第21章 : 肉体と記憶の狭間で
通路にハストゥルとエファの足音が響き渡り、スピーカーから垂れ流される騒がしい音楽の重低音と混ざり合う。非常口のパネルに表示された赤いカウントダウンが、容赦なく点滅していた。ガス排出まで、あと1時間37分。
「見つけたぞ!」ハストゥルが声を上げた。
リリスの体の一部が小さく引き千切られ、イヤホンのように彼の肩に止まっている。彼はこの破片を通じて通信を行っていた。
「サクライの位置を特定した。だが、バンの方は……無理だ。あいつのエリアは完全に北極圏と化してる。リリスの羽が寒さで凍りついて、近づくことすらできない」
息を切らしたエファが、額の汗を拭った。
「最高ね。これでチームの半分は見つかったわけか」
ハストゥルはその皮肉を無視し、意識を集中させた。彼のオッドアイ――片方は深い錆黄色、もう片方は鮮やかな翡翠色――が虚空を凝視する。肩の上でリリスの破片の羽が震え、通路を通じてアラタへとその声を届けた。
「サクライ、聞こえるか?」
「ハストゥル?! お前なのか?! いつからテレパシーなんて使えるようになったんだ?!」
「違うわ、バカ。リリスを通して話してるんだ。後ろを見てみろ、すぐに分かる……」
通信の向こう側で、アラタが勢いよく振り返ると、自分の肩の近くを半透明の虫が飛び回っているのが見えた。疲労の極限にありながらも、彼は笑みを浮かべた。
「すげえ、最高じゃん!」
ハストゥルはニヤリと笑った。
「ヘヘヘ……だろ?」
「待て、ハストゥル……」アラタが息を切らせながら言葉を継いだ。「迷子のガキを連れてるんだ。どうすりゃいい?」
ハストゥルは眉をひそめた。もう文句を言っている時間はない。使い魔からの感覚フィードバックに神経を研ぎ澄ます。
「おそらく地上から事故で落ちてきたんだろう……」
アラタが食い下がる。
「だったら、安全な列車まで連れていくしかないな」
「分かった。そのまま直進して、3つ目の角を左に曲がれ。そこで俺たちのルートと交差する」
ハストゥルの肩にいるリリスの破片が激しく振動した。アラタの側に残っていた本体のトンボが、自身のエネルギーを分裂させる。もう一匹の半透明のシルエットがそこから剥がれ落ち、少年を誘導するために暗闇の奥へと飛び去っていった。
だが、ハストゥルが次の言葉を口にする前に、通路の空気が激しく震えた。
「ハストゥル、危ない!」エファが悲鳴を上げる。
暗闇から影が飛び出してきた。重苦しい拳が、ハストゥルの顎に叩きつけられる。凄まじい衝撃に、金髪の少年は数メートルも吹き飛ばされ、金色のエネルギーの火花を散らしながら湿った地面に叩きつけられた。彼の口の端から一筋の血が流れ落ちる。
「そんな!」エファはパニックに陥り、その暴行の凄惨さに怯えて一歩後退した。
襲撃者は明滅するネオンの光の下へと進み出た。少女の存在など完全に無視し、獲物だけに狙いを定めている。男の両肩は剥き出しで、胸元には古い傷跡が刻まれており、血走った眼は狂信的な執着を持ってハストゥルを凝視していた。
ハストゥルは袖で血を拭いながら、ゆっくりと立ち上がった。錆黄色と翡翠色の瞳から、いつもの皮肉めいた光は完全に消え失せていた。彼はエファが安全な圏内にいることを素早く確認すると、見知らぬ男と対峙した。
男は再び突進してきた。コンクリートの床がその踏み込みの風圧で揺れる。彼は圧倒的な破壊力を乗せて左腕を振り抜いた。ハストゥルはそれを予期し、反射的に後ろへ跳んで回避した――だが、襲撃者の勢いはあまりにも猛烈だった。狂気的なまでの突進力に引きずられ、男の左腕は地下の天井を支える鉄製の太い支柱に正面から激突した。
凄まじい音が響いた。肉と骨が砕ける生々しい音が通路に木霊し、金属の柱が衝撃で振動する。
それなのに、男は悲鳴一つ上げなかった。完全にへし折れ、役に立たなくなった左腕が不気味な角度でだらりと垂れ下がっている。しかし、その表情には一切の苦悶もない。まるで自分の肉体が自分のものではないかのように、ゆっくりと標的の方へ向き直った。
「それだけの怪我をしてまだ動くのか? 完全にイカれてるな」
ハストゥルは唸るように呟き、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
敵は咆哮を上げ、再び突進してきた。残された健全な右腕を振りかざし、鋭い風切り音を立てて空気を切り裂く。ハストゥルはサイドステップで辛うじて避けたが、凄まじい風圧だけで頬が薄く切り裂かれた。
その瞬間、ハストゥルのオッドアイに金色の光輪が微かに明滅した。――『記録』が起動したのだ。彼の脳内はすでに、敵の速度、威力、そして不規則な動きの連動性を分析し始めていた。
男はさらに攻撃を仕掛けてくる。骨折した左腕の遠心力さえも利用しようとし、その執念は痛みを遥かに超越して軌道を歪ませる。ハストゥルは何とか防戦一方になりながらも、手首が砕けそうなほどの荒々しい衝撃に押されて後退していく。ハストゥルの劣勢を見たエファは、気を引こうと必死で地面の金属片を拾おうとした。しかし、執行者は彼女を一瞥するや否や、残った右腕の裏拳一閃で、容赦なく彼女を壁際へと吹き飛ばした。彼女は地面に崩れ落ち、息を詰まらせる。
「エファ!」ハストゥルの声に焦燥が混じる。
次の瞬間、彼の両目は元の色彩から、完全なエメラルドグリーンへと染まった。ハストゥルの構えがガラリと変わり、敵のそれと完全に重なり合う。だが、その洗練度と滑らかさは桁違いだった。彼は次の攻撃の軌道を受け流し、鋭い払いで力を逸らすと、外科手術のような正確さで男の脇腹を殴りつけた。衝撃波が背後の壁の金属を歪ませる。
男は血を吐きながら後退したが、その唇は狂気的な笑みに歪んでいた。再び前方に身を投げ出してくる。そこには論理的な隙など存在せず、ただ圧倒的な質量を持った、荒々しく狂暴な乱打があるだけだった。
ハストゥルは極限まで集中を研ぎ澄まし、コピーしたスタイルの純粋な「本質」だけを模倣した。無駄な飾りはいらない。ただ純粋な、剥き出しの破壊力を拳の周りに収束させる。そのエネルギーの歪みが、通路の光を捻じ曲げた。
一撃が放たれた。鋭く、破壊的だった。
衝撃の凄まじさに石壁が粉砕され、敵の身体は正面から壁へと叩きつけられた。激しい土煙が舞い上がる。
通路にようやく静寂が戻ってきた。エファの荒い呼吸の音だけが、微かに響いている。ハストゥルは構えを解いたが、その顔は疲労困憊で青ざめていた。エメラルドグリーンの光が消え去り、元の錆黄色と翡翠色の瞳が戻る。彼はすぐにエファの元へ駆け寄り、力強い手を差し伸べて彼女を立ち上がらせた。
「大丈夫か? どこも折れてないな?」彼は真剣な面持ちで尋ねた。
「ただ……ちょっとクラクラするだけ」彼女は彼に寄りかかり、まだ少し震えながら顔をしかめた。「あなたは? 頭は大丈夫?」
「もっとマシな時もあったさ」痛むこめかみを押さえながら、彼は短く答えた。
瓦礫の中から、押し殺したような呻き声が聞こえた。血まみれになった男の身体が、岩の破片を掴みながら、まだ立ち上がろうと蠢いている。両腕はもう機能していない。それでも、その瞳には先ほどと同じ純粋な信仰の光が宿っていた。男は金髪の少年から頑なに視線を外そうとしなかったが、やがて限界を迎え、完全に意識を失ってその場に崩れ落ちた。
ハストゥルは沈黙したまま、長い間その男を見つめていた。いま彼がこの男の中に見たものは、技術などではなかった。彼の魔法の記憶では決してカタログ化できない、純粋な「意志」そのものだった。
背筋にゾクリと震えが走る。彼の瞳が最後に一度だけ明滅し、瞳孔の奥が微かに赤く染まった。捉えどころのないその本質を、今度こそ焼き付けるように。
「行くぞ。他の奴らが来る前にここを離れる」
ハストゥルは肩のリリスの破片を位置を直しながら言った。
「トドメは刺さないの?」エファが足を引きずりながら、彼の後ろを追う。
「ああ、もう戦えない状態だ」彼の瞳には、新たな光が宿っていた。「それに……あいつは、命をかけるに値するだけのものを、俺に残していってくれたからな」




