第30話
呼吸をするたびに、肺が熱した鉛で満たされていくようだった。
成田ダンジョン最深部・30層。
地図に存在しないこの空間は、通常のダンジョンとは決定的に異なっていた。
充満しているのは魔素ではない。
もっとドロドロとした、怨念にも似た高濃度の「呪い」だ。
「はぁ、はぁ、はぁ……ッ!」
リナは荒い息を吐きながら、床を蹴った。
すでに魔力は空だ。
杖を握る握力さえ残っていない。
頼みの綱である白雪も、簪の中で沈黙している。
だが、止まるわけにはいかなかった。
目の前に立つ男――御影恭一郎から放たれる冷たい悪意が、リナの生存本能を極限まで刺激していたからだ。
戦わなければ、喰われる。
生物としての直感がそう告げていた。
「せえええぇぇぇいッ!!」
リナは裂帛の気合いと共に、右の貫手を突き出した。
腰の回転、踏み込み、体重移動。
疲労困憊の体であっても、そのフォームは完璧だった。
赤鬼の強靭な筋肉さえ通した打撃が、御影の顔面へと迫る。
しかし。
「――遅いな」
パシッ。
乾いた音が、静寂の空間に響いた。
御影は一歩も動いていなかった。
ポケットに片手を突っ込んだまま、空いているもう片方の手で、リナの手を無造作に掴み取っていたのだ。
まるで、飛んできた羽虫を捕まえるような気軽さで。
「な……っ!?」
リナは目を見開く。
引き抜こうとするが、万力で固定されたかのように微動だにしない。
「赤鬼を葬った速度はどうした? あの時の覇気は、もう品切れかな」
御影は眼鏡の奥で、冷ややかな瞳を細めた。
嘲笑。
そこにあるのは対等な敵への警戒ではなく、実験動物を見る観察者の目だ。
「舐めないでッ!!」
リナは捕まれた右手を軸に、体を捻って回し蹴りを放つ。
狙いは側頭部。
だが、御影は首をわずかに傾けただけで、その軌道を紙一重で躱す。
続く左の裏拳、肘打ち、膝蹴り。
リナは残る体力のすべてを振り絞り、変則的な連撃を叩き込む。
そのどれもが、一般の探索者なら反応すらできずに昏倒する鋭さを持っていた。
けれど、当たらない。
御影は最小限の動きですべてを回避、あるいは指先一つで弾いていく。
ヌルリ。
当たる、と思った瞬間、拳が奇妙な感触で滑った。
不可視の「膜」。
御影の皮膚の数ミリ上に、高密度の魔力がゼリー状に圧縮された防御膜が展開されているのだ。
「硬い……それに、掴めない……!」
リナの額から冷や汗が流れ落ちる。
物理攻撃が通じない。魔力もない。
文字通りの手詰まり。
御影は退屈そうに嘆息すると、軽く掌を振るった。
「芸がない」
ドンッ!!
ただの掌底。
だが、そこから発生した衝撃波は、トラックにはねられたような重さでリナを吹き飛ばした。
「がぁっ……!」
リナは床を転がり、数メートル後方でようやく受け身をとる。
肺の中の空気が強制的に排出され、視界が明滅する。
強い。
次元が違う。
御影は追撃すらしない。
彼はゆっくりと歩き出し、背後に鎮座する巨大な「賢者の石」――人工ダンジョンコアの前で足を止めた。
脈動する紫色の光が、彼の端正な顔を不気味に照らし出す。
「現代魔術は停滞していると思わないか? 久遠リナ」
唐突な問いかけだった。
御影はリナの方を見ようともせず、愛おしそうにコアを見上げながら語り始めた。
「魔術と科学の融合。現代の魔術師たちが目指すのは、効率化と数値化だ。だが、それは所詮、既存の物理法則の模倣に過ぎない。火を起こし、風を操り、電気を生む……そんなものは文明の利器で代用できる」
御影は両手を広げ、天井の闇を仰ぐ。
「私は『次』へ行きたいのだよ。神の領域……この世界の理そのものを書き換え、定義し直す力へ」
「なにを……言って……」
リナはよろめきながら立ち上がる。
狂っている。
この男の言葉には、倫理観というブレーキが完全に欠落している。
「そのためには、莫大なエネルギーと、それを固定化する術式が必要だ。この『賢者の石』は、そのための扉だ」
御影が指を鳴らすと、コアの鼓動が激しくなり、空間の歪みが強まった。
「だが、これは強大すぎる。ただの人の身で扱えば、魂ごと焼き尽くされて消滅する。だから必要なのだよ」
御影がくるりと振り返り、リナを指差した。
「無限の負荷に耐えうる、強靭な『器』である君と。……あやふやな理を定義し、世界に固定化できる可能性を持つ『鍵』である、久遠湊が」
リナの背筋に悪寒が走る。
自分だけではない。
叔父さんまで利用するために、この舞台を整えたというのか。
「そんなことのために……!」
怒りが恐怖を上回る。
リナは叫んだ。
「そんな身勝手な理由で、私たちを巻き込まないで! 私だって、普通の女の子として生きたいの! あなたの妄想になんて付き合ってられない!」
リナの悲痛な叫びが、ドーム状の空間に反響する。
だが、御影の表情に浮かんだのは、共感でも怒りでもなく――憐憫だった。
「……ふっ」
鼻で笑うような、乾いた音。
「君は何も知らないのだな。哀れなほどに純粋だ」
「え……?」
「あるいは、あの過保護な陰陽師に隠されているのか? だとしたら残酷な話だ。自分のルーツも知らされずに、今日まで飼われていたとは」
御影はゆっくりとリナに歩み寄る。
その足取りには、猛獣が獲物を追い詰めるような優雅さがあった。
「私は君のことを徹底的に調べたよ。君の血筋、協会に記録された魔術特性、身体データ……そして」
御影はリナの目の前、触れられるほどの距離で立ち止まり、囁くように言った。
「五年前に新宿ダンジョンで行方不明になった、君のご両親についてもね」
ピクリ、と。
リナの全身が凍りついたように硬直した。
両親のこと。
それはリナにとって、触れられたくない傷跡であり、同時に最大の謎でもあった。
物心ついた時にはもういなかった。
湊に尋ねても、『ダンジョンの事故だった、そのうち戻って来る』と短く答えるだけで、詳しいことは決して語ろうとしなかった。
「……父さんと母さんのこと、知ってるの?」
リナの声が震える。
御影の口元が、三日月のように歪んだ。
魔人の言葉が、少女の心の隙間を舐め上げる。
「知っているとも。彼らは単にダンジョンで遭難したわけではない。事故でもない」
「……」
「君のご両親は、ある『目的』のために、自らダンジョンへ身を投じたのだ。……そして、なぜ帰ってこなかったのか。君はその真実の理由を、知りたいとは思わないか?」
御影の言葉は、甘美な毒のようにリナの思考を侵食した。
知りたい。
ずっと知りたかった。
なぜ自分は一人なのか。
思考がブレる。
戦意という張り詰めた糸が、緩む。
「なにを……知ってるの? 」
リナが問うた、その瞬間だった。
「――なんてね」
御影の冷徹な声が、現実を引き戻した。
ハッとした時には、もう遅い。
動揺によって生まれた一瞬の「心の空白」。
百戦錬磨の魔人が、それを見逃すはずがなかった。
ヒュンッ。
風を切る音すら置き去りにする瞬動。
御影の姿がブレたかと思うと、彼はすでにリナの懐に入り込んでいた。
「真実を知りたければ、礎の一部になるといい」
至近距離から放たれたのは、鋭い掌底打ち。
狙いは鳩尾。
神経の束が集まる急所へ、正確無比な一撃が突き刺さる。
ドゴッ……!
鈍く、重い衝撃が内臓を揺らした。
「が、はっ……」
声にならない悲鳴。
痛みを感じるよりも早く、リナの意識が急速に白濁していく。
手足の感覚が消え、立っていることすらできなくなる。
ガクン、とリナの膝が折れた。
崩れ落ちる小柄な体を、御影は片手で軽々と受け止める。
まるで、壊れた人形を扱うかのように。
「……う、ぅ……」
薄れゆく視界の中で、リナは御影の無機質な瞳を見上げた。
抵抗しようにも、指一本動かない。
暗転していく世界で、最後に聞こえたのは、悪魔の宣告だった。
「良い『素体』だ。さあ、実験の時間だよ、久遠リナ」
御影はリナを小脇に抱えると、踵を返した。
向かう先は、禍々しく脈動する紫色の賢者の石――人工ダンジョンコア。
「湊が到着する前に、君の『同化』を済ませておこう」
コツ、コツ、コツ……。
革靴の音が、静寂の広間に響く。
それはリナにとって、終わりへのカウントダウンのように聞こえた。
意識の糸が、プツリと途切れる。
深い闇の中へ、リナは連れ去られていった。




