十二月二十六日のクリスマス
「レイアウト変更って…い、今からですか?」
なるべく自分を抑えようと務めてはいたが、途中から声が上ずるのまではどうすることも出来なかった。
「そ。入稿週明けだからまだ間に合うでしょ? ほらウチも部数厳しいから少しでもいいものにしないと」
葉月の動揺も苛立ちも気づかないのか、それとも気づいて知らないフリをしているのか、編集長は平然と言い放つ。
良いものにしないと、といってももうこれで三度目だ。その度に編集長の漠然とした(もっとこうブワーっと、喜びあふれるように等)指示を元に誌面のレイアウトを直してきたというのに。
さらに編集長は最初の指示は漠然としているくせに出来上がってきたレイアウトに関してはやたらとうるさくて、『あと0.5ミリ下』などという指示を頻繁に出してくる。嫌がらせなんじゃないかと思う時さえあるくらいだ。
そもそもそれなら記事の質を上げるとかそっちの方が先だろうと葉月は思う。
高倉葉月、二十九歳。某出版社の女性雑誌のデザイナーをしている。もっともデザイナーといっても葉月のいる編集部は『女教皇』と陰口を叩かれている編集長がほぼすべてを決めてしまっていて、葉月はほとんどDTPのオペレーターと化していたが…。
「じゃ、そういう感じでお願いね」
いつもながらの曖昧な指示を出し、編集長は自分の席へと戻っていく。
その後ろ姿を睨みつけると、葉月は携帯を手に席を立つ。
とりあえず、悠介に電話しなければ。
喫煙所にもなっている廊下に出てみると、そこは他の編集部員達がメールをしたり電話をしたりで満員状態だった。
―みんな同じか。
葉月のいる編集部は若い女性向けの雑誌の編集部というだけあって若い娘が多いのだ。みんなそれぞれに週末の予定があったのだろう。何しろ、明日はクリスマスイブなのだから。
今年は天皇誕生日が金曜日ということもあって、二十三日、二十四日、二十五日が連休なのだ。
「ひどいですよね。『今年は二人だけのラブ&ゴージャスなクリスマス』なんて記事書いた本人が仕事場で徹夜なんて」
葉月より三つ若い吉川というメガネの編集者が、壁に貼ってある先月号の広告を恨めしそうに睨みながら言う。
「もうここ何年もクリスマスなんて彼と過ごしてないんですよ。今年こそはって約束したのに…」
吉川は壁にもたれかかって指で壁に何か字を書いている。
「彼、怒ったの?」
「…途中で電話切られました…。絶対編集長わざとですよ! 自分が四十目前で一人だからって…あの売れ残りのヒステリー!!」
わーん、と泣きながらトイレに駆け込んでいく吉川。
その後ろ姿を見送ると、葉月はため息をついて携帯電話を手にする。
『今年こそはって約束したのに…』
『途中で電話切られました…』
葉月の脳裏を吉川の台詞がよぎる。
(ゆ、悠介なら大丈夫…きっと‥‥‥多分…)
深呼吸を一つしてから、葉月は恋人の浅野悠介の携帯電話にかけた。
プルルル…
「もしもし葉月? もう仕事終わったの?」
二コールほどで悠介が出て、いきなりそう尋ねてくる。葉月にとっては一番マズイ展開だった。
「どこか外で待ち合わせて食事でも行く?」
どう答えようかと躊躇しているうちに悠介が更なる追い打ちをかけてくる。
「葉月? どしたの? …まさか、行けなくなったなんて言わないよな? あれほど太鼓判を押したんだから。俺、他の予定断ったんだぜ?」
最初はしゃいでいた悠介の声のトーンがだんだん下がっていく。
「あのね、悠介、仕事が延びちゃってどうもダメそうなの…ホントにごめんなさい」
まごまごしているとどんどん泥沼になっていきそうだったので、葉月は一気にそう言い放つ。
暫く、悠介からの返事はなかった。
『途中で電話切られました…』
そんな吉川の言葉が再び脳裏をよぎり、葉月は慌てて呼びかける。
「もしもし? 悠介? あの…この埋め合わせはちゃんとするから…」
それでも悠介からの返事はない。しかし、悠介の息遣いがちゃんと聞こえているので電話が切れているわけではないようだ。
口を開いた時に一体どんな言葉が出てくるか…。葉月は気が気ではなかった。
「悠介? もしもし? ホントにゴメンてば」
葉月は周りを見回し、声を潜めて囁く。
「…」
それでも悠介からの返事はない。まあもし逆の立場だったら葉月も怒らないにせよ相当不機嫌にはなっただろうから無理もない事ではあるのだが…。
「ねぇ…会えた時には悠介の言う事何でも聞くから…機嫌直してよ…」
祈るような気持ちでそう囁いた。ロマンチックなクリスマス、を思い描いていたわけではないが、こんな時期に喧嘩したくはない。
これでダメだったらどうしようかと葉月が思い始めたその一瞬後。
「なーんてね。どうせそんな事だろうと思ったよ。あんまり期待してなかったから気にしなさんな」
という、あっけらかんとした悠介の声が帰ってきた。
「騙したの!?」
途端に葉月の目が釣り上がる。
「そんくらいいーだろ。そんなに期待はしてなかったけど、それでも少しは楽しみにしてたんだぜ?」
軽く流しているようにみせてはいたが、微妙な声の調子から悠介ががっかりしているのが分かった。あまり葉月が気にしないように気を使っているのだろう。
「…ごめんね、悠介」
「いいって。でもせっかくだから帰りちょっと寄ってよ。終われば休みだろ?」
悠介はそう言うと頑張れ、と言って電話を切った。
―やっぱり悠介は分かってくれたんだ―
電話を切った後、ちょっとの間携帯を見つめて葉月は微笑む。吉川には悪いが、ちょっぴり優越感を感じていた。
結局、葉月が仕事を何とか終えたのは、二十五日の朝になってからだった。
(ダメ。絶対ダメ)
トイレの鏡で自分のやつれた顔を見つめながら葉月は思った。
仕事が終わったら立ち寄れ、と悠介は言っていたが、いくら何でもこの状態で悠介の前には出られない。そもそも風呂にも二日は入っていないし、服も着た切り雀、おまけに目の下には盛大にクマができている。メイクはこれからし直したとしても、もうそう言うレベルではない。
確かに、編集部からは葉月の家より悠介の家の方が近くはあるのだが…。
葉月は溜め息をついて携帯をかける。一応悠介には連絡しておかなければ。
「ダメ。言うこと聞くって言ったろ」
だが、事情を説明した葉月に対して悠介はきっぱりとした、妥協の余地のない返事をした。
「…だってやだよ私。何日もお風呂にも入ってないような状態で悠介に会うの」
「良いって。オレは気にしないから」
「私が気にするの!!」
「でもさ、そのうち一緒になったら、そんな状態の葉月が帰る家には絶対オレが居る、って事になるんだけど? それとも徹夜が続いたら実家に帰るの?」
「悠介…」
そう言われると、葉月は何も言えなかった。言い負かされた、と言うより悠介がそこまで考えてくれているのが何より嬉しかったのだ。
しかし…。
「…変な事する気じゃないでしょうね?」
「変な事って?」
「やつれた顔写真に撮るとか、下着の匂い嗅ぐとか」
「…それは良い考えだな」
「悠介!? そんな事するなら絶対行かないんだから!!」
「冗談だって。オレはそう言うフェチじゃないよ」
悠介はそう言って笑うと、『待ってるから』と言い残して電話を切った。
「…どうだか」
葉月は切れた携帯電話に向かってそう呟き、鏡に向き直る。
取り敢えず、いくらかは見られる顔にしなければ。
それから一時間くらい経って、葉月は悠介の部屋の前にいた。
(…大丈夫、だよね…)
葉月はクンクンと自分の匂いを嗅いでみる。
悠介とは既に十年ぐらいの付き合いではあるのだが、さすがに何日も風呂に入っていない状態で合うのは気が引ける。何より、今回に限って悠介が帰りに寄れと言って譲らなかったのが気になる。今まで一度だって無かったことだ。
(やっぱり…何か企んでるんじゃ…)
今は疲れて眠くて対応するだけの気力もないし、身体を求められたとしても応じられるような状態ではない。
帰ろうか、とも思ったが、さすがにそこまでするのは悪いし、とにかく眠い。なにより、扉の向こうには悠介のベットがあり、数時間だけでもとにかく眠りたい。葉月は半ば眠気に押されるような形でチャイムを押した。
「お疲れ。…取り敢えず寝る?」
ドアを開けた悠介が葉月の顔を見るなりそう尋ねてくる。葉月は半ば目を瞑った状態でコクリと頷くと、悠介に支えられるようにして寝室へ向かい悠介のベットに倒れ込んだ。
「四…ううん、三時間だけ寝かせて」
「明日は休みだろ? もっと寝てれば」
「でも…」
「いいって」
「…ゴメン。明後日もお休みだから明日はいっぱいサービスするから…」
葉月の意識は、そこで途切れた。
一体どれくらい眠ったのだろう。
次に葉月が目覚めた時には、辺りは既に暗かった。壁に掛かっているアンティークな柱時計を見ると、針は四時を指している。
(四時か…)
計算すると八時間ぐらい寝ていた事になる。
気だるさは残っていたが、疲れは大分取れていた。
(お風呂入ろ…)
まだぼんやりとした頭の葉月は大儀そうに起きあがり、水を飲もうとリビングへ行く。
と、リビングでは悠介がソファーで毛布にくるまって眠っていた。悠介は小説やパソコン関係の記事を書いているので、生活が不規則なのだ。
「悠介…ベット取っちゃってゴメンね…」
葉月はそっと呟くと、点けっぱなしになっていたテレビを消そうとリモコンを手に、テレビ画面を見た時だった。
「えっ!?」
テレビでやっている番組を見て、葉月は思わず素っ頓狂な声を上げていた。
「おは天って…じゃあ今、朝の四時…」
テレビでやっていたのは早朝のニュース番組だったのだ。つまり、同じ四時でも葉月の思っていた二十五日の十六時ではなく、翌二十六日の四時、という事になる。
(…私…丸々一日寝てたの…?)
「んぁ…? 起きたの?」
テレビを見つめたまま葉月が愕然としていると、悠介が眠そうな声をかけてくる。思わず上げてしまった声で起こしてしまったのかも知れない。
「あ、ご、ゴメン、悠介。起こしてくれても良かったのに…」
「いや、最初ウチに来た時大分疲れてたみたいだから。それより風呂、支度出来てるから入れば?」
眠そうに目をこすりながら悠介が答える。
「あ、うん…悠介は?」
「オレ? もう入ったけど。何? 一緒に入って欲しいの?」
そう言うと、悠介はニヤリと笑う。
「断じて違います」
きっぱりとそう言うと、葉月は脱衣所へ向かう。だがその途中でくるりと向き直って付け加えた。
「それはまた今度ね」
(起こしてくれればよかったのに…)
湯船につかりながら、葉月は思う。
(そりゃ、疲れてるだろうからって思ってくれたんだろうけど…)
だがクリスマスに二人でいられるなんて、葉月が今の仕事についてからは一度も無かった事なのだ。そして、これからも当分はないだろう。そう思うと、そんな悠介の気遣いが恨めしく思てくる。
(悠介ってばホントそういう所鈍いというかロマンがないというか…)
昔から、悠介は記念日とか思い出というものをあまり重視しなかった。学生時代なんてせっかく無理言ってバイトを休み、クリスマスの予定をあけたというのに肝心の悠介の方がバイトの予定を入れてしまい、結局またバイトの予定を入れ直して周りから散々からかわれた事だってある。
「はあ…」
浴槽の淵に頬杖をつき、口をとがらせてため息をつく。
「そりゃもうそんなのではしゃぐような歳でもないけどね…」
(夕方の四時だったらまだディナーぐらいは行けたしその後だって二人で…)
「悠介の馬鹿! もう今日は何にもしてあげないんだから!」
期待していない、と言い聞かせていたつもりでもやはり色々期待していたのだろう。葉月はふてくされてそう呟いていた。
「さっぱりした?」
そんな葉月の心のウチを知ってか知らずか、風呂から上がった葉月に悠介が声をかけてくる。
「…おかげさまで」
それとなく不機嫌さの漂う声で葉月は答えた。
これはさすがに面と向かって非難するわけにはいかないが暗に気のきかなさを責めるサインだ。
…もっとも、悠介はこのくらいでは気がつかないだろうが…。
「な、葉月、飯食いに行かない?」
やはり悠介は何も気づかない様子でのどかにそう言ってくる。
「ご飯…? わたし今…」
いらない、と答えようとした時だった。
ググウ~
葉月のお腹が盛大に鳴る。考えてみれば丸々一日以上何も食べていないのだ。
「決まりだな」
笑いながらそう言って車のカギを手に取る悠介に、顔を真っ赤にした葉月は何も言い返せなかった。
助手席に乗り込んだ葉月はちらりと悠介を一瞥する。だが悠介はそんな葉月を気遣う風でもなく、気にせずに旧タイプのMINIのエンジンをかけた。
(…悠介のバカ…)
葉月はふて腐れてぷいっとそっぽを向いた。
それから暫く後。
ふと気がつくと、車は見知らぬ山の中を走っていた。
どうやらふて腐れてそのまま眠ってしまっていたらしい。
「ねえちょっと…ここどこ?」
葉月が不安そうに尋ねる。
「箱根」
前を向いたまま、悠介がさも当然といった様子で返した。
「箱根!?」
「そ。今日休みだろ? 箱根で観光して、夜はホテルでディナー、なんてクリスマスはどうかなって思ってさ」
「クリスマスは昨日でしょ。寝正月ならぬ寝クリスマス。ま、三十路直前の女にはクリスマスも関係ないか」
そう言って葉月は肩をすくめた。
「まーそんなにむくれるなって」
そんな葉月の様子に気づいたのか気づかないのか、悠介はそう言うと悪戯っぽく微笑む。
そのまま車は芦ノ湖湖畔のそれなりに名の知れたリゾートホテルへと入っていった。
「ちょっと、こんなところで食事?」
「良いだろ? どうせこの辺りじゃこの時間にはご飯食べられるお店もないしさ」
「そう…だけど…」
葉月は口ごもる。確かに、まだ午前八時少し前なので普通のレストランではやってないだろう。しかし…。
(こんな所来るならもっとちゃんとして来たかったなぁ…)
かえすがえす、自分で目覚ましをかけていなかったのが悔やまれる。
レストランに行くと、平日だというのにそこそこ混んでいた。葉月はもっとがらんとしているのを想像していたのだが、どうもそうでもないらしい。かといってみんな定年後の悠々自適の人達かと言えばそうでもなく、若いカップルらしき姿もそこここに見られるのだ。
(この人達も一日遅れ組かなぁ…)
香ばしく焼けたベーコンを食べながら、葉月はぼんやりと思う。悠介はと言えば、ベーコンエッグをご飯に載せて美味しそうに食べていた。食事はビュッフェ形式だったので色々選べたのだ。
何度目かのお代わりのために悠介が席を立つ。と、ぼんやりと半ば機械的に食べ物をかみ砕いて飲み込んでいた葉月に、ウェイトレスが話しかけてきた。
「どうかされましたか?」
「え? あ、いえ、平日なのに結構人が多いなぁって…あ、ごめんなさい」
途中まで言いかけて、慌てて謝った。これでは『平日はどうせ暇だろうと思った』と言うことになってしまう。
「いえ、一番混雑するのは確かにイブから25日なのですが、逆にその日を避けてお泊まりになるお客様も多いのです」
「そうなんですか」
「あまり世間の流れにとらわれないと申しますか、一日遅れだろうが何だろうが、自分たちで『この日が記念日』と決めて楽しめればそれで良い、という事のようですね。他に私どものようなその日は絶対に休めないような仕事の方々もいらっしゃるようです」
「なるほど」
「お客様も本日お泊まりのご予定ですよね」
「えっ!? そうなんですか?」
今の今まで悠介が気まぐれで立ち寄ったと思っていたのだ。
「あら? ご存じなかったんですか? 申し訳御座いません、もしかすると余計なことを…」
「いえ、良いんです。多分、私が忘れていただけですから」
慌てて謝るウェイトレスに、葉月はそう答える。嘘ではあるが、この際そんなことはどうでも良かった。
「…そうだよね…」
ウェイトレスが行ってしまうと、葉月は一人呟く。
たった一日ずれただけで。また、自分の思い描いていたとおりにならなかっただけで、ふて腐れて、つまらなくしていたのは葉月自身だったのだ。
悠介は精一杯、楽しもうとしてくれていたのに。
これだけ素敵なデートを用意してくれていたのに。
「…どしたの?」
丁度お代わりを山盛りにして帰ってきた悠介が、何だか急にニコニコした態度になった葉月を見てキョトンとした顔をした。
「ううん、何でも」
そう答えてから付け加える。
「ありがとね、悠介」
「…? う、うん…?」
相変わらずキョトンとした顔をしている悠介に顔を近づけると、葉月は
「…今夜はすぐには寝かさないからね」
と囁く。
十二月二十六日のクリスマスを、二人で決めたクリスマスを、めいっぱい楽しんでやろうと心に決めていた。
去年の今頃に書いていてクリスマスに公開するつもりだったのですが、間に合わずお蔵入りしていたものです(笑)。今年も危うくお蔵入りするところでしたがどうにか間に合わせました(汗)。
同人誌化した同じキャラを使った別作品もあるのでいずれそちらも公開するかも…。