僕を合宿に連れてって③
古風な玄関の扉にはリアルなライオンのノッカーがついていたが、いさなは壁についているチャイムを鳴らした。
ややあって、扉が開く。
こういうところだから、メイド服を着たメイドさんが出迎えてくれるのだろうか。
そんな氷魚の予想に反して、現れたのは青緑色の着物を着た黒髪の若い女性だった。
「よく来たな」
女性は艶然と微笑む。
視線が自然と吸い寄せられる。
この世のものではないような妖しい美しさだった。見ていると魂を持っていかれそうになる。
「はじめまして。日渡沢音さんですね。今代の影無を務めている、遠見塚いさなと申します」
よどみなく言って、いさなはきれいなお辞儀をした。
「うむ。よろしくな。凍月がおなごを選んだと聞いて、どんな女傑が来るかと身構えていたが、いい意味で裏切られたな。ずいぶんと愛らしい少女ではないか、凍月よ」
うなずいて、沢音はいさなの影に向かって呼びかけた。
「中身はちっとも愛らしくねえけどな」
影から姿を現した凍月がいさなの肩に跳び乗る。
「知ってる」といさなは凍月の額を小突く真似をした。
「そういうとこだよ」
凍月といさなのやりとりを見て、沢音は笑う。
「変わらず息災そうで、何よりだ」
「おまえもな」
そこで、沢音はぼけっと突っ立っている氷魚に目を向けた。
「して、そちらの少年がおぬしたちの『協力者』か」
その声で、沢音に見とれていた氷魚は我に返った。
「橘氷魚と言います」
「ふむ。氷魚というのか」
身を乗り出した沢音は氷魚に顔を近づけた。まじまじと見られて恥ずかしくなる。
沢音が使っている香水だろうか。淡い桃のような匂いが氷魚の鼻腔をくすぐった。
なんだか懐かしい匂いだ。どこかで嗅いだことがある気がする。
「――思い出した。背中だ」
氷魚にとって、その匂いは記憶と分かちがたく結びついている匂いだった。先ほどのいさなとのやり取りも呼び水になったのだと思う。
「うん?」と沢音が小首をかしげる。
何気ない仕草ですら絵になる目の前の美しい女性が、かつて怪我の手当てをしてくれた女性と重なった。
「昔、あなたにおぶってもらったことがありませんでしたか?」
氷魚の問いかけを聞き、しばしきょとんとしていた沢音は、
「く――ははは。人妖問わず、様々な言葉で愛を囁かれてきたが、さすがにそれは初めて耳にする口説き文句だな」と破顔した。
何か致命的な誤解がある。気のせいか、隣のいさなの視線がひどく冷たい。
氷魚は慌てて弁明を始めた。
「いや、違うんです! その、昔、おれはあなたに怪我を手当てしてもらって……。そう、河童の妙薬! 遠野で河童から巻き上げたって」
即座にとっておきの切り札を切った。河童の妙薬なんて、そこらに転がっているようなものではないだろう。
しかし、沢音の表情に変化はない。
「ほう、妙薬ね。それで?」
「それで――そのあと、迷子になってたおれを、あなたは家族の近くまで連れて行ってくれました。おんぶで」
「なるほど。わしがおぬしをおぶったと」
「覚えてませんか?」
これで別人だったら自分はとんだ恥知らずだ。出来の悪い口説き文句だなと笑われても申し開きのしようがない。
「覚えがないな」
沢音の返答はにべもなかった。
「そ、そうですか」
完全にやらかした。羞恥で顔が赤くなるのを感じる。気まずいなんてものではない。いますぐ回れ右をして帰りたい。もしくは穴を掘って埋まりたい。
沢音はそんな氷魚を楽しそうに眺めまわし、「すまぬ。嘘だ。おぬしの反応が楽しくて、からかいたくなった」と言った。
「え?」
「一目見てわかったよ。あのちんまい童がよくもまあ大きくなったものだ。このくらいしかなかったのだぞ」
沢音は笑って自分の太もものあたりを叩く。
「それがどうだ。今はもうわしの背丈を超えている。人の成長は本当に早い。瞬きする間に大きくなる」
あやかしならではの感覚なのだろう。沢音にしてみれば、人の10年は瞬きひとつの時間と等しいのかもしれない。
「小僧を助けたのはやっぱりおまえだったか。それにしても大袈裟なやつだ」と凍月が苦笑した。どうやら、凍月はここに来る途中の話で沢音だと見当をつけていたようだ。
「凍月、おぬしはそう思わぬのか」
「おれから見れば、人の成長なんざあくびが出るくらいのろいぜ」
「それは、人に宿っているおぬしならではの感覚だとわしは思うが」
「――さてな。それより、早く中に案内してくれよ。いつまで玄関でくっちゃべってるんだ」
「ふむ。そうだったな。ではお客人、歓迎するぞ。中に入ってくれ」
沢音にいざなわれ、氷魚たちは日渡邸へと足を踏み入れた。