第27話
湿った空気が、不快な粘り気を含んで肌にまとわりつく。
成田ダンジョン、地下四層。
リナたちが進んでいるのは、本来の推奨ルートである中央の大洞窟ではなく、そこから枝分かれした側道のひとつだった。
「おーい、こっちこっち! 地図には載ってへんけど、ここが一番の近道なんや!」
先頭を行く浅葉が、軽快なステップで手招きをする。
彼の背中には、一切の迷いが見られない。
まるで自宅の庭を歩くかのような気安さだ。
その後ろを、巨漢の坂下が無言で従っている。
「……ねえ、リナ。ちょっと変じゃない?」
みーちゃんがドローンの操作画面を手元で確認しながら、リナにだけ聞こえる声量で耳打ちした。
配信のマイクは、環境音を拾う設定に絞っているため、今の小声は視聴者には届いていないはずだ。
「変って?」
「さっきから、少しずつだけど正規ルートから外れていってる。この先、地図データだと『未探索エリア』に近い場所だよ。オーガの目撃情報も少ないし、昇格試験のルートとしてはリスクが高すぎる」
みーちゃんの指摘はもっともだった。
彼女はプロの配信者であり、事前のリサーチを欠かさない。
成田ダンジョンの階層マップは頭に入っているはずだ。
リナは、おでこの狐面をカチリと指で叩きながら、感覚を澄ませた。
(……うん、確かに)
モンスターの気配は薄い。
だが、それとは別の「何か」が漂っている。
例えるなら、蜘蛛の巣に絡め取られるような、ジトッとした不快感。
明確な殺気ではない。
もっと陰湿で、作為的な悪意の匂い。
「あの、浅葉さん」
リナが声をかけると、浅葉は「ん?」と愛想よく振り返った。
「この道、あまり人が通った形跡がないみたいですけど」
「そこがミソなんや! みんな正規ルートばっかり行くから、あっちはモンスターが枯渇気味やねん。こっちはな、知る人ぞ知る『穴場』なんよ。オーガの湧きもええし、ライバルもおらん。試験をサクッと終わらせるにはもってこいやで」
浅葉は立て板に水のごとく理由を並べ立てた。
その言葉には、妙な説得力があった。
探索者の中には、自分だけの狩場やルートを隠し持つ者が少なくない。
彼らがそうであっても不思議ではないのだ。
「それに、ワイらを信じてや。ここまで危なげなく連れてきたやろ?」
ニカっと笑うその表情に、裏表は見えない。
みーちゃんは僅かに眉をひそめたが、配信中ということもあり、これ以上強く疑うことは避けたようだ。
「……分かりました。案内、お願いします」
「おう! 任しとき!」
一行は再び歩き出した。
だが、リナの中の違和感は消えない。
(嘘は言っていない……ような気がする。でも、何かを隠してる)
お面の力で研ぎ澄まされた直感が、警鐘を鳴らし続けていた。
この先に待っているのは、「穴場」などではない。
もっと別の、何かだ。
しばらく進むと、狭かった通路が急に開けた。
「――着いたで」
浅葉が足を止めたのは、ドーム状になった広大な空間だった。
天井は高く、上部の鍾乳石から滴る水滴が、底なし沼のような地底湖を作っている。
地面はぬかるみ、所々に動物の骨や、朽ちた装備品が散乱していた。
異様な雰囲気だ。
生物の気配がしない。
虫一匹の羽音すら聞こえない静寂が、ここを支配していた。
「ここが……穴場?」
みーちゃんがドローンを周囲に飛ばし、索敵を行う。
「なんにもいないけど……」
「せやな。ここには『まだ』おらん」
浅葉は意味深に笑うと、くるりとリナたちに向き直った。
そして、パンと手を叩いた。
「よし、ほなワイらはここで解散や」
「えっ?」
唐突な宣言に、リナとみーちゃんは顔を見合わせた。
「解散って……パーティを組んでオーガを倒さないんですか?」
「ああ、すまんすまん。実はな、ここまでの道中がワイらの『試験の一つ』やったんよ」
浅葉は肩をすくめ、悪びれもせずに種明かしを始めた。
「協会からの特別指令でな。『今回の受験者の中で、若手の有望そうな子をここまで護衛すること』。それがワイと坂下に課せられたシークレット・ミッションやったんや」
「護衛……?」
「せや。嬢ちゃんら、ええ腕しとるけど、まだ学生やろ? せやから協会も心配して、ここまで案内役を付けたんやと思うわ」
「それに君らの戦い方をみとったけど、すごいわ。ワイらじゃ逆に足手まといになる」
本当っぽいけど何かがおかしい。
リナの直感が即座にそう告げた。
昇格試験にそんな甘い救済措置があるわけがない。
だが、話の筋としては妙にリアリティがある。
「特例」での受験であるリナたちに、協会が何らかの干渉をしてくることは予想の範疇だったからだ。
「ここからは本番や。ワイらも自分の試験を受けなあかんからな。こっから先は、どっちが先にオーガを狩るか競争やで」
浅葉はそう言って、坂下に目配せをした。
無言の大男は、ゆっくりと頷き、盾を下ろした。
「……分かりました。ここまでありがとうございました」
みーちゃんが頭を下げる。
彼女も、この男たちの言葉を信じたわけではないだろう。
だが、「これ以上一緒に行動するのは危険だ」と判断したのだ。
ここで離れられるなら、むしろ好都合。
「ほな、達者でな。無理したらあかんで」
浅葉はヒラヒラと手を振り、坂下と共に広場の出口――リナたちが来た道とは反対側の横穴へと向かって歩き出した。
リナはその背中を、狐面越しにじっと見つめていた。
彼らは、逃げるように去っていく。
何かから、距離を取るように。
(……ごめんな、嬢ちゃんたち)
背を向けた浅葉の顔から、笑みが消えていた。
胸の内で、罪悪感がチクリと刺す。
(ワイらも生活かかっとるんや。この場所まで連れてくりゃ、昇格とボーナスを約束するって言われたら、断れるわけないやろ)
彼が請け負ったのは、「久遠リナをこの座標へ誘導すること」。
それだけだ。
その後に何が起こるのか、依頼主は教えてくれなかった。
だが、長年の探索者としての勘が告げている。
これ以上、深入りするのはまずい、と。
(ま、腕利きみたいやし、なんとかなるやろ。……堪忍な)
自分にそう言い聞かせ、浅葉が横穴へ踏み込もうとした、その瞬間だった。
――ズズッ。
地面が鳴動した。
「……なんや?」
浅葉が足を止め、振り返ろうとした。
ドゴォッ!!
鈍く、重い衝撃音が響いた。
何かが、闇の中から叩きつけられたのだ。
それは浅葉の反応速度を遥かに上回る暴虐な一撃だった。
「ガッ――!?」
悲鳴を上げる間もなかった。
浅葉の身体が、まるでボールのように弾き飛ばされた。
革鎧がひしゃげ、肋骨が砕ける生々しい音が響く。
ドゴォォォォン!!
数メートル吹き飛び、広場の岩壁に激突する。
蜘蛛の巣状に亀裂が入った岩肌から、浅葉がボロ雑巾のように滑り落ちた。
口から大量の鮮血を吐き出し、痙攣している。
「浅葉ッ!?」
坂下が叫び、咄嗟に大盾を構えて相棒の方へ駆け寄ろうとする。
だが、彼もまた足を止めた。
リナとみーちゃんも、息を呑んでその方向を見つめていた。
浅葉が吹き飛ばされた方向。
広場の奥まった暗闇。
そこから、ズシン、ズシンと、地響きを立てて「それ」は現れた。
最初に闇から突き出されたのは、丸太のように太い腕だった。
赤黒い筋肉が異常なほど隆起し、血管がのたうち回っている。
その手には、大人の背丈ほどもある無骨な「金棒」が握られていた。
次に見えたのは、胴体。
今回の試験ターゲットである「オーガ」にも似ているが、決定的に違う。
オーガが知性のない野獣だとすれば、目の前のそれは、明確な悪意を持った「戦士」の姿をしていた。
腰には虎の皮を巻き、筋骨隆々の肉体からは湯気のような瘴気が立ち上っている。
そして、最後に現れた顔。
額から生えた二本のねじれた角。
裂けた口から覗く鋭利な牙。
そして、獲物を品定めするように爛々と輝く金色の瞳。
――『鬼』。
日本人が本能的に恐れる、伝承の中の暴力の化身。
「あ……」
みーちゃんの喉から、ひきつった音が漏れた。
ドローンを持つ手が激しく震え、映像が乱れる。
彼女の瞳孔が開き、顔色が死人のように白く染まっていく。
忘れるはずがない。
忘れられるはずがない。
あの新宿ダンジョンで。
多くの探索者を虐殺し、リナを瀕死に追い込み、ミコ自身の心を一度殺した元凶。
「なんで……ここに……」
みーちゃんの唇が震える。
「鬼が……ッ!」
その名は、Bランクの試験課題である「オーガ」とは別次元の存在。
この成田ダンジョンには存在しないはずの、イレギュラー中のイレギュラー。
鬼は、ゆっくりと首を巡らせた。
金色の目が、倒れ伏す浅葉を見下ろしている。
(……狙われたのは、浅葉さん?)
リナは、戦慄の中で冷静に分析していた。
なぜ、自分たちではなく、一番遠くにいた浅葉が狙われたのか。
リナの手が、無意識にお面に触れる。
『隠形の狐面』。
このお面は、敵意のあるものから使用者の気配を環境に溶け込ませ、認識を阻害する効果がある。
怪物が現れた瞬間、最も「目立つ」存在は誰だったか。
お面によって、気配を隠蔽していたリナではない。
恐怖で硬直していたみーちゃんでもない。
仕事を終え、気が緩み、無防備になっていた浅葉だ。
(私のせいで……?)
いや、違う。
リナは即座に思考を修正する。
この怪物は、ここに「配置」されていたのだ。
リナたちがこの場所に来るタイミングに合わせて。
浅葉たちは単なる運び屋であり、用が済めば口封じも含めて始末される運命だった。
これは事故ではない。
自然発生でもない。
明確な殺意を持った、人間による「罠」だ。
「坂下ぁッ! 逃げ……ゴフッ!」
浅葉が這いつくばりながら叫ぼうとし、血を吐く。
鬼が、ゆっくりと金棒を振り上げた。
その一撃で、虫けらのように潰すつもりだ。
「ウオオオオオオッ!!」
坂下が動いた。
彼は恐怖を怒号で塗りつぶし、大盾を構えて突進した。
相棒を救うために。
自分の命など顧みずに。
ガギィィィィィン!!
凄まじい金属音が広場に木霊する。
振り下ろされた金棒を、坂下のタワーシールドがかろうじて受け止めていた。
「ぐ、うぅぅぅぅ……ッ!!」
坂下の膝が折れる。
圧倒的な質量差。
パワーが違う。
大盾が悲鳴を上げ、鋼鉄の表面が飴細工のように大きく凹んでいく。
「みーちゃん!」
リナの声が、凍りついた時間を叩き割った。
「いくよ!」
リナは、お面を深く被り直した。
カチリ、と世界が切り替わる。
恐怖はない。
迷いもない。
あるのは、冷徹なまでの戦闘思考のみ。
「リナ……」
みーちゃんがハッと我に返る。
親友の背中が、語っていた。
――もう、あの時みたいに守られるだけじゃない。
――今度こそ、勝つんだ。
みーちゃんは震える手を強く握りしめた。
カメラが、その地獄絵図を捉える。
『な、なんだあれ!?』
『オーガじゃない、本物の鬼!?』
『Bランク試験の相手じゃないだろこれ!』
『浅葉がやられた!』
『逃げろ! 早く逃げろ!』
コメント欄がパニックで埋め尽くされる中、リナは疾風のように駆け出した。
狙いは、鬼の懐。
坂下が押し潰されるまで、あと数秒。
「白雪!」
『キュウ!』
簪から飛び出した白い影と共に、リナは杖を抜く。
因縁の再戦。
仕組まれた絶望の舞台で、少女たちの反撃が始まろうとしていた。




