続けたい
数日後、ホテルの中。
「部屋はこちらのようですね~」
私は健くんを連れて、ある部屋に入った。
よし、やったー!なんとか言い訳をして健くんをホテル内に連れ込むことに成功した。こんなところに、律儀な天啓さんは絶対に現れない。
これで二人きりになれる。
この機会に健くんに私の魅力をとことん知ってもらって、好きになってもらいたい──、
「……」
「……」
なんか……緊張する。
すべて予定通りに進んでいるのに、どうしてこんなに緊張してしまうのでしょうか。
すぐそばで健くんが私を見ていて、考えてみると、今ここに二人きりなのだ。そう気づくと、頭がまったく冷静ではなくなる。
早く落ち着いて、い、今は私が大人の顔を見せるチャンス!
この調子に乗って健くんとキスをすれば、きっと私のことが好きになってくれる!
「じゃあ、ちょっと来てください──あ!?」
健くんを部屋の真ん中のベッドの横に誘導しようとしたが、緊張しすぎたせいか、何かを蹴ってバランスを崩してしまった。
このままでは転ぶだろう、とそのイメージが頭を過ぎった瞬間、背後に手が伸びて私を支えようとした。
無意識に腕をつかんで立とうとしたが、意外にも腕もこちらに引っ張られてきた。
「うわっ!?」
痛い……え、痛くない?
気がつくと私は仰向けにベッドに横たわり、健くんが両脇に手をついて、上から見下ろしていた。
なぜこのような状態になったのか、すぐ気づいた。転びそうになったとき、健くんは私を支えようとしたけど、かえって私と一緒にベッドに転んだ。
また迷惑をかけた、ううん……ところで、健くんの顔が近いな。
至近距離で健くんに見つめられて頬が熱くなる。
事故だったが、これでちょうどよかった!!
「健くん……」
今雰囲気がいいから、健くんを抱きしめていれば、きっと成功につながる──!
……そう、そうすればいいのに。
なのに──、
「……どうした?」
「え……?」
声が聞こえたので目を開ける。
両脇に手をついたまま、健くんは私を見下ろしている。
彼は私の顔ではなく、体を見ているのだ……震えている私の体。
「え……おかしいね……どうして、震えているの?」
これは興奮で震えているから……そう言い聞かせても、体から伝わってくる冷たさは、そうではないと言っている……。
ああ、私は自分を誤魔化している。
……私、怖がっている。健くんに触られるのが怖い。
目の前の好きな人の顔がいつの間にか変わって、死ねと呟きながら、血走った目で私を睨んでいる。
震えて、冷たい水につかるように、身体が怯えて震える。怪我をしているわけでもないのに、下腹部が焼けた鉄を差し込まれたように痛い。
痛い……ありもしない苦痛に頭が引き裂かれそうだ。いつのまにか目の前の視界が液体で霞んでいく。
すぐに手を伸ばして涙を拭ったが、目には涙が溢れている。
「う……泣きたくなかったのに……やめてよ……」
そう命じても、涙は目尻を伝って落ちていく。
吐き出された言葉はとぎれとぎれになり、泣き声はもはや言葉を正確に伝えることができない。
……ああ、見真純、あなたは本当にだめな女。絶好のチャンスだったのに、また台無しにした。
毎度毎度そうで、うまくいっていると思っていたことは、いつもこうなってしまう。
好きな人が見ているのに、自分は泣いている。
腕で顔を隠そうとしても始まらない、おそらく見るにたえない醜態はとうにはっきりと見られているだろう。
恥ずかしい、死にたくなるほど恥ずかしい。
それでも泣き声は止まない。
長い、長い間、耳の中で聞こえていたのはその声だけだった。
最後には、自己嫌悪と羞恥に満ちた嗚咽とともに次第に薄れていく意識は遠ざかっていった。
◇
目が覚めると、知らない天井が見えていた。
いや、知らないというのは正確ではない。さっきまで見ているから。
天井を見つめながら、さっきのことを思い出した。
自分はとても長い時間泣いて、最後に疲れて寝ていた。こんなに眠れたのは久しぶりのような気がする。
体を起こして見渡すと、部屋には私以外に誰もいなかった。
「やっぱり、健くんいないんですね」
これも当然のことで、私と違って健くんは忙しそうで、いつもそばにいるわけにはいかないから、いなくなって当然だった。
健くんはいなくなったけど、それもいいことだし、彼にはここにいてほしくない。
好きな人の前で泣くのはすごく恥ずかしいだから。
今なら健くんが私のことを好きになってくれない理由も少しはわかった。
そんな私の姿を見て健くんが好きになってくれるわけがないでしょう。
……気持ちは落ち着きを取り戻していたが、まだ体調が回復していないようで、立ち上がろうとしたができなかった。
少し休憩したら帰るか。
そう思っていると、ガチャリとドアが開けられて少年が入ってきた。
健くん……どうして健くんはまだここにいる?
私が目覚めたのを見て、健くんは表情を変えずに無言で歩み寄ってきて、持っていたコップを手渡してくれた。
「これは?」
「起きたら喉が渇いたかもしれないと思った」
言われてみると、喉が渇いていた。泣いたせいか喉がカラカラに乾いている。
手渡されたコップを受け取って水を飲むと、少し気分が良くなった。
私が水を飲むのを見て、健くんはまた口を開く。
「さっき、何を言いかけたんだ」
「……なんでもないです」
健くんに問われて、私は黙って頭を下げた。
情けなくて…彼の顔を見る勇気がなかった。
「……もう言いたいことはないか?」
「……ええ」
「……そうか」
沈黙が二人の間に降りてきて、私は頭をさらに下げた。
……おそらく、あとで健くんはすぐに立ち去ってしまうだろう。
まだここにいるのは、私が彼に話したいことがあると言ったからだ。話したいことがない以上、健くんはすぐに立ち去ってしまうだろう。
そのはずなのだが──、
「え?」
足音に顔を上げると、健くんがやってきて、背中を向けてしゃがみ込んだ。
健くんの大きな背中を見て、私はぼんやりと瞬きをした。
「歩けないだろう。背中に乗れよ」
健くんは振り返り、私の足を見ている。
「どうして……」
唇がわずかに開き、言おうとしたことが伝わらず、言いかけた言葉が飲み込まれてしまう。
──どうしてそんなことをするの?
どうしてここにいる……どうしてそこまでしてくれる?……私のこと好きじゃないんでしょ?
口には出さなかったけれど、言いたいことは伝わったようだ。少年の声が前方から聞こえてきた。
「ここに置いておくわけにはいかないだろう」
そう言って、視線を前方に戻す少年。
「乗って」
「……ええ」
ためらいながらも、最後には健くんの背中に体を預けた。
帰宅の途につく。空はもうすっかり暗くなっていて、見上げるとうっすらと星が見える。
ホテルから出てきた健くんは無言のまま、私を背負って進んでいた。
通行人に好奇の目で見られても、いつものように、決められた方向へと歩き出す。
「すみません、健くんにまた迷惑をおかけして、降りてきます……」
「そんなこと気にしない」
と言ったのだが、健くんはまだ回復してないんだろうと言って、私を降ろそうとしない。
「でも……あの、重くないですか?」
これまでは気にしていなかったが、今は体重が気になるようになった。家までの道のりはまだ遠いから、人を背負って家に帰るのは間違いなく負担になる。
「重くない」
迷うことなく答えた。足取りも揺るぎない。
健くんは強がるタイプではない。おそらく彼は本当に重さを感じないで、このようにして私を背負って帰るつもりだろう。
「どうして……」
「何?」
「どうしてそこまでしてくれるんですか!」
前で組んだ両手を握りしめて、今私の顔はきっと歪んでいるだろう。
「どうして、こんなに優しくしてくれるの……。私のこと好きじゃないんでしょう?」
……そんなことをしたら、また勘違いしちゃうよ。
「……そうな。ただ、放っておくわけにはいかないと思う。それだけ」
「そうか……」
穏やかで温かい背中に顔を寄せて表情を隠し、私は口を開けた。
「……健くん、好きです」
「……わかってる」
数秒遅れて少年の声が聞こえてきた。
「あなたに好かれなくても、諦めたくないです」
「……」
「だから、まだ続けたいと思っています、いいですか?」
「……ああ」
ためらいのない答えに、それなのに、なぜか温かみが感じられた。
ああ、やっぱり、私は健くんのことを──、
「大好き」
……
好きな人の背中に顔を隠しながら、少女は呟いた。
まるで聞こえないかのように、少年は返事もせず、ひたすら前に進んだ。
家までの道のりは、まだ遠い。