第2話 子供の合図
湾岸の歩道は、朝の霧に包まれていた。防災無線が「落ち着いてください」を機械的に繰り返す中、人々は窓辺や屋上から息を潜めて見つめていた。UI-01は静止したまま、表面の模様が微かに脈動する。まるで、待っているかのように。
その子供は、七歳くらいの少女だった。名前は後で知った——エマ。母親の手を振りほどき、好奇心だけで手を上げた。彼女の小さな掌は、球に向かって開かれ、まるで「おいで」と呼ぶような仕草だった。
UI-01の反応は、即座だった。表面の凹凸が滑らかに再配置され、模様が“顔”の形を明確に形成した。目のような窪み、口のような裂け目。そして、腕のように伸びる突起が、ゆっくりと湾に向かって延びる。光の粒子が散らばり、空気がわずかに歪む。少女の周囲だけ、風が止まった。
「動くな!」
センターのモニターで、僕らは声を上げた。衛星のズーム映像が、少女の足元を捉える。彼女は笑っていた。恐れを知らない、純粋な笑顔。UI-01の“腕”が、彼女の頭上数メートルで止まる。触れず、ただ浮かぶ。そこから、音ではない何かが発した——波動。言語を超えた“意思”が、少女の脳に直接響く。
エマは後でこう言った。「お腹すいた? って聞いたよ。そしたら、鏡みたいに私の顔が返ってきたの」。
世界は凍りついた。SNSが爆発的に沸騰し、学者たちは「テレパシー?」「量子干渉?」と仮説を乱発する。危機管理センターでは、緊急会議が召集された。各国首脳のホログラムが並び、AIがデータを解析する。
「接触を許可するか?」
「リスクが大きすぎる。子供を回収せよ」
だが、命令は遅かった。UI-01の“腕”が、少女の周囲に光の膜を張る。ドローンが近づくと、即座に吸い込まれ、消滅した。攻撃の兆候はない。ただ、守っているように見える。
僕は画面を凝視する。少女はUI-01に向かって手を振っている。球の表面が、彼女の動きを鏡のように反射する。模倣。学習。あるいは、挨拶。
「鏡喰……ミラーイーター」
誰かが呟いた。球が吸い込むのは、物質や情報だけじゃない。鏡のように、人類の行動を映し、返す。攻撃すれば攻撃を、沈黙すれば沈黙を。そして今、子供の無垢な好奇心に、好奇心を返している。
会議は混乱した。軍事派は「チャンスだ、弱点を突け」と主張し、科学者たちは「対話の始まりだ」と反論する。だが、誰も動けなかった。衛星の追跡データが示すように、UI-01は今、初めて“静止”を超えた行動を取っている。少女の前で、形を変え続ける。
夕暮れ時、エマの母親がようやく歩道に駆けつけた。彼女は叫びながら娘を抱き寄せようとしたが、光の膜が優しく押し返す。UI-01の“顔”が、母親の方を向く。模様が再び変わり、今度は母親の表情を映す——心配、愛情。
「家族……?」
AIの解析が、そう出力した。波動の周波数が、人間語に翻訳可能だった。UI-01は学んでいる。僕らの言葉を、概念を、感情を。
その夜、センターの空気が変わった。撃つな、から、話せ、へ。世界は初めて、未知知性体に“こんにちは”を準備し始めた。
だが、UI-01の模様が、最後に一瞬だけ歪んだ。警告か、喜びか。それとも、鏡に映る人類の影が、予想外に暗いものだったからか。
少女は手を下げず、ただ微笑む。球は応じるように、光を柔らかく放った。大地をガラスに変える光ではなく、優しい、朝日のような光を。