第19話
ドクン、ドクン、ドクン……。
心臓の鼓動などという生易しいものではない。
それは、地殻変動の前触れのような、重く不快な振動だった。
アンプルを打ち込んだ隊長の身体が、内側から食い破られるように変貌していく。
強化外骨格の複合素材が飴細工のように引きちぎられ、その隙間から赤黒い筋肉繊維が溢れ出した。
かつて人間だった頭部は形を失い、いくつもの眼球が不規則に浮かぶ肉塊へと成り果てている。
「グルルルルゥ……!!」
喉の奥から漏れる唸り声には、もはや知性の欠片もない。
あるのは純粋な破壊衝動と、世界すべてを呪うような怨嗟のみ。
「ひっ……!」
佐伯美香は、腰が抜けたようにその場へへたり込んだ。
特務機関の分析官として、数々のモンスターを見てきた。
グロテスクな死体も見慣れているつもりだった。
だが、目の前の存在は「質」が違う。
生理的な嫌悪感を催させる、冒涜的な生命の在り方。
ズドン!!
怪物が腕を振り下ろした。
その一撃は、あろうことか足元に倒れていた自分の部下――まだ息のある兵士たちへと向けられた。
「ひ、ひっ……!」
佐伯の悲鳴は届かない。
怪物の豪腕が、瓦礫と共に兵士たちを薙ぎ払った。
敵味方の識別すら失い、動くものすべてを破壊する殺戮マシーン。
それが今の彼だった。
だが。
その暴虐の嵐の中に、たった一人、怯まずに飛び込む影があった。
「これでもくらえ!」
久遠リナだ。
彼女は恐怖に顔を歪めるどころか、頬をぷくっと膨らませて怒っていた。
彼女の目には、その怪物が「手ごわい相手」にしか映っていないのだ。
「拳に集中!」
リナが地を蹴る。
先ほど、強化外骨格を紙屑のように破壊した踏み込み。
一瞬で怪物の懐へと潜り込むと、彼女は腰を落とし、丹田に練り上げた霊力を右拳に集約させた。
「はぁぁぁぁっ!!」
狙うは胴体の中央。
そこにある紫色の核のような部位。
ドォォォォォン!!!
重戦車の主砲が直撃したかのような轟音が、店内に響き渡る。
衝撃波が空気を震わせ、周囲のガラス片が粉々に砕け散った。
――勝った。
リナはそう確信した。
あれだけの威力を至近距離で受ければ、どんな生物だって原形を留めていないはずだ。
しかし。
「……え?」
リナの声が、困惑に揺れた。
拳は、確かに当たっていた。
怪物の腹部に深々とめり込んでいる。
だが、手応えがおかしい。
硬い装甲を砕いた感触ではなく、底なし沼に手を突っ込んだような、ヌルリとした不快な感触。
「グルァァァ……」
怪物は、倒れない。
それどころか、リナの拳が触れた箇所から、ドス黒い粘液のようなものが噴き出し、彼女の腕に絡みついたのだ。
「な、なにこれ!?」
ジュッ、ジュワワワワ……!
粘液が触れた場所から、リナを守っていた淡い青色をした霊力のガードが侵食されていく。
皮膚が焼けるような音と、鼻をつく悪臭。
「熱っ、痛いっ!?」
リナが悲鳴を上げた。
物理的な熱さではない。
神経を、いや、魂を直接紙やすりで削られるような、おぞましい感覚。
恐怖と不快感で、リナの動きが一瞬止まる。
その隙を、怪物は見逃さなかった。
ブンッ!!
丸太のような豪腕が、横薙ぎに振るわれた。
防御の姿勢すら取れないリナの横腹に、圧倒的な質量が直撃する。
「かはっ……!?」
軽い音がした。
リナの小柄な身体が、ボールのように弾き飛ばされる。
視界が回転し、店の奥の壁が迫る。
受け身を取れない。
激突すれば、ただでは済まない――。
「――っと」
ふわり。
唐突に、リナの体を支配していた慣性が消滅した。
激突の衝撃も、痛覚も訪れない。
「え……?」
リナが目を開けると、そこには見慣れた顔があった。
気だるげな表情だがその瞳には鋭い光が宿っている。
湊が、空中でリナの背中を片手で支え、優しく受け止めていたのだ。
「お、叔父さん……」
「無茶な攻め方をするな。ただ突っ込めばいいってもんじゃないぞ」
湊はリナを床に下ろすと、やれやれと溜息をついた。
その視線は、部屋の中央で咆哮を上げる怪物に向けられている。
「思い出した。こりゃ『呪術』か」
湊は冷徹に呟いた。
「じゅ、呪術……?」
リナが震える声で復唱する。
「ああ。綺麗にシステム化された『現代魔術』とも違う。俺たちが使う、自然の理を借りる『陰陽術』とも違う」
湊はため息をつきながら、侮蔑を隠そうともせずに言い放つ。
「負の感情、恨み、辛み……あるいは他者の生命そのものを、無理やり力へ変換する外法だ。出力だけなら魔術や陰陽術より手っ取り早いが……精神を汚染し、周囲を蝕む欠陥品だ」
湊の言葉通り、怪物の足元の床は黒く変色し、腐食が始まっていた。
存在しているだけで世界を汚す毒。
それが、あの怪物の正体だった。
「こんなカビの生えたような技術を、最新鋭の兵器に組み込むとはな。科学者ってのは、いつの時代もロクなことを考えない」
「ご、ごめんなさい……私、触ったらダメだと知らなくて……」
リナが涙目で腕をさすった。
先ほど粘液に触れた部分が、赤く腫れている。
「いいか、リナ。あれは『毒』だ。素手で触れば、お前自身が蝕まれる」
湊はリナの頭に手を置き、軽くポンと叩いた。
それだけで、リナの腕の痛みと不快感が嘘のように消え去った。
「す、すごい! 治った!」
「軽い接触だからこの処置で済む。……よく見ておけ。ああいう『呪い』には、それ用の戦い方がある」
湊は一歩、前へ出た。
その背中から漂うのは、先ほどまでの「やる気のない店主」の空気ではない。
張り詰めた糸のような、研ぎ澄まされた陰陽師の気配。
「グルァァァァァァ!!」
怪物が湊を新たな標的と認識し、突進を開始した。
床板を砕きながら迫る肉塊の暴走列車。
その圧倒的な質量を前にしても、湊は眉一つ動かさない。
彼は懐から、数枚の霊符を取り出した。
なんてことのない、和紙の札だ。
だが、湊が指に挟んだ瞬間、その紙片は鋼の刃のような鋭さを帯びた。
「ハッ」
無造作に放たれた霊符が、空中に固定される。
怪物を取り囲むように配置された五枚の札。
湊が印を結ぶ。
その動作は速すぎて、リナの目にも残像しか映らない。
だが、そこから放たれる霊気の奔流は、肌が粟立つほどに鮮烈だった。
湊の唇が紡ぐのは、古き言葉。
言霊が、世界を書き換える鍵となる。
「赤蛇、牙を開け。縛れ、焦がせ!」
カッ!!
店内が、真紅の光に染まった。
空中に固定された霊符が一斉に発火する。
だが、それはただの火ではない。
燃え盛る炎となり、まるで意志を持つ生き物のように鎌首をもたげ、五匹の「炎の蛇」へと変貌した。
「符術・豪火蛇焔縛」
シュババババッ!!
炎の蛇たちが、怪物の巨体に殺到した。
あるものは足首に噛みつき、あるものは胴体を締め上げ、あるものは腕を拘束する。
「ギャッ、ギャアアアアアアア!!」
怪物が絶叫した。
その叫びは、物理的な熱さによるものだけではない。
「その火は、お前の身体を構成している『呪い』そのものを燃料にする。暴れれば暴れるほど、呪えば呪うほど、火勢は強くなるぞ」
湊の言葉通り、炎の蛇は怪物が放つ黒い瘴気を吸い込み、さらに巨大化していく。
ドス黒い粘液は蒸発し、紫色の筋肉は炭化して崩れ落ちる。
逃げ場のない術式。
だが、驚くべきは威力ではない。
その制御力だ。
店内を焼き尽くすほどの熱量が発生しているはずなのに、すぐそばにある古本は焦げるどころか、ページがめくれることさえない。
炎は怪物「だけ」を焼き、それ以外の空間には、熱さえ伝えていないのだ。
(な、なんなの……この制御は……!)
佐伯は、開いた口が塞がらなかった。
彼女の知る最高位の魔術師ですら、ここまでの芸当は不可能だ。
範囲魔法を使えば、周囲への被害は避けられない。
だが、この男は違う。
数千度の炎を、まるで自分の手足のように操り、空間の座標単位で効果範囲を限定している。
神業としか言いようがなかった。
「……終わりだ」
湊が、指を鳴らした。
ボォォォッ!!
炎が一気に収束した。
断末魔の叫びと共に、怪物の巨体は一瞬で灰へと変わり、さらさらと床に崩れ落ちた。
残ったのは、焼け焦げた床の跡……すらなく、ただ微かな煤が舞うのみ。
完全な消滅だった。
「ふぅ……」
湊は軽く息を吐いた。
そして、部屋の隅で震えている、生き残りの兵士たちへと視線を向ける。
「まだやるか? お前ら」
低い声だった。
だが、その一言は、どんな魔術よりも雄弁に死を予感させた。
『ヒッ……!』
『た、退避! 総員退避ッ!!』
兵士たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
動けない仲間を担ぎ、壊れた装備を引きずり、一目散に入り口の穴から飛び出していく。
彼らが去った瞬間。
パリンッ。
硬質な音が響いた。
窓の外を覆っていた紫色のドームに亀裂が入り、ガラス細工のように砕け散ったのだ。
差し込んできたのは、見慣れた午後の日差し。
路地裏の喧騒と、遠くで鳴るクラクションの音が戻ってくる。
そして、奇跡はそれだけではなかった。
「あれっ? お店が……」
リナが声を上げた。
破壊されたはずのシャッター。
リナが兵士を叩きつけて空けた壁の穴。
散乱していた商品。
それらが全て、何事もなかったかのように「元通り」になっていたのだ。
「ほー、便利なもんだな」
湊は店内を見回し、満足げに頷いた。
「あの結界、空間そのものをコピーして隔離するタイプだったか。中で起きた破壊は、現実には反映されないってわけだ」
彼はカウンターの奥へ戻り、無傷の椅子に座り込んだ。
「助かったぜ。修理代がかからなくて」
それが第一声だった。
国家レベルの戦力を排除した直後の感想が、「修理代が浮いた」である。
そのあまりの小物感というか、大物感というか、とにかく常識外れな態度に、佐伯は呆然と立ち尽くすしかなかった。
「…………」
日常に戻った『久遠堂』の店内で、佐伯美香だけが異物のように震えていた。
脳内で、今の出来事を必死に処理しようとするが、キャパシティを超えている。
リナという少女の、物理法則を無視した身体能力。
そして何より、あの湊という男。
Sランク変異種に匹敵する怪物を、ものの数分で、しかも店内を傷つけずに消滅させた。
(魔術師なんてレベルじゃない。これは……『戦略兵器』よ)
佐伯の背筋に冷たい汗が伝う。
彼一人が動けば、戦局が変わる。
逆に言えば、彼を敵に回せば、日本の防衛システムなど紙屑同然に崩壊する。
国家権力だろうが、法律だろうが、この男の前では何の意味も持たない。
そんな怪物が、新宿の路地裏で古物商を営んでいる?
冗談ではない。
これは、東京のど真ん中に戦術核が落ちているようなものだ。
「……おい、公務員」
思考の渦に飲まれていた佐伯は、背後からの声にビクリと肩を跳ねさせた。
いつの間にか、湊が目の前に立っていた。
黒い瞳が、至近距離で佐伯を覗き込んでいる。
そこには、先ほどの冷徹な殺意はない。
だが、底知れない圧力が、佐伯の心臓を鷲掴みにしていた。
「まさか、今の騒ぎを報告書に書いたりしないよな?」
湊は、あくまで穏やかに、世間話でもするかのように囁いた。
「え……」
「俺は静かに暮らしたいんだ。あいつらのように、俺の平穏を邪魔しないでくれよ?」
それは提案ではない。
明確な「脅迫」だった。
もし断ればどうなるか。
先ほどの怪物がどうなったか、佐伯の脳裏に焼き付いている。
灰一つ残さず消滅させられるか、あるいは別の方法で消されるか。
佐伯はゴクリと喉を鳴らした。
この男を「管理」する?
「国の配下」に置く?
思い上がりも甚だしかった。
自分たちができることは一つしかない。
彼の機嫌を損ねないよう、全力で適度な距離感を保つこと。
「わ、わかりました……」
佐伯は震える声で答えた。
エリート官僚としてのプライドも、職務への忠誠心も、生存本能の前には無力だった。
「今日の件は、私の権限で全て揉み消します。データも、目撃情報も、すべて処理します。……だから!」
「交渉成立だな」
湊はニッと笑った。
その笑顔は、どこにでもいる人の良さそうな店主のものだった。
「話が早くて助かるよ。じゃあ、お茶でも飲んでくか? 疲れただろ?」
彼はくるりと背を向け、リナの方へ歩いていく。
「リナ、改めて、お茶淹れてくれ。あと煎餅もな」
「はーい!」
リナの明るい声が響く。
佐伯はその場へへなへなと座り込んだ。
緊張の糸が切れ、全身から力が抜けていく。
(とんでもないパンドラの箱を開けちゃった……)
彼女は天井を見上げ、深いため息をついた。
底が知れない「久遠堂」。
政府と久遠堂。
その間に挟まる佐伯美香の、胃の痛くなるような板挟み生活が、ここに幕を開けたのだった。




