第9話
都内でも有数の設備を誇る、東都大学病院・特別病棟。
政財界の要人や、高ランク探索者御用達のこの場所は、塵一つない清潔な空間と、最高級ホテルのような静けさに包まれている。
はずだった。
「……臭いな」
エレベーターを降りた瞬間、湊は露骨に顔をしかめ、指で鼻をつまんだ。
甚平に草履という、あまりにも場違いな格好の男が発した言葉に、通りがかった看護師が眉をひそめる。
だが、その先頭を歩く男――ボロボロのコートを纏ったSランク探索者、剣崎龍也の姿を見て、彼女は慌てて敬礼し、道を開けた。
「急いでくれ。こっちだ」
「そんなに急かすなよ」
湊はペタペタと草履の音を鳴らしながら、気怠げについていく。
その後ろを歩くリナは、不安そうに周囲を見回していた。
「ねえ、叔父さん……」
「ん?」
「なんかここ、空気悪くない? 換気扇壊れてるのかな」
リナは胸元の服をパタパタとさせた。
空調は完璧に効いているはずなのに、肌にまとわりつくような湿気と、喉の奥にへばりつくような不快感がある。
それは、あの『久遠堂』で、何百年もの澱みを吸った雑巾を絞った時の感覚に似ていた。
「ただの消毒液の臭いじゃないよ。なんか……生ゴミと泥を混ぜて煮込んだような、すごい嫌な感じがする」
「ほう」
湊は感心したように片眉を上げた。
一般人には、清潔な病院の空気しか感じられないはずだ。現に、剣崎は何の反応も示さず先を急いでいる。
(掃除修行の成果がもう出たか。感覚器官が『穢れ』に対して鋭敏になってやがる)
リナは気づいていない。
彼女が感じている「空気の悪さ」は、物理的なものではなく、霊的な汚染だということに。
「その格好どうにかならなかったのか?一応、病院だぞ」
剣崎が振り返りもせずに言った。
すれ違う医師たちが、Sランクの剣崎には畏敬の念を向けるが、その後ろの甚平男と制服の女子高生には「なんでここに?」という視線を突き刺していたからだ。
「正装だぞ。俺にとってはな、仕事着みたいなもんだ」
「……湊さんがそれでいいなら、いいが……」
一行は廊下の突き当たり、最上階の個室へと向かった。
近づくにつれて、リナの顔色は青ざめていく。
「うっ……気持ち悪……」
「口呼吸にしとけ。まともに吸うと気分を害するぞ、今のお前には毒みたいなもんだ」
「えっ、毒? 病院なのに!?」
「似たようなもんだ」
湊は淡々と答え、病室のドアノブに手をかけようとした剣崎を制した。
「待て。先客がいる」
湊の肩で、今まで姿を消していた管狐の白雪が、ポンと音を立てて実体化した。
『キュウ……』
白雪は嫌悪感を露わにし、自慢の純白の尻尾で鼻先を覆っている。
そして、前足で空中の何かを払うような仕草を見せた。
まるで、見えない蜘蛛の巣を避けるかのように。
「やれやれ。こりゃあ、予想通りというか……」
「掃除? 叔父さん、ここ病院だよ? 綺麗に決まって……」
リナの言葉は、剣崎がドアを開けた瞬間に途切れた。
「美咲……」
剣崎が悲痛な声を漏らし、ベッドへと歩み寄る。
広々とした個室の中央。
無数のチューブとモニターに繋がれ、一人の少女が眠っていた。
年齢はリナと同じくらいだろうか。色素の薄い髪が枕に広がり、肌は透けるように白い。
規則正しい心電図の音が、彼女が生きていることを辛うじて証明している。
剣崎の目には、そう映っていた。
原因不明の衰弱で眠り続ける、可憐で哀れな妹の姿が。
――だが。
「ひっ……!?」
リナは喉の奥で悲鳴を上げ、後ずさりした。
背中が壁にぶつかる。
「な、なにこれ……」
リナの視界は、剣崎のものとは決定的に異なっていた。
白いシーツ?
綺麗な肌?
違う。
少女の体は、真っ黒だった。
まるで墨汁をぶちまけたような、あるいは腐った植物の根がびっしりと張り巡らされたような、どす黒い「痣」が、彼女の全身を覆い尽くしている。
その黒い模様は、呼吸に合わせてドクンドクンと脈打ち、少女の肌の下を這いずり回っているように見えた。
「うそ……剣崎さん、これが見えないの!?」
「え?」
リナの震える声に、剣崎が振り返った。
「こんなに……こんなに真っ黒になってるのに! 全身、変な模様だらけだよ!?」
「な……何を言っているんだ?」
剣崎は目を剥き、妹の腕を掴んだ。
まくり上げた袖の下にあるのは、白く細い腕だけだ。
痣など一つもない。
「俺には何も見えない! ただ眠っているだけだ! 二人には……お前たちには、何か見えているのか!?」
剣崎がリナに詰め寄る。
その鬼気迫る形相に、リナは恐怖で固まった。
(なんで? こんなにハッキリ見えてるのに。あの黒いの、見てるだけで目が痛くなるくらいなのに……!)
リナは助けを求めるように湊を見上げた。
「叔父さん……これ……」
湊は眼鏡の奥の瞳を細め、冷静に――しかし、どこか険しい表情で少女を見下ろしていた。
「叔父さんにも、見えてるよね?」
「ああ。こりゃひどいな」
湊は短く吐き捨て、少女の額に手をかざした。
その手には触れず、数センチ上で止める。
「現代魔術の『魔力感知』じゃ見えないさ。魔術でも魔法でもないからな」
「そうじゃないなら、何なんだ……!」
「『呪い』だよ。それも極上のな」
湊は指先を動かし、空中の黒いモヤを弾いた。
「お前ら探索者が使う魔術は、外気にある魔力を集めて放つ物理現象だ。だが、こいつは違う。魂そのものに寄生して、内側から生命力ともいえる霊力を吸い上げるシステムだ」
湊は少女の胸元を指差した。
リナの目には、そこに黒い根の「中心核」のような塊が見えた。
そこから血管のように黒い線が全身に広がっている。
「植物の根と同じだ。深く、複雑に絡みついて、宿主と一体化してる。無理に引き剥がせば、宿主の魂ごと崩壊する。だから回復魔法もポーションも効かない。逆に『治療』しようとすればするほど、餌を与えているようなもんだ」
「なっ……」
剣崎が絶句した。
今まで自分が必死に買い集めた最高級ポージョンや、高名な治癒術師への依頼。
それら全てが、妹を苦しめる呪いの「肥料」になっていたというのか。
「そんな……俺は……俺は美咲を……!」
膝から崩れ落ちそうになる剣崎。
その肩を、湊は軽く叩いた。
「絶望するな。手遅れじゃないと言ったろ」
「!」
「絡みついてるなら、解けばいい。食われてるなら、食い返せばいい。単純な理屈だ」
湊の声は平坦だったが、そこには確固たる自信があった。
リナはその横顔を見て、ドキリとした。
いつもの「めんどくさい」オーラを纏った叔父ではない。
この表情は――仕事をする時の「プロ」の顔だ。
「な、なんとかなるのか!?」
「ああ。だが――」
湊は周囲を見回した。
真っ白な壁、高価な医療機器、窓の外に広がる東京の夜景。
「ここでは無理だ。狭すぎる」
「どういうことだ? 設備なら最高級のものが揃っているぞ」
「物理的な広さが足りん。これからこの娘の体から『ナニカ』を引きずり出すんだ。そいつが大人しく消えてくれるとは限らない」
湊はニヤリと笑ったが、その目は笑っていなかった。
「抜いた瞬間に暴れ出したらどうする? この病棟ごと吹き飛ぶぞ。お前、賠償金払えるか?」
「ひっ……!」
リナが声を上げた。
「えっ、なんか出てくるの!? あの黒いのが!?」
「実体化するだろうな。下手なモンスターよりタチが悪いかもしれん」
「そ、そんな……」
湊は剣崎に向き直り、事務的に告げた。
「場所を変えるぞ。誰にも邪魔されず、俺が本気で結界を張っても問題ない広さがある場所。……心当たりはあるか?」
剣崎は一瞬の迷いの後、強く頷いた。
「ある。俺が所属するクランの地下訓練場だ。あそこなら対Sランクモンスター用の防壁がある。誰も入れさせない」
「上等だ。今すぐ移送の手配をしろ。……リナ」
「は、はい!」
「お前も手伝え。その目はもう『視えて』るんだ。いい経験になる」
湊の言葉に、リナはごくりと唾を飲み込んだ。
掃除だと思っていた修行。
それが、この異様な光景を見ることにつながるなんて。
震える手で拳を握りしめる。
怖い。
あの黒い痣は、見ているだけで吐き気がする。
けれど――。
ベッドで眠る少女は、リナと同じ年頃だ。
理不尽な力に命を削られている彼女を、見捨てることなんてできない。
「……わかった!」
リナの瞳に、強い光が宿った。
それを見て、湊は満足げに、しかし少しだけ複雑そうに鼻を鳴らした。
(あーあ、やっぱり血筋には抗えないか。これで完全に、こっち側の世界に片足突っ込んじまったか)
動き出した運命の歯車は、もう止まらない。
千年前の陰陽術と、現代最強の武力。
そして覚醒し始めた少女。
奇妙なトリオによる、ひとりの少女を救うための解呪が始まろうとしていた。
お、おかしい!
カクヨムだと1日で400人以上のフォロワー伸びてるのにこっちじゃ全然だ。
(投稿から5日でジャンル別日間総合5位)
なろうもまだまだやれるぜってとこを見せてくれよ!
ということで作品のフォローと評価、お願いします!




