だから僕は、君が何と言おうとオプティミストにはならない。
君のことを思い出すのは、明かりを消して横になっているときとか、眠りに落ちる前とか、夢の中とか、暴飲暴食の報いの腹痛に喘いでいるときとか、風呂上がりに立ちくらみがしたときとか、要するに朦朧としたときだ。
無意識に近づくほど君が出てくるということは、集合的無意識とか絶対無みたいなものが本当にあるのじゃないかと、少し温かな気持ちになる。
だとしたら、少しは救いがありうるのじゃないかと。
君が死んだのは、高校2年の夏だった。
大学受験に向けた勉強の日々の最中、何の前兆もなく君は逝った。
その事をどれだけ不憫に思ったか。「大学に入ったら楽しいことや面白い事がたくさんあるから今は頑張れ」。そう言って僕らに発破をかけた教師。その言葉をどれくらい鵜呑みにしたかは分からないけれども、君は君なりに将来への期待を膨らませながら、最後の日々をそれとは知らずに送ったのだろう。
どうせ死ぬなら、君が大好きだったラノベやアニメを、君を慕っていた女との時間を我慢して勉強したのは何のためだったのか。努力が報われるとは限らないにせよ、あまりにも報われないじゃないか。
あの女は君の式で泣いていたぞ。
僕の拙く酸っぱい恋愛の終わりに、君はチャンスを作ってくれた。僕と僕が慕っていた相手が放課後の教室で二人きりになれるよう、巧妙に他のクラスメイトを追い出して。それに、いつでも君は、僕の相談と題した迷走に飽きもせず付き合ってくれた。
僕は、君に返せない莫大な恩義がある。
どうして君のような優しくて、豪胆で、忍耐強くて、面白い奴の人生は高2の夏までで、僕のような人間が、君が生きなかったその先でのうのうと生を享受しているのか。この問いは、ナンセンスであると分かっている。
でも、君を思い出すたびにそう思う。
変な話、君が死んだ後、僕は君が生きていた頃に増して君と仲良くなった気がする。
辛いときにはいつも君がそばに居た。全部投げ出して死ねば、君が待っているかもなんて冗談で、君が体験した苦痛に比べたらというロジックで、今日まで何とか生きて来られた。これからもきっとそうだろう。
君の名前を呼んで呼びかけるだけで、君と話すことができた。
一体、生きているがここに居ない友人と、生きていないがここに居る友人。どちらが、より実在的だろう。
あるいは、明日会う友達にこういうことを話したいと考えることと、君に今日あったことを話すのと何の違いがあるのだろう。
この空間に存在しない生命と、あらゆる空間に存在しない生命とは、この空間において異ならず、僕はこの空間で考えている。むしろ、君は、あらゆる空間に存在しないことによってあらゆる空間に存在するのに対し、ある空間に存在する生命は、そのことによってここには存在し得ない。
結局、僕は、君を恃んでいる。
おかしいだろう?大の大人が男子高生を恃んで生きて来たのだから。
君がもう居ないと知りながら君がそこに居るかのように虚空に話しかけている惨めな奴だ。手を伸ばして君の肩に手をかけようとしている奴を。
君が死んだのは突然だった。伝え聞いた最期からすれば、君は、殆ど状況を理解せず逝ったはずだ。そのことは、多少の救いだと思う。
青年というのは未来のために生きる生き物だ。少なくともあの頃の僕らは。その青年から未来が除かれたことを正しく認識したら、とても正気を保てなかっただろう。
それとも病弱な君は、どこかで覚悟していたのだろうか。
僕の最期も君と似たようなものになるような気が何となくしている。祖父は両方ガンだったが、ああいう緩慢で苦しい死に方よりも、心臓か何かで倒れてそれきりというような気がする。というよりそう願っているのかもしれない。
僕もそのうち何も成せず、何も掴まず、消えていく。
人がなしうる事は卑小(偉大と言っても卑小という意味になる)で、アリストテレスの偉業も数億年後にはカケラも残らないだろう。宇宙だって最終的に残るのだか消えるのだかわからない。というより、宇宙が実在するのか、君と僕が実在するのかすら、僕には自信がない。
結局、根本的な事は何も分からないじゃないか。
足元に空いた闇いどこまでも深い穴を見なかったことにして、ノウハウ本を読み込んで、「人は生きている」ということにして僕は、生きている。その事に文句はない。否応なく生きさせられているんだから生きるしかない。しょうがないよ。
けれど、結局、誰もが最終的にその穴に転落するようにできているのはいっそ滑稽だ。
全部の人の腹の中にはタイムリミット不明解除不能の時限爆弾が埋まっていて、全部の人間には避けても避けても最後は必ず的中するサジタリウスの矢が喰らい付いている。
あるいは、全部の人間は自由の刑と死刑とを併科されて気まぐれな法務大臣がハンコを押すのを待っている。
そして、以上の事を無視する事で辛うじて正気を保って生きている。
僕はオプティミストには絶対になれない。行動は楽天的でも、この事については徹頭徹尾悲観する。人生に意味を観念するあらゆる説に惜しみない共感を送るとともに、どうしようもない諦めを抱く。
そんなことを言うと、君は、「難しく考えずにもっと頭を柔らかく」とか言って賛同してくれないだろう。
死者の方が人生を楽観しているのも不思議な話だ。けれど、君は死んだから楽観できるのじゃないか。そして、僕の悲観は実は君の楽観に近い。
生きているのと死んでいるのとは何が違う?
科学法則の宣明するように無から有が生まれないなら、生と死とは有と無のような断絶ではなく、地続きでなければならないはずだ。僕は死んでいなければならず、それは強いて言えば君なのかもしれない。
あたたかさというものは、上にもあるのだが、下にも、つまり、停滞し切った最も暗く深く冷たく寂しい所にも確かにあるはずだ。深海の底に横たわったら白米を噛むときの甘さのようにほんのりとしたあたたかさが感ぜられるはずだ。それは、温度のない、透明なあたたかさに違いない。
我々がそこから来て、そこにあり、そこへ還る地点としてのそこは、きっと深海の底と同じようなあたたかさを湛えていると信じる。ある意味僕は楽天的に信じている。
君が時々そこから顔を出して今夜みたいに僕のくだらない話に付き合ってくれるその場所だ。僕もそこにいるし、そのうちそこへ帰ろうと思う。
これは正しく絶望なのだが、多分、今よりもっと絶望し切った先に絶望としての充足と満足がある。こういう夜にはそんな予感がする。
だから僕は、君が何と言おうとオプティミストにはならない。