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第12話


 片足を根元から吹き飛ばされた『牛鬼』が、轟音と共に訓練場の床を転がった。

 ダンプカー並みの巨体が、まるでゴミ屑のように宙を舞い、無様に叩きつけられる。

 

 その光景は、生物としての格付けを一瞬で完了させた。

 

「グルルッ……!?」

 

 牛鬼の虚ろな瞳に、明確な恐怖の色が浮かんだ。

 本能が警鐘を鳴らしている。


 目の前にいる制服姿の少女――リナは、か弱い獲物ではない。

 自分という「汚れ」を物理的に消し去ろうとする、絶対的な「捕食者」であると。

 逃げなければ。

 殺される。

 

「ヴォォォォッ!!」

 

 牛鬼は半狂乱になりながら身を起こした。

 残った三本の足と、蜘蛛の下半身を不格好に蠢かせ、床を削りながら這いずり回る。

 目指すのは、リナのいない方向――すなわち、入り口を守る剣崎の方角だ。

 

「あ、逃げた!?」

 

 リナがポカンとした声を上げた。

 まさか怪物が、背中を見せて逃げ出すとは思っていなかったのだ。

 

「グルァァァァァッ!!」

 

 牛鬼はなりふり構わず突進した。

 たとえそこに強そうな男がいようとも、あの青白い拳を持つ少女よりはマシだという判断だったのか、あるいはパニックで視界が狭まっていたのか。

 暴走トラックのような勢いで、牛鬼が剣崎へと肉薄する。


「来るか……ッ!」

 

 剣崎龍也は、迫りくる巨体を見据え、反射的に『退魔の霊刀』を振りかぶった。

 

 脳裏に、三ヶ月前の深層での記憶が蘇る。

 あの時、自分の愛剣『竜殺し』ですら、こいつの剛毛と呪いの皮膚を貫くことはできなかった。

 全力の斬撃が弾かれ、逆に刃こぼれした時の絶望感。

 

 (硬い手応えがあるはずだ。衝撃に備えろ……!)

 

 剣崎は全身の筋肉を硬直させ、歯を食いしばり、迎撃の太刀筋を描いた。

 

 ――スパンッ。

 

 だが響いたのは、あまりにも乾いた音だった。

 

「え……?」

 

 剣崎の手には、何の感触も残らなかった。

 肉を断つ抵抗も、骨を砕く衝撃も、何もない。

 まるで空気を、あるいは水面を撫でたかのような軽さ。


 だが。

 

 目の前の現実は、その斬撃の結果を冷酷に示していた。


 ズズ……ッ。

 

 牛鬼の、鋼鉄よりも硬いはずの剛毛に覆われた前足二本と、鬼の胴体の一部が、音もなく滑り落ちた。

 切断面は鏡のように滑らかで、血の一滴すら滲む間もなく焼き切れている。

 

 切り落とされた部位が床に落ちる音だけが、やけに大きく響いた。

 

「モ、モゴッ……!?」

 

 牛鬼は、自分が切られたことに気づいていなかった。

 数歩進んでから、支えを失った体が崩れ落ち、初めて激痛と理解不能な現象に絶叫を上げた。

 

「……なんだ、この切れ味は……?」

 

 剣崎は、自身の手にある霊刀を呆然と見つめた。

 青白く発光する刀身には、脂一つ、穢れ一つ付着していない。

 

 (ゴブリンを切った時だって、もう少し手応えがあるぞ……)

 

 これが、湊の言っていた「霊的防御を紙切れみたいに切り裂く」という意味か。

 Sランク探索者の常識が、ガラガラと崩れ去っていく。

 この剣の前では、物理的な硬度も、魔術的な耐性も、何の意味も持たない。ただ「そこに在るものを断つ」という概念だけが存在している。

 

 (湊さんは……こんな国宝級の業物を、使い捨てていいと言ったのか……?)

 

 剣崎は背筋が凍る思いだった。

 あの寝癖頭の男は、一体どれほどの深淵を覗いているのか。



「ギィィィィィィィッ!!」

 

 逃げ場を失い、体を切り刻まれた牛鬼は、窮鼠と化した。

 後ろには規格外の怪力少女。

 前には全てを断つ魔剣。

 逃走本能は、ここに至って自暴自棄な攻撃衝動へと反転した。


 切断面から、血の代わりにどす黒いモヤ――高濃度の呪いの残滓を噴き上げながら、牛鬼は残った足で無理やり方向転換した。

 

 ターゲット変更。

 剣崎でも、リナでもない。

 この場に立ち、あくびを噛み殺している、全ての元凶と思われる男――湊へ。

 

「グルルァァァァァァッ!!」

 

 最後の力を振り絞り、牛鬼が跳んだ。

 腐った泥の塊のような巨体が、弾丸となって湊とリナの方へ殺到する。

 

「ひっ、また来た!?」

 

 リナが悲鳴を上げて身構える。

 だが、湊は眉一つ動かさなかった。

 むしろ、呆れたように溜息をついている。

 

「お、往生際が悪いな。ただの汚れの分際で」

 

「叔父さん! 危ない!」

 

「大丈夫だ。リナ、トドメだ。踏み込んで、左回し蹴りでも……」


 湊が的確な指示を出そうとした、その時だった。

 

『キュウ!』

 

 リナの近くで浮遊していた管狐の白雪が、鋭く鳴いた。

 その鳴き声には、明らかな苛立ちが含まれていた。

 

 『キュッ!』(遅い! 見てられない!)


 『キュッ! キュウ!』(これ以上、あるじに不浄なものを近づけるな!)

 

 白雪が、痺れを切らしたように前に飛び出した。

 その小さな体から、爆発的な霊気が膨れ上がる。

 

「あ、ちょっと待て白雪! それじゃリナの特訓に……」

 

 湊の制止は間に合わなかった。

 白雪は空中で静止すると、その可愛らしい口をカッと開いた。


 ゴォォォォォォォォォォッ!!!

 

 白雪の口から、青白い炎が放射された。

 

 『狐火』

 

 だが、それは自然界の炎ではない。

 対象を燃やすのではなく、その存在を構成する霊的な因子を分解し、無へと帰す「消滅の光」だ。

 それは、リナの拳や、剣崎の斬撃とは次元が違った。

 

「――――ッ!?」

 

 牛鬼の断末魔すら、聞こえなかった。

 

 青い炎の奔流に触れた瞬間、牛鬼の頭部が、胴体が、足が、音もなく粒子となって分解されていく。

 熱さはない。

 衝撃もない。


 ただ、そこに在った「不浄な存在」が、世界から消えていく。

 数秒後。

 狐火が止むと、そこには何も残っていなかった。

 

 塵一つ、焦げ跡一つない。

 

 あの巨大で、禍々しく、悪臭を放っていた怪物は、完全に「消失」していた。

 

「…………」

 

 圧倒的な静寂。

 白雪は空中でくるりと一回転すると、音もなくリナの肩に着地した。

 そして「ふん」と鼻を鳴らし、ドヤ顔で前足を舐め始めた。

 

『キュウ!』

 

「……あーあ」

 

 湊ががっくりと肩を落とした。

 

「これじゃリナの特訓にならないじゃないか。最後の一撃で『祓う』感覚を覚えさせたかったのに」

 

「い、いやいやいや!」

 

 リナは震える指で何もない空間を指差した。

 

「あんなの私じゃ無理だよ! 白雪ちゃん凄すぎでしょ!? 一瞬で消えちゃったよ!?」

 

「ま、こいつは千年級の管狐だからな。あの程度の雑魚、本気を出せば瞬きする間もないさ」

 

 湊は事も無げに言ったが、リナや剣崎にとっては衝撃の連続だった。

 Sランクパーティーを敗走させる変異種を「雑魚」と呼び、それを瞬殺する使い魔。


 そして、それを操る古道具屋の店主。

 剣崎は霊刀を下ろし、深く息を吐いた。

 恐怖と緊張が解け、現実感が戻ってくる。


 そして、ハッとした。

 

「そうだ……! 美咲! 妹はどうなんだ!!」

 

 剣崎は弾かれたように、訓練場の中央にあるベッドへと駆け寄った。

 

 ベッドの周囲には、いつの間にか不思議な光景が広がっていた。

 四枚の呪符が、ベッドの四隅を囲むように浮遊している。

 そこから淡い緑色の光のカーテンが伸び、眠る美咲の体を優しく包み込んでいた。


「これは……結界?」

 

 剣崎が立ち止まると、後ろからペタペタという足音が近づいてきた。

 

「あいつを引っこ抜いた直後に張っておいた。守護と、削られた生命力の補填だ」

 

 湊が説明する。

 牛鬼との戦闘中、リナが拳を振るい、白雪が炎を吐いている間に、湊は密かに、そして完璧に「治療」を行っていたのだ。

 

「今、生命力の急速チャージ中だよ。まあ、あれだけ食われてたんだ、全快までには時間はかかるが……命に別状はない」


「湊さん……」

 

 剣崎は言葉を失った。

 この男は、ふざけているようでいて、最も重要な仕事だけは誰よりも速く、正確にこなしていたのだ。

 

「呪いの根源である牛鬼は消滅した。もう大丈夫だ」

 

 湊の言葉が終わるか終わらないかのうちに。

 

「ん……」

 

 微かな吐息が、静寂に響いた。

 

 剣崎が息を呑む。

 緑色の光の中で、美咲の痩せた指先がピクリと動いた。

 そして。

 

 長い間、暗い闇の中に閉ざされていた瞼が、ゆっくりと震えながら持ち上がった。

 現れたのは、少しぼんやりとした、けれど確かな光を宿した瞳。

 美咲はゆっくりと首を動かし、焦点の合わない目で周囲を見回した。

 そして、涙を流して立ち尽くす兄の姿を捉えた。

 

「……お兄、ちゃん?」

 

 掠れた、蚊の鳴くような声。

 だが、剣崎にとっては、世界で一番聞きたかった声だった。

 

「――ッ!!」

 カラン……。

 

 剣崎の手から、国宝級の霊刀が滑り落ち、硬い床に音を立てた。

 彼はそのまま膝から崩れ落ち、ベッドの柵を掴み、妹の手を両手で包み込んだ。

 その手は、まだ冷たいけれど、確かに温かい脈動を取り戻していた。

 

「美咲……! 美咲ッ……!」

 

「お兄ちゃん、泣いてるの……? 私、どうして……」

 

「よかった……! 本当によかった……!!」

 

 Sランク探索者、剣崎龍也。

 数々の修羅場をくぐり抜けてきた「孤高の剣聖」は、今、ただ一人の兄として、子供のように泣きじゃくっていた。

 リナはその光景を見て、目元をぐしぐしと擦った。

 

「うぅ……よかったねぇ……」

 

『キュウ……』

 

 白雪も、少しだけ優しい目をして尻尾を振っている。

 湊は、抱き合う兄妹と、もらい泣きする姪っ子を眺め、頭をガシガシと掻いた。

 

「やれやれ。まあなんとかなってよかったな」

 

 彼は足元に落ちていた霊刀を拾い上げ、埃を払って懐に仕舞い込んだ。

 悪夢は去ったのだった。

 

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