第24話
東京、新宿。
眠らない街、歌舞伎町。
夜の喧騒がようやく引いていき、カラスの鳴き声だけが響く薄青い早朝。
まだ人通りのない路地裏に、ひっそりと佇む古物商『久遠堂』。
普段なら、店主である湊は布団にくるまって惰眠を貪っているはずの時間だ。
だが今朝は、磨りガラスの向こうに淡い明かりが灯っていた。
カランコロン、と朝の静寂を破ってドアベルが鳴る。
静かに裏口の扉を開けて入ってきたのは、インナーや着替えなどが入った大きなスポーツバッグを肩にかけた久遠リナだ。
今日は、いよいよBランク昇格試験の本番。
メンテナンスのために預けていた装備一式を受け取り、そのまま試験会場へ向かう手はずになっている。
「……おはよう。早いな」
カウンターの奥から返ってきた声に、リナは目を丸くした。
「えっ、叔父さん起きてるの!?」
リナの驚きも無理はない。
叔父である湊という男は、基本的に「太陽が高くなるまでは布団の住人」であることを信条としている。
こんな早朝に起きているなど、天変地異の前触れかと思うレベルだ。
「失礼な奴だな。俺だってたまには早起きすることもある」
湊は背筋を伸ばして椅子に座り、湯気の立つ湯飲みを手にしていた。
眠そうな様子はなく、身なりも整っている。
どうやら、リナが来るのを待っていたようだ。
「へぇー、奇跡だ。……もしかして、見送りのために起きてくれたの?」
「勘違いするな。年寄りは目が覚めるのが早いんだよ。……ほら、茶くらいは淹れてやる。座れ」
湊はぶっきらぼうに言いながら、手元の急須を傾け、リナの分の湯飲みに茶を注いだ。
ふわりと、朝の冷えた空気に上品で香ばしい湯気が立ち昇る。
「わぁ、いい匂い! これ、高いお茶?」
「ああ。剣崎の奴が、また菓子折りと一緒に置いていってくれてな。……律儀な奴だよ」
湊は呆れたように肩を竦めた。
ここ最近、Sランク探索者の剣崎龍也は、リナの指導のついでに、高級な茶葉や和菓子、フルーツを頻繁に差し入れている。
おかげで、寂れた古物商の朝は、老舗旅館のような優雅さに包まれていた。
リナは椅子に座り、温かいお茶を一口啜った。
寝起きの体に、温かさがじわりと染み渡っていく。
試験前の緊張で強張っていた心が、少しずつ解れていくのが分かる。
「ふぅ……。美味しい。目が覚めるね」
「で、集合時間は何時だ?」
湊が唐突に尋ねた。
普段はリナの予定になど興味を示さない彼にしては、珍しい問いかけだった。
「えっと、向こうに八時集合。場所が遠いから、もう出ないと」
「場所は?」
「千葉の成田ダンジョンだよ。今回は特例の試験だから、会場もいつもと違うんだって」
リナは事もなげに答えたが、湊の眉がピクリと動いた。
(……成田、か)
湊は湯飲みを見つめながら、思考を巡らせた。
通常、東京の探索者が受ける昇格試験は、慣れ親しんだ新宿や渋谷のダンジョンで行われることが多い。
わざわざ千葉まで移動させる意図。
それはつまり、リナを湊の目が届くテリトリーの新宿から引き剥がそうとしているということなのかもしれない。
(……分かりやすい手を打ってきやがる、杞憂かもしれないが……)
嫌な予感がする。
だが、湊はそれを顔には出さなかった。
これから試験へ向かうリナに、余計な不安を背負わせるわけにはいかない。
「ふうん。成田か。あそこは空港が近いから、外国人が多いんじゃないか? 気をつけろよ」
「観光に行くんじゃないってば。試験だよ、試験」
リナは笑い、鞄から書類を取り出した。
「今回の討伐対象は『オーガ』だって。なんか強そうだけど、頑張らなきゃ」
「オーガか。まあ、牛鬼や、この前の改造人間に比べれば可愛いもんだが……油断はするなよ」
オーガは、身長三メートルを超える人型の巨鬼だ。
怪力とタフネスは脅威だが、知能は低い。
リナの実力なら、真正面から殴り合っても負ける相手ではない。
問題があるとすれば、盤外からの干渉だが――。
「大丈夫だよ! それにね、特例の試験だけど一人じゃないの!」
リナは嬉しそうに身を乗り出した。
「みーちゃんも一緒に受けるんだ! リベンジマッチだって張り切ってたよ!」
「……ほう。あの一緒にやってた配信者か」
湊の脳裏に、以前リナと一緒にダンジョンに潜り、配信を行っていた女性が浮かんだ。
リナと一緒に新宿ダンジョンでモンスターに襲われ、トラウマを抱えていたはずだ。
それを乗り越え、再びダンジョンに挑もうとしているのか。
「そっか。友達と一緒なら心強いな」
「うん! みーちゃん、あれから魔法の練習すごく頑張ったんだって。私も負けてられないよ!」
リナの瞳は、朝日のように輝いていた。
友人と共に挑む試練。
それは彼女にとって、緊張よりも楽しみの方が勝っているようだった。
「よし。じゃあ装備を持ってけ」
湊は立ち上がり、カウンターの奥から綺麗に手入れされた装備一式を持ってきた。
退魔の鉄鎧の胸当ては磨き上げられ、以前のような埃っぽさがない。
杖、そして――白地に赤い隈取が鮮やかな、『隠形の狐面』。
「胸当てには、魔除けの油を塗っておいた。多少の攻撃なら弾くだろう。……で、一番大事なのはこれだ」
湊は狐面をリナに手渡した。
「いいか、リナ。特にその狐面は、試験中絶対に外すなよ」
「えー? 試験官の人に顔見せなくていいの?」
「本人確認の時だけ少しずらせばいい。ダンジョンに入ったら、常につけておけ。カメラ映り以前に、変な虫がつかないための虫除けだ」
湊の口調は真剣だった。
この面には、認識阻害だけでなく、致死ダメージを一度だけ肩代わりする身代わりの術がかかっている。
敵地かもしれない成田へ赴くリナにとって、それは御守りとなるはずだ。
「わかった。絶対外さない」
リナは真剣な表情で頷き、お面を大事そうにバッグにしまった。
「それと、もう一つ忠告だ」
湊は少し言い淀み、ため息交じりに続けた。
「張り切りすぎて、力を出し過ぎるなよ。試験官が引くぞ」
リナの攻撃は、加減を知らない。
オーガをホームランして壁に埋め込めば、合格どころか「危険人物」としてマークされかねない。
「大丈夫だよ! 特訓もしたし!」
リナは自信満々に拳を握りしめた。
そして、ニカっと笑う。
「今度は『優しく』ぶっ飛ばすから!」
(……その『優しく』の基準が、ズレているんだがな)
湊は心の中で頭を抱えた。
彼女にとっての「優しく」は、「壁を貫通させない程度」という意味でしかないだろう。
まあ、相手がオーガなら頑丈だろうし、スプラッター映画のようにはならないはずだ。
「……まあ、いい。とにかく、怪我だけはするなよ」
「もう、叔父さんってば心配性なんだから」
リナはクスクスと笑いながら、装備を詰め込んだバッグのチャックを閉めた。
ずっしりとした重み。
それは、これから始まる戦いへの重みでもあった。
「じゃあ、行ってきます! 合格したら、ケーキでお祝いしてね!」
リナはバッグを背負い、元気よく立ち上がった。
店を出ようとする彼女の背中を見送りながら、湊はカウンターに戻り、手持無沙汰に文庫本を手に取った。
いつも通りの、そっけない別れ。
それでいいはずだった。
だが。
「……リナ」
湊は、引き戸に手をかけたリナの背中に声をかけた。
「ん?」
リナが振り返る。
外からは、新しい一日の始まりを告げる朝の光が差し込んでいる。
湊は本に視線を落としたまま、ぶっきらぼうに言った。
「土産はいらんからな」
「えー、落花生くらい買ってこようと思ったのに」
リナが苦笑いして、「はいはい」と答えようとした時だった。
「……気を付けてな」
ボソリと、だがはっきりとした声が続いた。
それは、いつもの気怠げな店主の声ではなかった。
一人の家族を案じる、不器用だが温かい声だった。
「……!」
リナは一瞬、驚いたように目を見開いた。
朝寝坊の叔父が、わざわざ起きて待っていてくれて、最後にそんな言葉をかけてくれるなんて。
リナの顔が、朝日に負けないくらい明るく綻んだ。
「うん! 行ってきます!」
元気な声が響き、ドアベルがカランコロンと鳴る。
リナの背中は、光の中へと駆け出していった。
再び静けさが戻った店内で、湊は冷めかけた茶を啜った。
窓の外を見上げる。
東の空が白み始め、ビル群のシルエットが浮かび上がっている。
その方角は、リナが向かう千葉の空だ。
「……さて」
湊は文庫本を置き、姿勢を正した。
その瞳の奥には、眠気など微塵もない鋭い光が宿っていた。
「何も起きなきゃいいがな」
まあ、冷静に考えて先日襲撃してきた組織が、このタイミングで何も仕掛けてこないはずがない。
「Bランク試験」という舞台装置。
「成田」という隔離された場所。
そして、「友人」という人質になり得る存在。
役者は揃いすぎている。
(……俺の読みが外れていればいいんだが)
湊はポツリと呟いた。
だが、彼の勘が外れることは滅多にない。
爽やかな朝の空気とは裏腹に、日本の中枢で蠢き始めた悪意は、確実にリナへと迫っている。
これは、嵐が来る前の、最後の静けさだ。
湊は静かに立ち上がり、店の明かりを消した。
朝霧に沈む久遠堂。
その奥で、最強の陰陽師は、来たるべき時に備えて静かに爪を研ぐのだった。




