第29話
世界が反転するような浮遊感と、内臓を雑巾絞りにされるような不快な圧迫感。
強制転移の感覚は、三半規管を直接シェイクされたようだった。
「う、ぅぅ……ッ」
リナは硬い床に膝をつき、胃の内容物を戻しそうになるのを必死に堪えた。
視界が明滅し、平衡感覚が戻らない。
だが、肌を刺す空気の質の変化だけは、本能が即座に理解していた。
先ほどまでの、泥と焦げたの匂いが充満する広場ではない。
もっと無機質で、それでいて生理的な嫌悪感を催す、甘ったるい腐臭。
そして何より、重い。
大気そのものが鉛のように重く、呼吸をするたびに肺が焼けるような錯覚を覚える。
――濃度が、違う。
呪いの濃度が、致死的なレベルで充満しているのだ。
「……ここ、は……?」
リナは霞む目をこすり、顔を上げた。
そして、その光景に息を呑んだ。
そこは、巨大なドーム状の空間だった。
天然の洞窟ではない。
壁面は鏡のように磨き上げられた黒曜石のような素材で覆われ、天井には幾何学的な紋様が描かれた金属の梁が張り巡らされている。
古代の遺跡と、現代の最先端研究施設が融合したような、異様な光景。
だが、何よりもリナの目を釘付けにしたのは、部屋の中央に鎮座するものだった。
祭壇のような台座の上。
そこに、直径五十センチほどの「それ」はあった。
ドクン……ドクン……。
心臓の鼓動のような音が、空間全体に響いている。
紫色の球体。
表面には血管のように脈打つ黒い筋が走り、内側からは毒々しい光が漏れ出している。
美しい宝石などではない。
それはまるで、世界に寄生した腫瘍のようだった。
直視した瞬間、リナの脳裏に「恐怖」「不安」「絶望」といった負の感情がノイズのように流れ込んでくる。
(なに……これ……気持ち悪い……ッ!)
本能が警鐘を鳴らす。
あれに近づいてはいけない。
あれは、人間が触れていい領域の代物ではない。
「素晴らしいだろう?」
不意に、陶酔を含んだ男の声が響いた。
「賢者の石、人工的に作り出したダンジョンコアだ」
リナは弾かれたように視線を巡らせる。
脈動する紫色の球体の傍らに、一人の男が立っていた。
仕立ての良いダークグレーのスーツ。
整えられた黒髪に、銀縁の眼鏡。
ダンジョンの中にあって、彼だけがまるでビジネス街からそのまま歩いてきたかのように清潔で、それゆえに圧倒的な違和感を放っている。
男は愛おしそうにコアの表面を指でなぞりながら、ゆっくりとリナの方へ振り返った。
眼鏡の奥にある瞳は、爬虫類のように冷たく、感情の色が欠落している。
「ようこそ、久遠リナ。君の到着を待ちわびていたよ」
「あな、たは……?」
リナは立ち上がろうとして、足に力が入らずによろめいた。
赤鬼との戦いで消耗しきった体は、まだ悲鳴を上げている。
武器である杖は手元にあるが、魔力は空っぽだ。
頼みの綱である白雪も、簪の中で深い眠りについている。
完全に、無防備。
男――御影恭一郎は、そんなリナの様子を観察するように目を細めた。
「ふむ。特別に仕上げた赤鬼はどうだったかね……まあ、その満身創痍の姿を見るに十分に楽しんでくれたようだな。素材が傷つくかと思ったが無事そうで良かったよ」
「素材……?」
聞き捨てならない単語に、リナの眉が跳ねる。
その時。
ブーン……。
微かな羽音が、リナの耳元でした。
「あ……」
リナの視界の端に、小さな機体が飛び込んでくる。
撮影ドローンだ。
転移の魔法陣に巻き込まれた際、リナのすぐ近くを飛んでいたこの一機だけが、奇跡的に一緒に転送されていたのだ。
ドローンは、忠実に任務を遂行していた。
カメラのレンズが御影を捉え、赤いインジケーターランプが「LIVE」の点滅を繰り返している。
御影の視線が、ドローンに向けられた。
「……ほう?」
男の視線が、赤い点滅に向けられる。
彼は不快感を示すどころか、口の端を三日月のように吊り上げた。
「ライブ配信中、か。……ククッ、これは好都合だ」
御影はドローンのレンズを覗き込む。
まるで、その向こうにいる『誰か』と視線を合わせるように。
「本来ならこの場所を特定されるのはリスクだが……『彼』に話が伝わるなら話は別だ。わざわざ招待状を送って、おびき寄せる手間が省けたよ」
御影は愉悦に満ちた声で告げる。
「見ているね? 久遠湊」
言い捨てると同時に、御影は右手をかざした。
何の詠唱もない。
ただ、指先を向けただけ。
それだけで、リナの肌が粟立つほどの殺気が膨れ上がった。
「待っ――!」
リナが叫ぶよりも速かった。
シュッ。
御影の指先から、黒い閃光が放たれた。
それは魔法というよりも、空間そのものを切り裂く亀裂のようだった。
回避行動をとる間もなく、ドローンが黒い光に貫かれる。
バヂヂヂッ!!
ショートする音と共に、機体が空中で四散した。
燃えカスとなった部品が、カランカランと虚しい音を立てて床に転がる。
外部との唯一の繋がりが、断たれた。
ドローンの残骸を見下ろしながら、御影は懐からハンカチを取り出し、汚れてもいない指先を拭った。
「さて、これで邪魔者はいなくなった。静かに話せるな、久遠リナ」
静寂が戻った空間で、御影の声が冷たく響く。
リナは杖を構え直すが、膝の震えが止まらない。
魔力と霊力の枯渇による脱力感だけではない。
目の前の男から発せられるプレッシャーが、あの赤鬼とは異質の、もっと根源的な恐怖を呼び起こしているのだ。
赤鬼が「災害」だとしたら、この男は「悪意」そのものだ。
「……一体何を求めているの」
リナは精一杯の虚勢を張った。
「あなたは誰なの。ここは何処なの。それに……あの気持ち悪い石はなに?」
「質問が多いな。まあいい、君にも知っておく権利はある」
御影は薄く笑い、両手を広げて支配者のように空間を示した。
「私は御影恭一郎。この偉大なる研究の主宰者だ。そしてここは成田ダンジョン、その隠された最深部――『第30層』だよ」
「30層……?」
リナは呆然と呟く。
成田ダンジョンは全29層。
それは探索者にとっての常識だ。
未発見エリアがあったというのか?
いや、それにしては設備が整いすぎている。
まるで最初から誰かが、ここを隠れ蓑にするために用意したかのように。
「そう。ここは地図にない場所。法も、倫理も、協会の目も届かない聖域だ」
御影は背後の紫色の球体を振り返る。
ドクン、と球体が強く脈打ち、リナの心臓が共鳴するように痛んだ。
「そしてこれこそが、私の悲願。『賢者の石』……人工的に培養されたダンジョンコアだ」
「人工……ダンジョンコア……」
狂っている。
ダンジョンコアは自然発生する未知のエネルギー結晶体だ。
それを人が造り出すなど、神の領域を侵す暴挙に他ならない。
しかも、あの禍々しい色。
あれは正常なコアではない。
もっと呪われた、歪な何かだ。
「だが、まだ不完全なんだ」
御影が残念そうに首を振る。
「エネルギーの出力は申し分ないが、制御が効かない。器としての強度が足りず、すぐに崩壊してしまう。安定させるには、強力な『素体』が必要なのだよ」
御影の視線が、再びリナに向けられた。
今度は観察するような目ではない。
値踏みをするような、もっと直接的な欲望を含んだ視線。
「高い呪いへの適性。突然変異の赤鬼を屠るほどの戦闘能力。そして何より、現代に生きるあの『魔女』の娘……」
御影が一歩、リナに近づく。
リナは後ずさるが、背後は冷たい壁だった。
「素晴らしい適合率だ。君なら、この石の制御装置として申し分ない働きをしてくれるだろう」
「……っ!」
リナは戦慄した。
こいつは、私を殺そうとしているのではない。
部品にしようとしているのだ。
あの気持ち悪い肉塊の一部として。
「ふざけないで……! 誰がそんなもののために!」
「拒否権はないよ。君は選ばれたのだから」
御影が指を鳴らす。
瞬間、周囲の空間から黒い靄のようなものが湧き出し、実体を持ってリナを取り囲んだ。
それは不定形の影の兵士たちだった。
「さあ、実験を始めようか。君が『賢者の石』と一つになり、新たな神話を生み出す瞬間を……全世界は見逃してしまったが、私が特等席で見届けてあげよう」
御影が嗤う。
影たちが一斉にリナへと襲いかかる。
魔力は尽きかけ。
退路はなし。
救援も望めない。
閉ざされた最深部で、リナの孤独な戦いが幕を開けた。
***
同時刻。
ダンジョン外、冒険者協会モニタリングルーム。
「おい、今の見たか!?」
「映像が途切れた! 最後のあれ……!」
職員たちが騒然となり、モニターの前で立ち尽くしていた。
オブザーバーとして参加していた佐伯は、青ざめた顔でブラックアウトした画面を凝視していた。
最後に一瞬だけ映り込んだ、スーツ姿の男。
そして、その背後にあった禍々しい紫色の球体。
「間違いない……あれは御影恭一郎だ。なぜあいつが」
佐伯の声が震える。
だが、問題はそこではない。
あの背景だ。
「あの場所はどこだ? 成田にあんな階層など存在しないはずだ!」
オペレーターが必死にキーボードを叩く。
「信号、ロスト! 最後の座標は……第4層ですが、深度計の数値がおかしいです! もっと深い……地下深くを示しています!」
「12層より下だと……?」
一方で、動画配信サイトのコメント欄は、阿鼻叫喚の嵐となっていた。
『え、なに今の』
『ドローン壊された!?』
『最後に映った男、誰だよ』
『リナちゃんどうなったの!?』
『最後こっち見てたよね?』
『放送事故とかいうレベルじゃねーぞ』
視聴者数は数万人に達していた。
そのすべての人間が、英雄的な勝利の直後に訪れた、理不尽な拉致劇と宣戦布告を目撃してしまったのだ。
***
そして――都内、東京の下町。
とある古びた古物商『久遠堂』。
普段ならば、店主である湊が煎餅をかじりながら、ワイドショーをBGMに惰眠を貪っている時間だ。
だが今、この店には針が落ちる音さえ聞こえそうなほどの、異常な静寂が満ちていた。
ちゃぶ台の上、横倒しにされた真新しいスマートフォン。
その小さな画面には、先ほどまで成田ダンジョンの映像が映し出されていた。
破壊されるドローン。
画面越しに挑発してきた、御影恭一郎の不遜な笑み。
そして――強制転移の光に飲み込まれる直前、カメラの向こうに向かって、音のない口の動きで助けを求めた姪の姿。
プツン。
映像が途切れ、画面が暗転する。
コメント欄がパニックで流れ、接続エラーの文字が点滅する。
湊は、動かなかった。
瞬きひとつせず、ただ黒くなった画面を見つめていた。
その瞳は、深海のように暗く、光がない。
やがて、彼はゆっくりと、幽霊のように音もなく立ち上がった。
手に持っていた湯呑みを、コトリとちゃぶ台に置く。
ピキッ。
乾いた音が響いた。
湊の手が触れていたわけではない。
ただ傍らに置いてあっただけのスマートフォンと、湯呑みの表面に、蜘蛛の巣のような亀裂が走ったのだ。
次の瞬間、パリンッという音と共に、それらは粉々に砕け散った。
物理的な圧力ではない。
湊の体から無意識に漏れ出した、あまりにも高密度な霊圧が、物質の耐久限界を超えさせたのだ。
「……いい度胸だ」
呟かれた言葉は、低く、重かった。
いつもリナをからかう時の、気の抜けたあくび混じりの声ではない。
それは、聞く者の魂を凍らせる、絶対零度の殺意。
湊は足音を立てずに店の奥へと進む。
雑多なガラクタが積み上げられた倉庫。
埃っぽい空気が漂うその最深部に、彼は躊躇なく足を踏み入れた。
そこには、ひとつの桐箱が鎮座していた。
幾重にも巻かれた注連縄と、黄ばんだ護符によって厳重に封印された、「開かずの箱」。
「隠居生活したかったんだけどなぁ」
湊は冷ややかな目でそれを見下ろすと、護符に手をかけた。
雷鳴のような音が弾け、封印が引きちぎられる。
ギィィィ……。
重い蓋が開かれると同時に、倉庫内の空気が一変した。
溢れ出したのは、現代の陰陽師が見れば卒倒するほどの、純度と歴史を秘めた霊力。
収められていたのは、三つの遺産だ。
平安の都で百鬼夜行を単騎で滅ぼした際に纏っていた、白き狩衣。
霊樹の皮を漉いて作られた、一国を落とせる威力の特級呪符。
そして――白雪の意匠にも似た、禍々しくも神々しい霊気を放つ「狐の面」。
湊は狩衣を手に取り、慣れた手つきで袖を通した。
バサリ、と衣擦れの音が響く。
ただそれだけの動作で、猫背で気怠げな「古物商の店主」は消え失せた。
そこに立っていたのは、かつて都の守護者として畏怖され、現代においては都市伝説と化している「最強の陰陽師」だった。
カタカタカタカタ……ッ!
店内の棚に並べられた古道具たちが、一斉に震え始めた。
長い時を経て微弱な意識を持ち始めた「付喪神」の予備軍たちが、主の放つ圧倒的な覇気に恐怖し、怯えているのだ。
湊は狐の面を手に取ると、装着はせずに懐へとしまった。
そして、壁の向こう――遥か遠く、千葉の方角を睨みつける。
その視線は、空間を超えて敵の喉元を捉えているようだった。
「俺の穏やかな生活を奪い、あまつさえ……姪に手を出した落とし前は、高くつくぞ」
湊が、右手の指を立てる。
魔法陣の展開も、詠唱の予備動作もない。
現代の魔術体系とは異なる、理そのものを書き換える神域の術。
パチン。
指を鳴らす音が、誰もいない店内に響いた。
次の瞬間、湊の姿は掻き消えていた。
転移の光さえ残さない。
ただ、「そこにいた」という事実が唐突に消滅したかのような、完全なる消失。
東京から成田へ。
平安時代の伝説が、現代に顕現しようとしていた。




