォォォォォォォォンッ!!!
世界が揺れた。
天井の岩盤が一瞬にして赤熱し、溶解し、崩落した。
爆音と共に降り注ぐ瓦礫と熱波。
リナを覆おうとしていた黒い泥が、強烈な衝撃波によって霧散する。
「おや……?」
異形化した目を瞬かせ、御影が優雅にステップバックして瓦礫を避ける。
もうもうと立ち込める粉塵。
その中から、一人の男が静かに跳躍した。
タンッ。
床に足がついた瞬間、波紋のように広がったのは、圧倒的なまでに清浄な「気」だった。
充満していた腐臭も、呪いの重圧も、すべてを押し返し、浄化していく神聖な霊気。
白い狩衣。
顔を隠す狐の面。
手には、扇子のように広げられた数枚の呪符。
「…………」
男は瓦礫の中で立ち上がり、ゆっくりと周囲を見渡した。
そして、平然と佇む御影へ視線を向ける。
狐面の奥にある瞳が、憐れむように細められた。
「随分と深くまで、呪いにやられてるな……」
男の声には、怒りを超えた静かな諦観があった。
「理屈をこねくり回して、行き着いた先がそれか。……理性だけ残して壊れるとは、一番タチが悪い」
その背中を見て、リナの目から堰を切ったように涙が溢れ出した。
本当に、来てくれた。
どんなに深くても、どんなに絶望的な状況でも。
この人は必ず、壁を壊して迎えに来てくれる。
「叔父さんッ……!!」
リナの震える声に応えるように、湊は肩越しに振り返った。
狐面をずらし、いつもの安心させるような、少し困ったような笑みを浮かべる。
「よう、リナ。少し遅くなった」
湊は再び御影の方へ向き直り、右手の呪符を構えた。
その全身から、ダンジョンそのものを震わせるほどの霊力が立ち上る。
それはかつて、平安の闇を切り裂き、百鬼夜行を滅ぼした「最強」の輝き。
「待たせたな。……ここからは、大人の時間だ」
反撃の狼煙が上がった。
成田の最深部で、歪んだ理性の魔人と、過去の伝説が激突する。




