アメリカンドッグと本
小説と回避性パーソナリティー障害と発達障害について。
安子さんがいつも本を借りるのは、大きな公園近くの図書館だった。民営で、働いているのは司書ではなくパートやバイトの店員。カフェも併設されている。
貸出手続きのカウンターに行くと、見慣れない若い男性店員がいた。他の店員は皆、落ち着いた店の雰囲気に合った、森ガール的な服装のおばさまが多かった。だから唯一若い、地味な服装のその男性店員は、逆に浮いていた。
「ご来店、いつもありがとうございます!」
安子さんは正直言ってぎょっとした。
「貸出お願いします」 ギリギリ相手に聞こえる声で返す。
「あ、またY先生の本ですね! 僕も好きなんです! どの本が一番お好きですか?」
近くにいた赤メガネ短髪パーマの森ガールおばさま店員がさっと割って入る。
「ほら広瀬さん、お客様に色々ご質問してないで、貸出手続きしてください」
「はーい。二週間後の、二月十五日までにご返却お願いします!」
安子さんの心臓は、まだどくどくとうるさかった。
《自分が好かれることが確実ではない限り人と関わりたがらない。 ✓》
別の日に、借りた本を公園の噴水広場のベンチで読んだ。
読んでいる本に、突然ひょろ長い影が射す。
「わっ!」 安子さんはベンチに座ったまま少し尻が飛び跳ねた。
「あ、驚かせてごめんなさい! 僕あそこの図書館の店員で、この前貸出処理をさせて頂いた者です」
男性店員は長い背中を財布の様に折りたたんで丁寧に自己紹介した。
「ちょうど今昼休憩で、ベンチが空いてなくて困っていたんです。良かったらこのパン食べ終わる間、隣座ってもよろしいですか?
(えーーーー)安子さんの感情をそのまま文字で表すとこんな感じ。だが昼時ということもあって確かに噴水を囲んで円状に二十はあるベンチ全てが埋まっていた。
「……はい」
「ありがとうございます! ここの広場、気持ちいいですよね!」
そう言うと男性店員は手に持った袋からパンと牛乳を取り出し食べ始めた。安子さんはまた手元の本に目を落とす。ただ隣の青年は予想通り話しかけてくる。
「あ、この前訊きそびれちゃったんですけどY先生の本でどれが一番お好きですか?」
思わずキッと男性店員の方を睨んだが、彼は純粋無垢に牛乳のストローをすすっている。
「……えーと、どれも好きですけど、強いて言うなら『三十代バイト日和』ですかね」
「うわ、僕もです! 三十代になったら正社員で結婚するのが当たり前とか、世間の常識と主人公の生き方の乖離に苦しみながら、結局アルバイトで生きて行くっていう決断をしたんやって思うと、何か主人公を愛せる感じがしますよね!」
機嫌が良いのか、男性店員は落ち着き無くベンチを立ったり座ったりして興奮しながら話している。
「それに僕も良い歳してご覧の通りあの図書館でバイトなんです、だから余計に主人公に共感しちゃって」
内容に合わない笑顔。これは会話を続けなければならないのだろうか。
「……そうですか。失礼ですが、お年は幾つなんですか?」
「今年で三十四です」
「えっ」 安子さんは再び心の声が漏れてしまった。
意外に自分の一つ下だった。彼の丸眼鏡と絶妙な頼りなさが何となくのび太を彷彿とさせて、それで若く見えるのかもしれない。
「あはは、やばいですよね〜三十四で、バイトですから。あの本はフィクションですけど、こっちはガチなんですから」
男性店員の顔は、自虐を言っている人間の顔には見えなかった。
「いえいえ、お若く見えるので少し驚いただけです。それにあの小説が好きな人なら、それで人をやばいとか、言わないですよ」
「ありがとうございます! そうなんですよね、あの本は既にベストセラーですけど、国民全員が読んで欲しいくらいです。失礼ですが、川崎安子さんで合ってましたか? はどんなお仕事されてるんですか? 平日休みなんですね」
「……あの、私の名前をどうして?」
「あ、ごめんなさい! よく来られるので、貸出カードでお名前覚えちゃいました。僕の好きなY先生の本をよく借りられていたのがとても印象的で、つい覚えちゃって」
先日のぎょっがまた汗とともに走る。が、それより気の重い質問に返さなければならない。
「……私は普通の会社員です。ちょっと今病気療養中なんで、お休みなんです」
「そうなんですね! 早く良くなると良いですね! あ、僕は広瀬と言います!」
予想に反した反応に安子さんは思わず顔を上げる。広瀬はパンを食べ終わり急に立ち上がった。安子さんはまたビクッとする。
「それでは、お休みの所失礼致しました! 好きな本の話出来てとても楽しかったです! あ、因みに『ノルウェイの森』の登場人物やと誰が一番好きです?」
「……突撃隊」
「やっぱり! 僕もです!」
そう言うと広瀬は店の方角へ走って行った。安子さんの手元の本は下の角、めくる部分だけ萎れていた。彼の背中で駆けていく突撃隊の映像が、ずっと安子さんの脳内にロングラン上映されていた。
イヤホンをしていたのだが、それを上回る大きい声がバックヤードのドアから聞こえた。
「広瀬くん、また催促先のお客様間違えたでしょ! とっくに返したのに借りた覚えの無い本を早く返却してくださいって電話が男性店員からあったって、さっきお客様からクレームがあったわよ!」
「申し訳ありません。貸出名簿を一行見間違えたみたいで……」
「前もそのミスあったじゃない! 正しくご利用頂いているお客様に失礼に当たるから、何度もチェックしてくださいって言いましたよね?」
「申し訳ありません。何度もチェックしたつもりだったんですが……」
「チェックしたら間違えないでしょ! やっと直ったと思ったら、昨日も遅刻してくるし……。もういい、やる気があるようだから色々他の仕事も許可しましたけど、しばらくはまた返却本の整理だけお願いします」
「え! せめて、貸出処理でカウンターに立つのは引き続きさせてください! 仲良く会話できるようになったお客様もいて、やりがい持ってやってるんです!」
「ああ、それもですけど、単純に本の貸出だけを望まれてるお客様もいるんです。この前だって『この先生のどの本が好きですか?』なんて話しかけてたでしょう? 正直あのお客様ご迷惑そうでしたよ。とにかく、今後しばらくは返却本の整理だけお願いします。くれぐれも、お母様のおかげでこの店にいられることを忘れないように」
急にバックヤードのドアが開いた。出てきたのはあの赤メガネ短髪パーマ店員だった。名札を盗み見るにどうやら店長らしい。
本を選びながらも、安子さんは後から出て来た広瀬を盗み見た。先ほど言われた通り、返却本の棚と思われるところから一冊ずつ元の棚に戻している。一冊ずつ、というのがさっきの会話を聞いてしまったせいか、何だか要領がひどく悪いように見える。彼に何か声をかけるべきだろうか。いや、でも、何を。
結局書棚から本を一冊取り彼に向けて無言で差し出した。それは失敗続きのOLが上司の魔法のような金言で自分の能力に気付いていく話だった。全速力で走る。
二週間後、その日も広瀬はせっせと返却本を片付けていた。絵本コーナーから三歳くらいの男児の高い声が響く。
「あ、お兄さん、前教えてもらった恐竜の本面白かった! 他に良いの無い?」
「え、あ、ゆうくん久し振り! えっとねー、最近寄贈されたので、良いのがあったよ! どこにあるかな〜? わっ! 」
ドサッッ!! ガチャンッッツツ
安子さんが振り返ると、そこには惨状があった。大量の本が床に落ち、その本の一部にコーヒーが滴って黒い池の様になっていた。スーツの男性はその汚れた池の住人の様だった。
「申し訳ございません!」
広瀬は慌ててタオルを持ってきて、スーツの男性を拭き始めた。他の森ガール店員が床を雑巾掛けしながら落ちた本を救出していく。短髪パーマ赤メガネ店長が慌てて駆け寄り、百八十度の角度で謝罪している。が、安子さんのいる後方から店長の細いジーパンの間を通して見えるその顔は、般若のお面の様だった。
スーツを汚された男性はあまりの広瀬と赤メガネ店長の謝罪ぶりに、「まあ、クリーニング代出してくれるなら」と言ってその話をつけた後はさっさと声を荒げること無く帰って行った。 案の定、赤メガネ店長の怒声が店内に響く。
「広瀬さん! もういい加減にしてよ! 返却本の整理だけしてりゃこうはならないのよ! 私がこのお子様の対応するから、あなたは汚れた本の片付けしてちょうだい!」
「うわーーーーーーーーーーーーーーん!」
店内の張り詰めた空気を引き裂く様に、さっきの男児の金切声が響く。
「ぼ、僕が、お兄さんに、急に声かけたからこうなったんや! それに、僕は、このお兄さんに本を選んで欲しい!」
母親が慌てて男児を抱きかかえる。それでも男児の泣き声は止まらない。
赤メガネ店長は呆然としていたが、やがて店全体の視線が自分のこの後の挙動に集まっていることに気づく。
「……じゃあ、広瀬さんはこのお客様の対応をしてください。私達で片付けますから」
不服を隠せない声で広瀬に指示した。広瀬は、明らかに気を取り直すため自分の顔をパン! と両手で叩き、「はい!」と答えて男児を絵本コーナーへ誘導していった。そこで男児の泣き声はやっと止んだ。
安子さんはいそいそと文芸コーナーに戻った。チラッと広瀬に目をやると、さっきあんな事が起きたとは思えない程に笑顔で男児に対応していた。安子さんは思った。ああいうのが社会人なのだ。と同時に悲しかった。勝手に少し近くに見えていた冴えない広瀬が、急に遠くにいる様に感じた。
《社会的能力に欠ける、魅力がない、または他人に劣っているという自己像をもっている。 ✓》
安子さんが貸出処理を終え、店を出ると、しばらくした所で背後から声をかけられた。
「あの! お見苦しいもの見せてすいません!」 そこには仁王立ちの広瀬がいた。
「もう少し声落としてもらえます?」
「ああ、すいません、つい。あの今暇ですか? この前の御礼で、何でも奢ります」
「まだ仕事中でしょ?」
「僕もうほんまは帰っていい時間過ぎてるんです。帰ろうとしたらちょうど川崎さん来られたんで、お声がけする為にちょっと待ってました」
「ぎょ……じゃなくて、奢っていただかなくても大丈夫ですけど」
「いえ! あの本、本当に良かったです! それに僕から誘ってるんですから!」
このままでは話が終わらない。
「……アメリカンドッグ。コンビニの」
「そんなんでいいんですか?」
「はい、私好きでいつもそれを食べたいんですけど、食べられないんです」
「なんでですか?」
「他の商品と違って、ホットスナックのコーナーの商品買う時って、店員さんに話しかけないといけないでしょう?『アメリカンドッグください』って。あれが苦手で。面倒って思われたらとか、うまく声が出なかったらどうしようって」
《社会的状況で批判されたり、拒絶されたりすることへのとらわれがある。✓》
安子さんと広瀬は近くのコンビニに向かい、ホットスナックコーナーにあったアメリカンドッグを広瀬が二本買い、二人で噴水広場のベンチに座りながら食べた。
久し振りに食べたアメリカンドッグはとても温かく、甘くておいしかった。
「僕、今日みたいにいつも失敗ばっかりなんです。びょうき、なんですって。それで就職先無いならって母がアルバイトにしてくれたんです。あ、母は実はあそこのオーナーをしてて」
「へえ。でも、人に話しかけるのは好きなんですか?」
「はい、それも同じびょうき、なんです。好奇心旺盛で、自分が興味を持ったら話しかけずにいられなくって。でも中には図書館なんだからもっと静かにしてほしいっていうお客様もいて、そういう声が店長に届いて、それで叱られちゃうんです。でもまた同じこと繰り返しちゃって。ああ、……引きますよね?」
「うーん……ミスは私もよくします。それに、そういうのはその人の一つの個性かもしれんけど、『核』では無いとおもうんですよね」
「『核』?」
「はい。なんかその人のいっちゃん大事な部分て言うんですかね。そういうのでは無いような気がするんです、障害とか、顔とかって。私も病気です。でもそれは自分の肩に少し乗ってるもの、ぐらいの感覚です。重たくて潰されそうな時もあるけど。だって人間はバラバラやのに、『臨機応変な対応は苦手』とか、診断基準は一つなんて、おかしいやないですか」
「じゃあ、人の核って例えば何ですか?」
「……どんな本が好きとか、そういうのですかね。その人らしさがよく出るでしょう」
「じゃあ僕と川崎さんの核は同じかもしれませんね! 同じY先生の本が好きなんやから」
「それはなんか、ちゃいます。理由はないけど」
「なんじゃそりゃ!」
広瀬の想像以上に甲高い声に、思わず安子さんは吹き出してしまった。広瀬もそれにつられて笑い、冬が完全に終わり切る時の乾いた空気を震わす。
自分から言葉が口をつくのはもう数年ぶりだった。何故かは自分でも分からなかった。
「『三十代バイト日和』を国民全員が読めばいいって、前広瀬さん言うてたやないですか? 私も、世の中がああであればええなとほんまに思います。でも、あの本をほんまに全員読んでも、残念ながらそんな世の中にはならんと思います」
「え? なんでですか?」
「どれだけの名作でも、誰かにとっては駄作なんです。ラーメンとかカレーを嫌いな人がおるのと同じ。やからあの本を読んで共感できるレベルってのは、その人の性格とか育ってきた環境とかに寄るんやと思います。当たり前に二十代や三十代で結婚して会社員をずっと続けてる人と、うちらで感じ方がちゃうのは当たり前やと思うんですよね。やから、それがその人の核かなって」
「……なるほど」
さっき広瀬にふざけて否定したことの訂正をしたつもりだった。でもそれがちゃんと広瀬に伝わっているかは怪しい。でもそれで別に良かった。
また例の図書館で貸出処理を終えると、店内にいなかった広瀬はアメリカンドッグを両手に持って電柱の陰で安子さんを待っていた。これでは奇妙なアメリカンストーカーだ。
広瀬は、話すことを事前に決めていたようで唐突に話し始めた。
「安子さん前に自分の仕事、社会の役に立ってないっておっしゃってましたけど、どういう仕事やったら社会の役に立ってると思います? 僕あのあと色々考えちゃって」
「うーん、そうですね……例えば、広瀬さんは、本って何のためにあると思います?」
「え? うーん、なんか、自分にはできない体験をできたり、冒険に行けたり、感動したり、楽しむためにあると思います」
「そうですね。それと私、『救出』のためかなって思います」
「救出?」
「はい。人生で『こんな気持ちになるのは自分だけちゃうか?』って思うことってないですか? こんな些細なことを他人に言われて傷つくなんて自分だけちゃうかとかって。そういうのって中々他の人に話しづらいですけど、本には正直にありのまま登場人物の気持ちが描かれていて、自分と同じような気持ちになっている人もいるんやって。そこで登場人物とか作者と深い所で繋がれて、救われる気がするんです。で、何が言いたいかというと、やから本屋さんとか図書館とかは社会の役に立ってると思いますよ」
「……ありがとうございます」 いつもの噴水広場に辿り着く。
「じゃあ『まさに私これや!』って救われた本はありますか?」
「うーん、この前の『三十代バイト日和』は結構近かったけど、まさにドンピシャな本は無いですよね。どの本も一部のセリフとかに共感して、それを必死に自分の中でかき集めて大事にしてる感じです。だって人生は人によって全く別ですからね」
「じゃあ、安子さん自身が小説書けばいいのに」
「……え? 私が?」
「はい、それを読んでもらえて、共感してもらえたら、安子さんにとってすごく良いことやないですか?」
「そりゃそうかもですけど、そんな簡単に小説なんか書けるもんちゃいますよ」
「そんなんより安子さんが共感したいのは感情面ですよね。ああ、安子さんが書く小説読んでみたいなぁ」
「……それにあの、そうそう、うちパソコン無いんです。あったんですけど、昼ご飯の時に蕎麦つゆこぼしてもうて、最近壊れたんです」
「蕎麦つゆって、安子さんもそんなミスするんですね」
「はい、前言うた通り、ミスはしょっちゅうですよ」
「でも大丈夫です! 僕、古いのですけど持ってます。母が最新のを最近買って、母のお古が僕にまわってきて、と言ってもまだ新しいんですけど。初期化して再設定するんで、貰ってくれたら嬉しいんですけど」
「ええ、ほんまですか?」
正直パソコンをもらえることは、かなり逃し難い機会だった。修理は古すぎて部品が無いとメーカに言われたし、何より電器店の明るくて会話必須の雰囲気が安子さんは苦手だ。
「正直、パソコンは欲しいです」
「ええ、ぜひどうぞ! その代わり、小説書いてくださいね!」
「ええ? それが交換条件ですか?」
「勿論!」
こうして、どうしてもパソコンが欲しい女とどうしてもその女の小説を読みたい男との取引が終わった。 広瀬がまたもや距離を詰めていたことに安子さんが気づいたのは、その日風呂に入った時だった。
なんでこんな事に。でも、答えは一つしか無かった。「私小説」。安子さんには既に材料があった。通っている心理カウンセラーが安子さんに、「自分の過去の大きな出来事について、その時感じたことと合わせて出来るだけ忠実に書くように」と言ったのだ。それがカウンセリングの材料になる。そして、その行動一つ一つをあげつらって、あのチェック表にあなたはこんなに当てはまる、と笑顔で彼女は言うのだった。
『この障害の診断を下すには、患者は以下の四つ以上に示されるように、持続的に社会的接触を回避し、自分に能力が欠けていると感じており、批判や拒絶に過敏である必要があります』
あれから、安子さんの頭には何度もボールペンが紙と擦れチェックの入る音が、その項目の内容とともに日常で幾度となく流れた。
安子さんは気付いたらベッドから出て座椅子に座り、パソコンのキーボードを叩いていた。自分の虚しさを、怠惰を、不安を、キーボードの音で消し去るように。ただ書き連ねた。
いよいよ広瀬に見せるかと思ったが、何だかこれは裸を見られる以上に恥ずかしいことなんじゃないかということに安子さんは気がついた。私小説は自分の狡猾さも薄情さも醜さも奇妙さも怠惰も、つまり本当に隠したい、今まで必死に隠してきた全部をさらけ出すことと一緒だった。
《恥をかく可能性があるために、リスクをとったり、新しい活動に参加したりしたがらない。 ✓》
約束の時間から十五分遅れで、広瀬は紙の束を手に持って桜の木の中を走ってきた。
「小説、良かったです!」
「お世辞は大丈夫です。お渡しした時お伝えした通り、暗かったでしょう」
「いえ、『救出のために本がある』って安子さんの言葉、ほんまにその通りやなって思いました!」
「ふうん、どの辺りが?」
「ええと、結婚しないのって訊かれるのもすごく嫌やったし、会社員の友達とバイトの自分は環境違いすぎて自分から会うのやめちゃったし。とにかく自分から感情が無くなれば良いと思っていました。ほとんどずっと、死にたいと思って生きてきました」
広瀬は時々詰まりながら、話す間顔中汗まみれになり、落ち着きなく手足をバタバタさせていた。安子さんはその様子をただただ見つめた。
「とにかく安子さんが言ってたように、こんなこと考えてたん自分だけちゃうんやって思ったんです! ああ、良かった! 生きてて良かったです!」
広瀬を、安子さんはまだ見つめていた。
「ええ、どうしたんですか! 僕ひどいこと言いました? 良かったって伝えたかっただけやったんですけど……」
安子さんは頬の涙を手でさっと拭った。小説を読まれたことより、今の瞬間が一番恥ずかしかった。
「失礼かもしれないけど……周りで死にたい、て誰かが言ってくれれば、私生きられる様な気がするんです。死にたいのは私だけじゃないんやって思えれば、何とか生きていけそうな気がするんです。変な事言ってごめんなさい」
安子さんの涙はもう大粒になり、周囲の桜色が映る。
「そんな変ってこと無いです! 少なくとも僕は分かります! あ、僕も変なヤツって可能性ありますけど、でも安子さんだけが変なヤツってことは絶対無いです!」
安子さんは思わず泣きながら吹き出す。
「広瀬さんって面白いですね。私人が怖くて仕方ないんですけど、広瀬さんにはそういうの、思わないんですよね」
「あの」 ひょろ長い広瀬は屈んで上目遣いで安子さんの顔を覗き込んだ。
「一緒に図書館やりましょう!」
「え?」
「一緒に、図書館です!」 広瀬はまた大袈裟に立ち上がる。
「いや、やから、それを訊いてるんです」
「僕、今の店いつかは自分のものにしたいって思ってるんです。母に相談したら、今は無理やけど任せられるぐらいあなたが成長したら、考えんことも無いって。僕やっぱ、今のままじゃ嫌なんですよね、お客さんと自由に会話できる図書館にしたいんです」
彼の身振り手振りは今最高潮に激しい。
「それは立派なことやと思いますけど……」
「そこに、安子さんの本も置きましょ! ほんで一緒に店やりましょ! 作家と直接会話できる図書館やなんて最高やないですか!」
「……作家は難しいけど……、カフェにアメリカンドッグ出せます?」
「勿論!」
広瀬は一人で長々と将来の夢について語り始めた。作家と話せるカフェ付き図書館。その月のイチオシの本を決め、その作家とお客様が直接話せる場を作ってもっと本を皆好きになってほしい。「本と人の対話」がコンセプト。そして読者の間で「共感の輪」を作りたい。
安子さんはこのとき初めて気づいた。本当はもうずっと前から、誰かと共感し合いたかったことを。そして会話下手な自分には、文章という手段しかそれを満たす手段は無いのかもしれないということを。
安子さんは思う。自分が作家になるなんて絶対無理だ。それに広瀬と一緒に、しかも対話がコンセプトの図書館をやるなんて現実的な話だろうか。
でも、一つの基準や障害で、自分の将来は決まらない。
一斉に公園の鳩が青空に向かって飛んだ。それに伴って桜の花びらが風に舞って散っていく。春の風の暖かさをやっと肌に感じた。
《参考》 回避性パーソナリティー障害 MSDマニュアル