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第13話

 場所は変わり、東都大学病院、特別病棟。

 数時間前まで、そこは重苦しい死の気配に満ちた場所だった。

 だが今、最上階の一室は、本来あるべき静けさを取り戻していた。


 いや、「本来あるべき」という表現は語弊があるかもしれない。

 なぜなら、その病室で起きている現象は、現代医学の常識を遥か彼方へと置き去りにしていたからだ。

 

「……ありえん」

 

 白衣を纏った初老の医師が、震える手で眼鏡の位置を直しながら呟いた。

 彼はこの病院の院長であり、魔術治療学の権威でもある。


 その彼が、目の前の光景に呆然と立ち尽くしていた。

 ベッドに横たわるのは、剣崎美咲。

 

 先日まで「原因不明の衰弱死」が秒読み段階だった患者だ。

 彼女のバイタルサインを示すモニターは、極めて安定した数値を刻んでいる。

 それだけなら、奇跡的な回復で片付くかもしれない。

 医師たちを困惑させているのは、ベッドの周囲に展開された「それ」だった。


 四枚の呪符。

 

 古めかしい和紙に書かれたそれらは、物理的な支えもなく空中に静止し、ベッドの四隅を囲んでいる。

 そこから発せられる淡い緑色の光が、ドーム状の結界となって美咲を優しく包み込んでいた。

 

「魔力反応なし、術式構成不明……なのに、細胞の活性化速度が異常値を示している」

 

「おい、誰か解析班を呼べ! この緑の光はなんだ!? 医療機器には一切干渉しないのに、患部にだけ選択的に作用しているぞ!」

 

「現代魔術の治癒術式とは理論がまるで違う! まるで……空間そのものを『健康な状態』に固定しているようだ!」

 

 医学と魔術のスペシャリストたちが、興奮と混乱の坩堝と化して議論を交わしている。

 その喧騒から少し離れた窓際で、当事者たちは静かにその光景を眺めていた。

 

「……騒がしいな」

 

 湊は心底面倒くさそうに耳をほじった。

 甚平に草履という、場違い極まりない格好のまま、彼は高級な革張りのソファにふんぞり返っている。

 

「叔父さん、あれ片付けなくていいの? お医者さんたち、すごい困惑してるよ」

 

 隣で縮こまっているリナが、心配そうに囁いた。

 彼女の制服は少し煤けているが、怪我一つない。

 あの牛鬼との死闘を経たとは到底思えない姿だ。

 

「放っておけ。あの結界はあと半日もすれば自然消滅する。それまでは美咲ちゃんの状態を安定させるためのギプスみたいなもんだ。無理に引き剥がせば体調が悪化するかもな」

 

「えっ、それは大変!」

 

「ま、魔術じゃどれだけやっても干渉できないさ。だから、好きに調べさせとけばいい。どうせ現代の連中には、陰陽術の理屈なんて理解できんよ」

 

 湊はつまらなそうに言い捨て、あくびをした。

 そんな二人の前に、一人の男が歩み寄ってきた。


 剣崎龍也。

 Sランク探索者としての威圧感は鳴りを潜め、今の彼はただ一人の「兄」の顔をしていた。

 憑き物が落ちたような、晴れやかな表情だ。

 

「湊さん、そしてリナちゃん」

 

 剣崎は二人の前で足を止めると、深く、長く頭を下げた。

 

「本当に……ありがとう。なんと礼を言えばいいか分からない。君たちがいなければ、俺は妹を失っていた」


 その声は震えていた。

 国内最強クラスの剣士が、プライドも地位も関係なく、心からの感謝を捧げている。

 リナは慌てて手を振った。

 

「そ、そんな! 頭を上げてください剣崎さん! 私は叔父さんに言われて、ちょっと手伝っただけですし……!」

 

「いや、君があの時、牛鬼を抑えてくれなければ、湊さんの術は間に合わなかったかもしれない。君は命の恩人だ」

 

 剣崎は真剣な眼差しでリナを見つめた後、再び湊に向き直った。

 

「湊さん。今回の依頼料についてだが……俺の全財産を出しても足りないと思っている。クラン『天叢雲あめのむらくも』の資産、それに俺が持つレアアイテムの権利、すべて君に譲渡する用意がある」

 

 それは、金額にすれば数十億、あるいは百億を超えかねない破格の申し出だった。

 リナが「ひぇっ」と息を呑む。

 しかし、湊の反応は冷淡だった。

 

「いらん」

 

 即答だった。

 

「は……?」

 

「金なら間に合ってる。そんな大金をもらっても、税務署への言い訳が面倒なだけだ。アイテム? 俺の倉庫にあるガラクタで十分だ」

 

「し、しかし! それでは俺の気が済まない! ならば、せめて我がクランの総力を挙げて、久遠堂をバックアップさせてくれ。何かトラブルがあった時、俺たちが盾となる!」


 剣崎は食い下がった。

 恩義を返さなければ、武人としての自分が許せないのだ。

 だが、湊はさらに嫌そうな顔をした。

 

「それこそお断りだ。国内最大手のクランなんぞと取引したら、目立って仕方がないだろうが」

 

「うっ……」

 

「剣崎。俺はな、静かに暮らしたいんだよ。店で古本を読みながら、日がな一日ゴロゴロする。それが俺の望む最高の生活だ」


 湊は窓の外に広がる東京の夜景に目を向けた。

 

「何かあった時? ……『何もない』ことが一番の報酬さ」

 

 その言葉には、かつて裏の世界で修羅場をくぐり抜けてきた者だけが知る、平穏への渇望が滲んでいた。

 剣崎は何も言えなくなり、ただ唇を噛み締めた。

 この男の器の大きさ――あるいは、底知れない無欲さに、改めて畏敬の念を抱かざるを得ない。

 その時だった。

 

「……お兄ちゃん」

 

 静寂を破るように、弱々しくも芯のある声が響いた。

 全員がハッとしてベッドを見る。

 美咲が、酸素マスクを外そうと手を伸ばしていた。

 剣崎が慌てて駆け寄り、彼女の上体を支える。

 

「美咲! 無理をするな!」

 

「ううん……平気。体が、すごく軽いの……」

 

 美咲は兄の腕の中で、湊とリナの方へと顔を向けた。

 その瞳は、結界の光を受けて淡く輝いている。

 

「あの……ありがとうございます。私、ずっと暗い闇の中にいて……もうダメだって思ってました」

 

 美咲は涙ぐみながら、それでも精一杯の微笑みを向けた。

 

「でも、お兄ちゃんの呼ぶ声と……温かい光が見えて。それで、戻ってこれたんです。私を助けてくれて……お兄ちゃんを、助けてくれて、本当にありがとうございます」


 彼女は理解していたのだ。

 自分が死ねば、兄もまた、後を追うように壊れてしまっていただろうことを。

 彼女の言葉に、剣崎は再び目頭を押さえ、男泣きした。

 病室に、温かな空気が満ちる。

 リナもまた、もらい泣きをして鼻をすすっていた。

 

 しかし。

 そんな感動的な空気をぶち壊すのが、湊という男である。

 

「……湿っぽいのは性に合わん」

 

 湊は立ち上がると、リナの背中をバシッと叩いた。

 

「痛っ! なにするの叔父さん!」

 

「礼を言うならこいつに言ってやってくれ。今回はこいつが居たから、ここまで来たようなもんだ。俺一人じゃ、面倒で途中で帰ってたかもしれん」

 

「ええー……」

 

 リナは不満げに頬を膨らませたが、剣崎と美咲から改めて「ありがとう、リナちゃん」と言われ、茹でダコのように赤くなって縮こまった。

 

「あ、あの! 私は別に! 成り行きというか、その……!」

 

 もじもじとする姪っ子を見下ろしながら、湊は何かを思いついたように悪い顔をした。

 そして、剣崎に向かってニヤリと笑った。

 

「そうだ、剣崎。金も名誉もいらんが、一つだけ頼みがある」

 

「なんだ!? 言ってくれ! どんなことでも聞く!」

 

 剣崎が身を乗り出す。

 湊は親指でリナを指差した。

 

「こいつを、鍛えてやってくれ」

 

「……はい?」

 

「えっ!?」

 

 剣崎とリナの声が重なる。

 湊は悪びれもせずに続けた。

 

「見ての通り、こいつはまだまだだ。実戦経験が致命的に足りん。動きにセンスはあるが素人だし、とっさの判断も甘い。このままだと宝の持ち腐れだ」

 

「は、はあ……それは確かに、素晴らしい素質を感じましたが……」

 

「だから、美咲ちゃんが全快して落ち着いたらでいい。こいつを連れて、適当なダンジョンを回ってやってくれ」

 

 湊の提案に、リナが悲鳴を上げた。

 

「ちょっと叔父さん!? 何勝手なこと言ってるの!? 相手は国内有数のSランク探索者だよ!!」

 

「何言ってんだ。一度関わっちまったら、もう一般人には戻れねえよ。自分の身くらい自分で守れるようになれ」

 

「だからって、いきなりSランクの人とパーティーとか無理だってば! レベルが違いすぎるよ!」

 

「大丈夫だ。Sランクの引率なら、俺も安心して店で昼寝ができるからな」

 

 湊の本音が漏れた。

 要するに、面倒な教育係を剣崎に丸投げしようとしているのだ。

 リナは「それが狙いかー!」と抗議したが、剣崎は少し考えた後、真面目な顔で頷いた。

 

「……分かった。引き受けよう」

 

「ええっ!? 剣崎さんまで!?」

 

「君の才能を埋もれさせるのは、人類の損失だ。それに、命の恩人の頼みとあらば断れない」

 

 剣崎が、楽しそうに笑った。

 それは初めて見せる、年相応の青年の笑顔だった。

 

「うぅ……もう、どうにでもなれ……」

 

 リナはがっくりと項垂れた。

 平穏な日常に戻れると思っていたのに、まさかSランク探索者への弟子入りまでもが決まってしまうとは。

 けれど、不思議と嫌な気分ではなかった。

 自分の力が、誰かの役に立った。

 その事実が、胸の奥で小さな誇りとなって灯っていたからだ。

 

「よし、話は終わりだな」

 

 湊は満足げに頷くと、項垂れるリナの頭に手を伸ばした。

 

「まあなんだ、よくやったな、リナ」


 ガシガシガシ!

 

 湊の大きな手が、リナの頭を乱暴に撫で回す。

 というより、頭蓋骨をグリグリと締め上げるような、愛情表現と言うにはあまりに雑な手つきだった。

 

「あだだだだ! 痛い! 痛いってば叔父さん!」

 

「文句言うな。褒めてやってるんだ」

 

「髪がボサボサになる〜! やめてよ〜!」

 

 リナが涙目で暴れる。

 その様子を見て、剣崎と美咲が声を上げて笑った。

 

「ふふっ、仲良しですね」

 

「ああ」

 

 温かな笑い声が、病室に響く。

 呪いと絶望に満ちていたこの場所は、今、確かな希望と絆で満たされていた。

 

「じゃあな。長居するとまた厄介ごとを呼び込みそうだ」

 

 ひとしきりリナの頭をかき回して満足した湊は、ひらひらと手を振って出口へと向かった。

 

「あっ、待ってよ叔父さん! ……剣崎さん、美咲ちゃん、お大事に! また来ます!」

 

「ああ、気をつけて」

 

「リナさん、またね」

 

 リナは慌てて髪を整え、深々とお辞儀をしてから、湊の後を追って小走りで病室を出て行った。

       


 ***

 

 

 病院の廊下。

 人がまばらの通路を、カツカツというローファーの音と、ペタペタという草履の音が響く。

 

「もう、ひどい髪型……」

 

 リナはスマートフォンの画面を鏡代わりにして、ボサボサになった前髪を直していた。

 その黒髪には、一本の古びた簪が挿さっている。

 その先端には、白雪が小さな光の粒となって眠っていた。

 

「叔父さん、お腹減った……美味しい焼肉、食べたい」

 

「へいへい。牛丸でいいか?」

 

「じゃじゃ苑!」

 

「生意気なやつだ」

 

 軽口を叩き合いながら、二人はエレベーターホールへと消えていく。


 日常への帰還。

 明日からはまた、古物商の店主と、ただの女子高生に戻る。

 

 ――彼らは、まだ知らない。

 

 この一件が、単なる「人助け」では終わらないことを。

 新宿ダンジョンの深層に現れた『牛鬼』。

 それが自然発生したイレギュラーではなく、何者かの手によって意図的に「培養」されていた呪いであったことを。

 そして、その計画を頓挫させた「異分子」である湊たちの存在が、闇に潜む者たちのリストに刻まれたことを。


 平穏を愛する最強の陰陽師と、覚醒し始めた少女。


 二人が巻き起こした風は、やがて東京中を巻き込む巨大な嵐となっていくのだが――それはまた、別のお話。


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