3.小さな冒険
数日後。朔也は、あるバイクショップの前に立っていた。店の名前は「TANDEM」。無骨な鉄板に、白い文字でそれだけ記された看板。外にも中にも、所狭しとバイクが並んでいた。
制服姿で立ち尽くしていると、店の奥からひとりの男が現れた。通夜の席で悠哉たちを率いていた、あの男。
「陽翔の弟だね。バイクを見に来たのかな?」
この前、悠哉を叱った時とは打って変わって、穏やかな声だった。胸元の名札には「稲岡」と書かれている。
ずんぐりとした体型に短い手足。朔也と同じくらいの身長なのに、豆タンクのような印象を受ける。
(この体で本当にバイクに乗れるのだろうか)
そんな失礼な疑問が頭をよぎった瞬間、稲岡はニヤリと笑って言った。
「こっち来な。見せたいもんがある」
朔也の手を引き、店の奥へ案内する。そこには色あせた写真が飾られていた。リーゼントに革ジャン、そして細身の青年が、バイクの前でピースサインをしている。
「これ、若い頃の俺。昔はブイブイ言わせてたんだぜ」
自慢げに胸を張る姿に、思わず朔也は噴き出してしまった。
やがてコーヒーを差し出され、朔也は勧められるがまま椅子に腰を下ろす。稲岡はそこら辺に置いてあった脚立にどっかりと座り、懐かしそうに語り出した。
「陽翔は、この店によく来てくれたんだよ。新しいバイクが入荷するたびに、目を輝かせてさ」
その話だけで、陽翔の姿がありありと目に浮かぶ気がした。
「バイク、興味ないか?」
朔也は曖昧に笑う。稲岡も察したように、目を伏せて言った。
「そりゃ、そうだよな……あんな死に方をされたら、な」
一瞬、重たい空気が流れる。
──それでも、聞かなくては。
「……陽翔と悠哉さんって、どんな関係だったんですか?」
稲岡の顔に、ためらいが浮かぶ。だが、すぐに朔也をまっすぐ見つめた。
「……聞く覚悟はあるかい?」
こくりと頷く。稲岡は深く息をついて話し出した。
「いつも一緒だった。兄弟みたいにさ。でもな……途中から俺は気づいてたんだ。悠哉が、陽翔のことを“好き”だって」
“あれはlikeじゃなくてloveだった”──稲岡の口からそんな言葉が出たとき、朔也の胸の奥がチクリと痛んだ。けれども、不思議と嫌な感じはしなかった。
「……彼女みたいに扱ってたな。だから俺、止めたんだよ、何度も。“陽翔の気持ちを考えてやれ”って。でも、結局……言っちまった」
その結果が、あの事故……。朔也は、SNSと重ね合わせながら、思わず膝の上に置いた拳を握りしめていた。
「……でもな、朔也くん。今となっては、何が原因だったかなんて誰にも分からないんだよ」
稲岡の声が、そっと朔也の不安を溶かしてくれる。
「僕……悠哉さんに、会いに行きたいんです。でも……きっかけが見つからなくて」
その気になれば、連絡手段はいくらでもある。けれども、あの別れ方のままじゃ、どうしても踏み出せなかった。
そんな朔也に、稲岡がそっと小さな段ボール箱を差し出す。
「こいつ、悠哉に頼まれてたバイクパーツなんだ。届けてくれると、きっと喜ぶぜ」
ずっしりとした箱の重み。それがまるで、朔也に手渡された“選択”のように思えた。
「……その先、どうするかは君次第だ。流されちゃダメだぞ」
その言葉と、そっと肩に置かれた手の重みに、朔也は静かに頷いた。
*
悠哉が住むアパートは、TANDEMの近くにあった。部屋の前に立ち、朔也は深呼吸する。この時間なら、まだいるはずだと稲岡は言っていた。
ドアホンを鳴らすと、すぐに足音が聞こえてドアが開いた。朔也を見て、悠哉は驚きを露わにする。
「あの……TANDEMの店長から頼まれて、パーツを届けに来ました」
「そんな、わざわざ申し訳ないな。でも……嬉しいよ」
部屋の中から濃厚な男の匂いが漂ってくる。朔也は眩暈を感じた。
「寄っていくかい?」
悠哉が差し出す手を取った途端、朔也は半ば引っ張られるように部屋の中へ入れられた。
一人暮らしのワンルーム。陽翔の部屋と同様にバイクのポスターが貼られ、壁際にはヘルメットやグローブ、ライダースジャケットが無造作にかけられている。バイク以外には興味が無いのだろう。他に趣味の道具らしきものは見当たらなかった。
悠哉に促されて、二人は並んでベッドに腰かける。どういうわけか朔也は鼓動が早くなるのを感じた。ふとベッド脇の棚に目を向けると、悠哉と陽翔の写真が飾られている。どこかの峠で撮ったのだろう。二人ともレンズに向けて笑顔を見せていた。
「陽翔って、彼女いたのかな……」
不意の問いかけに朔也は記憶を巡らせる。中学の時は気になる女の子がいると打ち明けられたこともあったが、高校に入学してからはバイク一筋だった。ただ、バイクの後ろに乗せるなら女の子が方が良いと言いそうではあったが。
そう伝えると、悠哉は寂しそうに笑う。もう少し言葉を選んだ方が良かったかもしれないと、朔也は反省した。
ふと、悠哉が視線を写真に向ける。
「……一般論としてなんだけどさ」
唐突に口を開いた悠哉の声は、これまでになく慎重だった。
「男が男を好きになるって、どう思う?」
朔也は一瞬、言葉に詰まった。目の前の男が、どのような意図でこの問いを発したのか、薄々分かっていたからだ。それでも、正解のようなものは見つからず、胸の奥がざわめく。
「正直、よく分かりません。でも……誰を好きになるかって、その人の自由だと思います」
照れ隠しのように、少し笑ってみせる。
「こんな答えじゃ、ダメですか?」
悠哉は驚いたように目を丸くし、それから安心したように微笑んだ。
「いや……それで十分だよ。ありがとう」
そして、わずかに肩の力を抜いて、冗談めかすように聞いてきた。
「じゃあ、朔也くんは? 誰かを好きになったこと、あるかい?」
そう問いかけられて、朔也は言葉を失った。頭の中で過去の記憶が走馬灯のように巡る。けれども、誰かの顔が鮮明に浮かぶことはなかった。
「……無い、と思います。僕、これまで勉強ばかりで……“好き”って、どういうことなのか、ちゃんと考えたこともなくて」
その答えで合っているのか自信はなかったが、正直な気持ちだった。悠哉は少し笑って、そっと視線を落とした。
「そっか。……でも、それって悪いことじゃないと思うよ。焦らなくても、気づく時はちゃんと来るから」
その“気づく時”が、もしかしたら、今この瞬間のどこかにあるのかもしれない。朔也はそう思いながら、胸の奥に生まれた小さなときめきに気づかぬふりをした。
「……もし良かったら、今度の日曜日に一緒にツーリングしないか?」
悠哉の誘いに、朔也は応えるべきか迷った。
「バイクに乗れば、きっと陽翔の気持ちも分かると思うんだ」
悠哉の眼差しは、あくまでもまっすぐである。そこによこしまな気持ちは微塵も感じられなかった。朔也はゆっくりと頷く。
「それじゃ、今からコースを考えておくよ。どこか行きたいところはあるかい?」
朔也の脳裏には海が浮かんでいた。潮風を感じながら走ると気持ち良いだろう。
「僕は海に行きたいです」
「じゃあ、海で決まりだな」
悠哉は嬉しそうに右手を差し出す。朔也が触れると強く握られた。
「もし都合が悪かったら遠慮なく言ってくれよ。俺から誘ったんだから」
「大丈夫ですよ。絶対に行きますから」
悠哉は安心して手を離した。行き場の無い右手が朔也は寂しく感じられる。
それからは悠哉がアルバイトに出かけるまで他愛のない話をした。年上の悠哉が繰り出す話は、どれも興味深くてつい聞き入ってしまう。家に帰る頃にはすっかり日が暮れ始めていた。
「今日はありがとう。会えて良かったよ」
「日曜日、楽しみにしてますね」
二人はもう一度握手を交わす。一瞬、悠哉がほどくタイミングが遅れたのを、朔也は気がついていた。自由になった右手を左手で包みながら帰り道を急ぐ。
これがもしかしたら“好き”という感情なのかもしれない。朔也は、はじめてその言葉の重さと温度を右手に感じていた。