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第11話

「グルルルルル……ォォォォォッ!!」

 

 地下訓練場の空気がびりびりと震えていた。

 顕現した『牛鬼』の咆哮。


 それは単なる音ではなく、物理的な圧力を持って鼓膜を叩き、肌を焼くような殺気を放っていた。

 腐臭が漂う中、剣崎龍也は脂汗を流しながらも、湊から借りた『退魔の霊刀』を正眼に構えた。

 

(速い……いや、重い。プレッシャーだけで体が押し潰されそうだ)


 かつて深層で遭遇した時よりも、遥かに強大になっている。

 この刀があれば斬れるかもしれない。

 だが、相手の攻撃を一発でも貰えば……。

 

 勝率は、良くて四割。

 それでもやるしかない。

 妹の命と、この場の安全を守るために。

 

「湊さん、俺が前衛に出る。隙を見て、援護を……」

 

 剣崎が決死の覚悟で声をかけた、その時だった。

 

「ふあぁ……」

 

 間の抜けたあくびの音が、緊張感を台無しにした。

 剣崎がギョッとして振り返ると、湊は牛鬼を見ながら、まるで動物園の檻の前にいるかのようなリラックスした立ち方をしていた。

 

「ふむ、牛鬼か。動きは鈍重、攻撃パターンは力任せの単調なもの。特殊な力もなさそうだ……こりゃあ、ちょうど良い練習台だな」

 

 湊は一人で納得すると、隣でガタガタ震えていたリナの背中を、ポンと叩いた。

 

「よし、リナ。あいつを『掃除』してこい」

 

「……は?」

 

「「……はあ!?」」

 

 リナと剣崎の声が重なった。

 リナは自分の耳を疑い、剣崎は湊の正気を疑った。

 

「お、叔父さん? いまなんて?」

 

「だから、掃除だ。店でやっただろ? あれのでかい版だと思えばいい」

 

「無理だよ! あんなお化け、剣崎さんでも死にそうになったんでしょ!? 私、ただの女子高生だよ!?」

 

 リナは涙目で抗議した。

 当然だ。

 目の前にいるのはダンプカーサイズの蜘蛛と牛の合成獣だ。

 女子高生に対処できる案件ではない。

 剣崎も血相を変えて叫んだ。

 

「湊さん、何を考えているんだ! 彼女は素人だぞ! いくらなんでも無茶苦茶だ!」

 

「無茶じゃないさ。今のこいつならできる」

 

「できるわけがないだろう! 俺が戦う、彼女を下げてくれ!」

 

 剣崎がリナを庇うように前に出ようとした。

 その一瞬の隙――三人の意識が割れた瞬間を、怪物は見逃さなかった。


「ガァァァァァァッ!!」

 

 牛鬼が動いた。

 その巨体に似合わぬ爆発的な瞬発力。

 狙いは、この場で最も「弱く」、かつ「美味しそう」な霊力を放っている獲物――リナだ。

 

「しまっ――!」

 

 剣崎が反応し、飛び出そうとする。

 だが。

 

「見ていろ」

 

 湊の低い声と共に、剣崎の肩が掴まれた。

 万力のような力。

 Sランク探索者の膂力をもってしても、微動だにできない。

 

「湊さんッ! 離せッ!」

 

 剣崎の叫びは、轟音にかき消された。

 

 ズドォォォォォォン!!!

 

 牛鬼の丸太のような右腕が、リナの立っていた場所へ叩きつけられた。

 対Sランクモンスター用の強化床材が粉々に砕け、爆発したかのような土煙が舞い上がる。

 

「あ……」

 

 剣崎の顔から血の気が引いた。

 直撃だ。

 あんなものを生身で受ければ、骨も残らない。

 絶望が脳裏をよぎる。


 しかし。

 土煙の中から、場違いな悲鳴が聞こえてきた。

 

「ひいいっ! ごめんなさい! 私、食べても美味しくないですぅぅぅ!」

 

「え?」

 

 剣崎が目を凝らすと、煙が晴れた先に、リナが立っていた。

 いや、ただ立っているのではない。

 彼女は、器用に避けていた。


 牛鬼の左腕による追撃の薙ぎ払い。

 リナはそれを、上体を反らすことで、紙一重で回避した。

 

 さらに続く踏みつけの連打。

 

 リナは悲鳴を上げながらも、ステップを踏むように右へ、左へとひらりひらりと躱していく。

 

「嘘だろ……」

 

 剣崎は戦慄した。

 牛鬼の攻撃は、単調とはいえ非常に高速だ。

 

 それがあたかも「止まって見える」かのように、リナは最小限の動きで全てを避けていた。

 自然で違和感のない達人の舞のような動き。

 まるで息をするかのようにするりと攻撃を掻い潜っていく。

 

(なんだあの動きは……!? まるで水が流れるようだ。未来予知でもしているのか!?)

 

 Sランクの動体視力で見ても、リナの回避行動には無駄が一切なかった。

 殺意の塊のような攻撃を認識し、無意識に体が最適解を選んでいる。

 隣で見ていた湊は、頭をガシガシと掻きながら呟いた。

 

「……やっぱり姉さんの娘だな。フィジカルも天才だ」

 

 湊の姉――リナの母は、魔術の才能こそなかったが、その身体能力と直感、そして霊力の才能はずば抜けていた。

 かつて湊が仕掛けた結界トラップを、鼻歌交じりに素通りして部屋に入ってきた時のことを思い出し、湊は苦い顔をした。


 血は争えない。

 

 リナは、一週間の「掃除」によって、その潜在能力を無理やり開花させられたのだ。

 

「もう嫌ぁぁぁ! 叔父さん助けてよぉぉぉ!」

 

 リナは泣き叫びながら、牛鬼の吐き出した強酸の唾液をバク転で回避した。

 制服のスカートがひらりと舞い、着地と同時にまた次の攻撃を避ける。

 本人は必死だが、傍から見れば舞踏のような華麗さだ。

 

「よーしリナ、いつまで遊んでる。さっさと片付けろ」

 

 安全圏から湊の声が飛ぶ。

 

「遊んでないよぉ! 死ぬ! 死んじゃう!」

 

「死なない死なない。そいつの攻撃は、お前の目にはどう見えてる?」

 

「どうって……なんか、黒くてベタベタしてて、気持ち悪いのが飛んでくる感じ!」

 

「そう、それだ」

 

 湊は指をパチンと鳴らした。

 

「それは『攻撃』じゃない。ただの『汚れ』だ。店にあった百年物の油汚れと変わらん」


「よ、汚れ……?」

 

 リナが攻撃を避けながら、一瞬動きを止めた。

 言われてみれば、そうだ。

 牛鬼が振り回す腕も、吐き出す泥も、リナの目には、あの『久遠堂』の床にこびりついていた「黒い澱み」と同じ質量の塊に見えていた。

 

「思い出せ。一番しつこい汚れを落とした時の感覚を! 雑巾じゃ落ちないなら、どうする?」

 

「……こすって、削り落とす!」

 

「違う! 叩き出すんだよ! 丹田に力を入れて、拳に霊力を流し込め!」

 

 湊の言葉が、リナの脳内にスッと入ってきた。

 

 ――丹田に力を入れる。

 

 リナは無意識に呼吸を変えた。

 掃除の最中、重たい雑巾を動かす時に自然と行っていた呼吸法。


 下腹部に熱い塊が生まれる。

 その熱を、肩へ、腕へ、そして右の拳へと流し込む。


 ボゥッ……。

 

 リナの小さな拳が、青白く、清浄な光を帯びて発光し始めた。

 

(あ、これだ。雑巾がけしてる時の、あの感覚……!)

 

 恐怖が消えた。

 目の前で暴れまわる怪物が、ただの「掃除すべき対象」に切り替わる。

 

「グルァッ!!」

 

 牛鬼が、リナの動きが止まったのを見て取った。

 好機とばかりに、全身のバネを使って踏み込んでくる。


 巨大な蹄のような右足が、リナの頭上から振り下ろされた。


 直撃すれば、戦車すらプレスするような一撃。

 剣崎が「駄目だ! 正面から受けるな!」と叫ぼうとした。

 だが、リナは逃げなかった。

 

(ここ……! この一番濃い汚れの芯!)

 

 リナは半歩踏み込んだ。

 腰を落とし、地脈から力を吸い上げるように。

 そして、カウンター気味に右拳を突き出した。

 

「えいっ!」

 

 掛け声は、とても軽かった。

 体育の授業でバレーボールを打つ時のような、可愛らしい声。


 しかし。

 その拳と、牛鬼の足が接触した瞬間。


 ドゴォォォォォォォォォォン!!!!!

 

 地下訓練場を、爆弾が爆発したかのような衝撃波が揺るがした。

 

「――は?」

 

 剣崎の目が点になった。

 女子高生の拳が、ダンプカーサイズの怪物の突進を止めたのではない。


 弾き飛ばしていた。

 

 バヂンッ!! という音と共に、牛鬼の右足が根元からねじ切れ、消し飛んだのだ。

 

「モ、モゴォッ!?」

 

 牛鬼は自分の身に起きたことが理解できず、バランスを崩して宙を舞った。

 そして、背中から床に叩きつけられ、仰向けにひっくり返った。

 

 轟音が止むと、訓練場には完全な静寂が訪れた。

 土煙が晴れていく。

 そこには、拳を突き出したポーズのまま固まっているリナと、少し離れた場所で痙攣している巨大な牛鬼の姿があった。

 

「え……?」

 

 リナは自分の手を見た。

 傷一つない。

 痛みもない。

 ただ、拳にまとわりついていた青白い光が、キラキラと粒子になって霧散していく。

 

「あ、あれ? 私、いま……」

 

 リナはポカンとして、ひっくり返った牛鬼と、自分の手を見比べた。

 その後ろで。


 剣崎は、顎が外れそうなほど口を開けていた。

 手にした国宝級の霊刀を取り落としそうになりながら、乾いた笑い声を漏らす。

 

「は、はは……馬鹿な……。深層のイレギュラーを……素手で……?」

 

 魔法も、スキルも使っていない。

 ただの正拳突き。

 だが、その一撃には、Sランク探索者の必殺技をも凌駕する純度の高い「浄化の霊力」が込められていた。

 呆然とする二人をよそに、湊だけが満足げに頷いていた。

 

「よしよし。筋は悪くない」

 

 彼はリナの方へ歩み寄りながら、ニヤリと笑った。

 

「雑巾がけよりは手ごたえがあっただろ? まだ残ってるぞ、仕上げといこうか」

 

 最強の陰陽師による「実戦形式の修行」は、まだ終わらない。

 リナは引きつった顔で叔父を振り返った。

 

「も、もう十分ですぅぅ!!」

 

 

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