2.兄を〇した人
朔也は陽翔の部屋にいた。亡くなってから、すべてのものがあの日のまま手つかずで置いてある。部屋に入るたびに、オイルと陽翔が愛用していた整髪料の匂いがして、まだ誰かがここで暮らしているかのようだった。
中学までは何度かこの部屋に入ったことがある。けれども、高校が別々になってからは一度も入ったことが無かった。三年の間に、ずいぶん様変わりしたと朔也は思う。
壁に貼られたバイクのポスター、棚に並んだバイクの雑誌やパーツのカタログ、無造作に置かれたヘルメットやグローブ、ハンガーにかけられたライダースジャケット。
朔也はおぼろげながら、陽翔がどんな人間だったのか分かるような気がしていた。それでも、まだ分からないことの方が圧倒的に多いのだけれど。
朔也の手元には陽翔のスマホがあった。ロックがかかっていて、中身を見ることはできない。もちろん、ロックを解除するためのパスコードも知らなかった。
陽翔を深く知ることができる唯一の手がかり。迂闊に違うパスコードを入力して、初期化せざるを得なくなるのは避けたい。どうしたものかと朔也がため息をついたその時だった。
バイクの排気音が近づいてきて、家の前で停まった。朔也は窓辺に駆け寄る。黒いヘルメットがゆっくりと外される。乱れたリーゼントと額に光る汗。あの夜、陽翔に縋って泣いた男だった。
朔也は慌てて、階段を下りる。その前に母親が玄関のドアを開け、男を見るなり
「帰ってください!」
と突き放しているのが聞こえた。男は戸惑った顔をして俯いている。思いがけず、朔也は自然に男の手を取った。男はハッとした顔で朔也を見る。
「朔也、どういうつもりなの!」
母親は声を荒げるが、朔也は無視して男を二階へ引っ張っていった。男は困惑しながらもついて来る。二人でやっと陽翔の部屋へ入ると、朔也は大きく息をついた。
「ごめんなさい。うちの母が怒鳴ってしまって……」
「怒鳴られて当然なんだ、俺……。それでも、ここまで引っ張ってくれたの、嬉しかった」
男は照れ臭そうに鼻を擦る。はにかんだ笑顔に朔也は少しだけ親近感を覚えた。
「こないだはごめんな。陽翔に双子の弟がいるなんて知らなかったんだ」
生きる世界が違うとはいえ、陽翔が自分のことを何も言わなかったのを、朔也は少し寂しく思った。
「よく間違えられるんです。慣れっこですよ」
そう笑って誤魔化す。
「えっと……名前は?」
「朔也。望月朔也って言います」
「俺は、外村悠哉って言うんだ。陽翔のバイク仲間、だった」
朔也は、通夜の席で男が“悠哉”と呼ばれていたことを思い出した。
「陽翔の部屋に入るの、初めてだな……」
悠哉は感慨深そうに呟く。朔也は、何から話そうか迷っていた。悠哉が口走った言葉の意味はもちろん、陽翔との想い出についても聞きたかった。
「兄は、どんな人だったのですか?」
結局、当たり障りのないことを聞いてしまう。
「そうだな……」
悠哉は遠い目をした。
「いい奴だったよ。いつも明るくて前向きで、俺よりずっと若いのに、何度も励まされたんだ。だから俺……」
そこで言葉が途切れる。どう続けるべきか考えているようだった。
「あいつのことが好きだった……。友だちとして、相棒として」
陽翔のことなのに、朔也は胸が温かくなるのを感じた。こんな大人の男性から信頼されていたなんて、よほどいい奴だったに違いない。
「もっと兄のこと、知りたいです」
朔也が頼むと、悠哉は陽翔の想い出を語ってくれた。一緒に何度もツーリングしたこと、海まで走って朝焼けを見たこと、峠道で野生動物と遭遇したこと……自分では経験し得ない想い出の数々を、朔也は羨ましく思った。
「二人で撮った写真もあるんだ。ほら」
悠哉は自分のスマホを朔也に見せる。そこに写っていたのは、自分が知っている陽翔とは違う眩しいばかりの笑顔。心の底から楽しんでいたのだろうと気づかされる。悠哉に心を許していたことも。いつしか朔也の目から涙が零れていた。
「ご、ごめん。泣かせるつもりは無かったんだ」
悠哉の手が朔也の肩に触れる。大きくて温かい手。
「僕の方こそ、ごめんなさい。兄が幸せだったと思ったら、つい……」
涙で濡れた瞳のまま朔也が悠哉を見ると、明らかに動揺していた。
「……本当に陽翔に似ているんだな」
そう言って気まずそうに肩から手を離す。そのまま会話が途切れてしまった。朔也は何か言葉を探そうとして、陽翔のスマホに目が留まる。
「兄のスマホ、パスコードが分からなくてロックを解除できないんです。ご存じですか?」
悠哉はじっとスマホを見つめていたが、やがて意を決したように
「悪く思わないでくれよ」
と言うと、指を動かしてロックを解除してしまった。バイクの待ち受け画面と、いくつかのアイコンが現れる。
「凄いですね。どうして分かったのですか?」
「……あいつがパスコードを入力するのを、こっそり覗いていたんだ」
悠哉は決まりが悪そうだったが、朔也は丁寧にお礼を言った。
「兄はSNSをやっていたんですね」
「そうなのか? 俺も知らなかったよ」
目立つ場所にそのアイコンはあった。朔也は興味本位でタップしてみる。特に陽翔が何を発信していたのか知りたくて「プロフィール」に移動した。
最後のポストは、事故に遭った日の夜だった。
「信頼していたバイク仲間(♂)に告白された。どうしよう」
と表示されている。いくつかついていたリプライの中には
「男から告白なんて、マジ無理」
と揶揄するものもあった。“これって……”と朔也が尋ねる前に悠哉が立ち上がる。
「もう帰らなきゃいけないんだ。突然やって来てごめんな」
そう言って、背中を向けて部屋を出てしまう。朔也は慌てて、その後を追った。
「また来てくださいね。きっと兄も喜びますから」
「ああ、ありがとう」
悠哉は朔也に笑顔を見せたが、どこか無理しているように見えた。朔也は心配になって外まで見送りに出た。ヘルメットを被る悠哉に声をかける。
「あの……気をつけて帰ってくださいね」
フルフェイスのヘルメットからは表情がうかがえない。ただ、悠哉は額のあたりに指を添えて、静かに敬礼の真似事をした。エンジンがかかり、低い排気音が空気を震わせる。その音が遠ざかる間も、朔也は目を逸らせなかった。悠哉が角を曲がるまでずっと。
*
悠哉が帰った後も、朔也は陽翔のスマホを手にしたまま、動けずにいた。画面には、まだSNSが表示されている。朔也は胸の奥がざわつくのを感じた。
さらにメッセージアプリを開く。何か手がかりが残されていると思ったから。
──「さっきはごめん。気まずくさせたなら謝る」
──「返事は急がなくていいから」
それは、悠哉からのものだった。
やはり、「告白した仲間」というのは悠哉なのだろう。それなら、通夜の席で“俺を許してくれ”と泣き崩れていたのも頷ける。ただ……
朔也は階段を下り、リビングへ向かった。ソファに座った瞬間、母親がまくし立てるように声をかけてきた。
「さっきの人、何しに来たの? まさか、また陽翔のことを……」
朔也は言葉を濁しながら応える。
「いや……少し話をしただけだよ」
「それより、スマホのことだけど、ロックはどう? 解除できたの?」
一瞬、答えを迷ったが、朔也は小さく首を横に振った。
「……まだ分からない」
短く、嘘をついた。
母親はがっかりしたように目を伏せた。
「……あの子の大切な想い出が詰まっているかもしれないのに……」
その言葉に、朔也は胸がちくりと痛んだ。けれども、本当のことは言えなかった。
それは陽翔のためというより、悠哉を庇いたかったのかもしれない。何故そう思ったのか、自分でもはっきりとは分からなかった。