第15話
一方、その頃。
東京、霞が関。
庁舎の一室に、日本の中枢を揺るがしかねない「爆弾」の分析に頭を抱える女性がいた。
佐伯美香。
内閣府直轄・対ダンジョン特務機関に所属する、若きエリート分析官である。
彼女は、鼻にかかった銀縁眼鏡を押し上げ、モニターに映し出された映像を食い入るように見つめていた。
「……間違いないわ」
画面の中で再生されているのは、新宿ダンジョンで撮影された配信映像。
一人の少女――久遠リナと、彼女が使役する白い狐が、Sランクの変異種を一瞬で消滅させるシーンだ。
佐伯は震える手で、デスクの上の資料を握りしめた。
「術式構成が見えない。詠唱による魔力励起のプロセスもない。現代魔術の体系には存在しない、異質の理……。断片的な特徴から予測すると、第二次世界大戦末期に失われたとされる『陰陽術』の系譜かも」
現代の探索者たちが使う「魔術」は、明治以降に西洋から輸入され、体系化されたものがベースとなっている。
対して、古来より日本に存在した「陰陽道」や「古神道」の術は、戦火と共にその多くが失伝し、今ではオカルトマニアの妄想の中にしか存在しないとされていた。
だが、映像の中の狐火は、本物だ。
現代魔術の最高傑作であるSランク防壁をも紙切れのように貫通する、圧倒的な霊的干渉力。
「もしこれが本物なら……西洋魔術一辺倒だったこの国のダンジョン政策を、根本からひっくり返すことになる」
国家戦略レベルの重要事案だ。
もしこの技術が海外やテロリストの手に渡れば、日本の防衛システムは崩壊する。
逆に、この力を国家が管理下に置くことができれば、ダンジョン資源の確保において、日本は世界をリードできる。
「確保しなきゃ。何としても」
佐伯の瞳に、使命感の炎が宿る。
彼女の任務は、この技術の保持者である久遠リナと接触し、国家の管理下に置くこと。
そのためなら、どんな手段も辞さない覚悟だった。
――しかし。
その「覚悟」は、開始早々に現代社会の壁にぶち当たっていた。
「……なんで? なんで既読すらつかないのよッ!!」
佐伯はデスクをバンッ! と叩いた。
画面には、某動画配信プラットフォームのDM画面が表示されている。
『【重要】内閣府・対ダンジョン特務機関より重要なお知らせ』
そんな件名で送った公式メッセージは、送信から三日が経過しても「未読」のままだ。
それだけではない。
SNSの公式アカウントからのリプライ、探索者協会に登録されたメールアドレスへの連絡。
あらゆる正規ルートを使って接触を試みたが、全て梨の礫だった。
「まさか、既に他国のエージェントに接触されて、誘拐された……?」
佐伯が最悪の想像を巡らせていた時、部下が恐る恐る口を開いた。
「あのぅ、佐伯補佐官……」
「なによ」
「その、久遠リナさんのSNS、今すごいことになってまして……」
部下が見せたスマホ画面を見て、佐伯は絶句した。
通知アイコンの数字は『9999+』でカンスト。
タイムラインは秒速で更新され、ファンからの応援、アンチの罵倒、企業案件の依頼、スパム、怪しい宗教の勧誘で埋め尽くされている。
「……これじゃ、私のメールなんてゴミの中に埋もれてるだけじゃない」
国の重要機密扱いである特務機関からの連絡が、「稼げる副業教えます!」というスパムメールと同列に扱われている。
その事実に、佐伯のこめかみに青筋が浮かんだ。
「ええい、ラチがあかないわ! 直接出向くしかない!」
「えっ、直接ですか? 他の人員は忙しくて動けませんよ?」
「相手は女子高生よ? 私一人で十分。公用車を回して!」
佐伯はジャケットを羽織り、カバンに資料を詰め込むと、風のようにオフィスを飛び出した。
***
新宿、歌舞伎町。
欲望と喧騒が渦巻くこの街の路地裏に、場違いなスーツ姿の女性がいた。
佐伯美香だ。
彼女は片手にスマホの地図アプリを持ち、眉間に深い皺を刻んでいた。
「……おかしい」
GPSは、目的地である『久遠堂』まであと五十メートルを示している。
目の前の角を右に曲がれば、店があるはずだ。
佐伯はヒールを鳴らして角を曲がった。
ザワザワ……。
突然、周囲の音が変わった。
「へ?」
目の前に広がっていたのは、薄暗い路地裏ではなかった。
タクシーが行き交い、人々が忙しなく歩く、新宿駅前のロータリーだった。
「は? 何が起きたの?」
佐伯は呆然と周囲を見回した。
一瞬前まで歌舞伎町の奥地にいたはずなのに、なぜか数百メートル離れた駅前に立っている。
狐につままれたような気分だ。
「……落ち着け、佐伯美香。あなたは対ダンジョン機関のエリートよ。冷静に分析しなさい」
彼女は深呼吸をし、再び歌舞伎町へと足を進めた。
今度は慎重に。
周囲を観察して、あらゆる術式干渉を警戒しながら。
二十分後。
彼女は再び、あの角の前に立っていた。
「ここね。ここを曲がると転移させられる。なにかのトラップね。……なら、術式を解析して無効化すればいい」
佐伯は眼鏡の位置を直し、懐から対魔法障壁用の魔道具を取り出した。
国家予算を投じて開発された、最新鋭の魔道具アイテムだ。
「アンチ・マジック・フィールド、展開!」
魔道具が輝き、彼女の周囲に魔法障壁を無効化する領域が展開される。
これで認識阻害も空間歪曲も通用しないはずだ。
佐伯は自信満々に角を曲がった。
チュンチュン。
小鳥のさえずりが聞こえた。
「……は?」
目の前には、のどかな公園があった。
ブランコで子供が遊び、ベンチでサラリーマンが昼寝をしている。
新宿三丁目公園だ。
「なんでよおおおおおおおおおお!!」
佐伯の叫びが、平和な公園に木霊した。
空間転移? いや、認識阻害と座標誘導の複合術式か?
それとも、人間の三半規管に直接干渉して方向感覚を狂わせているのか?
ありえない。
こんな高度な、いや「デタラメ」な結界を、個人の店舗が常時展開しているなんて。
これは国家の重要拠点を守るレベルの防衛システムすら超えている。
それは、湊が張った『五行反転・八門閉鎖』の結界。
悪意、下心、あるいは単なる「面倒な客」を自動的に排除し、適当な場所へポイ捨てする、最強にして最悪の出入り禁止システムだった。
それから、三時間が経過した。
路地裏にある自動販売機の前で、一人の女性が死んだ魚のような目でしゃがみ込んでいた。
佐伯美香である。
完璧にセットされていた髪は乱れ、高級スーツには砂埃がつき、ヒールでの歩きすぎで足は悲鳴を上げている。
手には、百三十円の微糖缶コーヒー。
「……なんなのよ、あの店」
彼女は虚空を見つめながら呟いた。
十回挑んで、十回とも違う場所へ飛ばされた。
ある時はデパートの屋上、ある時は地下鉄の入り口、そして最後はラーメン屋の行列の最後尾。
魔力も体力も底をついた。
国家の威信も、エリートのプライドも、この路地裏の結界の前では無力だった。
「私は……何をしてるんだろ……」
涙が出そうになった。
国の未来を憂いて、誰よりも努力してきたつもりだった。
なのに、たかだか一軒の古道具屋に辿り着くことすらできないなんて。
「ふふ〜ん♪ 今日の夕飯はハンバーグ〜♪」
そんな絶望の淵にいる佐伯の耳に、場違いなほど明るい鼻歌が聞こえてきた。
顔を上げると、スーパーの袋を下げた制服姿の少女が、スキップでもしそうな足取りで歩いてくる。
久遠リナだ。
リナは、自販機の前でうなだれている女性に気づき、足を止めた。
(あ、迷子かな? お姉さん、すごい困ってる顔してる……)
リナの「困っている人を放っておけない」スイッチが入った。
最近は修行にも慣れて、少しだけ心に余裕が出てきているのだ。
「あのー、大丈夫ですか?」
リナは屈み込み、佐伯の顔を覗き込んだ。
「靴擦れですか? それとも道に迷っちゃいました?」
天使のような笑顔だった。
佐伯は、光を見るような目で顔を上げた。
そして、その顔を見て、ハッと息を呑んだ。
「あ……あなたは、久遠リナさん!?」
探していたターゲット。
国家機密の保持者。
まさか、向こうから現れるなんて。
「え、私のこと知ってるんですか? ……あ、もしかして配信の視聴者さん?」
リナはポンと手を打った。
(そっか、このお姉さん、ファンなんだ! わざわざ聖地巡礼に来てくれたのに、道に迷っちゃったんだね)
スーツ姿で疲れ切っている様子を見て、「ブラック企業で働くOLさんが、唯一の癒やしを求めて来た」という勝手なストーリーを脳内で構築したリナは、慈愛に満ちた表情になった。
「ここ、わかりにくいですよねー。Googleマップもバグっちゃうみたいで」
「そ、そうなのよ! 何度やっても辿り着けなくて……」
佐伯は必死に食いついた。
ここで逃せば、二度とチャンスはないかもしれない。
「良かったら案内しますよ! どこに向かってるんですか?」
「『久遠堂』よ! 久遠堂に行きたいの! あと、あなたの話も聞きたいの!」
佐伯は勢いよく立ち上がり、リナの手をガシッと掴んだ。
「ひゃっ!?」
「お願い、連れて行って! もう無理!」
「わ、わかりましたから! そんなに強く握らないでください!」
リナは苦笑しながら、佐伯の手を引いた。
その瞬間だった。
佐伯の脳内で、何かをぬるりと通り抜けるような感覚がした。
リナという「正規の鍵」と接触したことで、佐伯に対する認識阻害の定義が書き換えられたのだ。
ぐにゃりと歪んでいた景色が、正常な形へと収束していく。
ずっと見えなかったその先に、古びた木造の店舗が現れた。
「……見えた」
佐伯は震える声で呟いた。
何時間も拒絶され続けた、難攻不落の要塞。
遂に、入り口が開かれたのだ。
「こっちですよー、お姉さん」
リナは何も気づかず、佐伯の手を引いて店の引き戸を開けた。
「ただいまー! 叔父さーん! お客さん連れてきたよー!」
ガラララッ……。
店内に、リナの明るい声が響く。
カウンターの奥。
いつものように文庫本を読んでいた湊は、入ってきた二人を見て、露骨に顔をしかめた。
隣にいるのは、笑顔の姪っ子。
そしてその手に引かれているのは、ボロボロだが眼光だけは鋭い、スーツ姿の女。
その女から漂うのは、湊が世界で一番嫌いな「面倒ごと」と「権力」の臭いだった。
「……嫌な予感がする」
湊は本を閉じ、リナと見知らぬ女性に向かって冷たく言い放った。
「帰ってもらえ、厄介ごとの匂いがプンプンする」




