穏やかな塵④
夕食のあと、順番にお風呂を済ませたわたしたちは、話もせずにそれぞれの部屋に引き上げた。わたしは自分の部屋、彰也たちは泊まる時に使ういつもの客間に。
わたしは、布団に入ってもなかなか寝付けなかった。普段はあっという間に眠れるんだけどね。さすがに気が高ぶっていたんだと思う。
何度も何度も寝返りを打って、羊を数えたりもしたけど無駄で、ついにわたしは眠ることを断念した。
わたしは、無性に彰也と話したくなった。
枕元の時計で確認した時間は、確か11時を少し過ぎていたと思う。
彰也が起きていたら話し相手になってもらう。寝ていたら、すっぱり諦める。
そう決めて布団を抜け出したわたしは、寒さに震えながら彰也が使っている客間に向かったの。
お屋敷は、どこもかしこも怖いくらいにしんと静まり返っていた。素足に廊下がひどく冷たかったな。
彰也が寝ているはずの客間の前で足を止めたわたしは、おかしいなと思った。
襖が、少しだけ開いていたんだ。几帳面な彰也にしては珍しかった。
わたしは深く考えずに、静かに襖を開けた。
暗い部屋の中央に布団が見えた。盛り上がっているから、彰也は寝ているんだろうと思った。
最初に決めた通り、わたしは自分の部屋に戻ろうとした。
でも、何か胸騒ぎがしたの。
わたしは「彰也」と呼びかけた。返事はなかった。
もう一度、今度は少し大きな声で名前を呼んだけど、やっぱり返事はなかった。
わたしは手探りで、入り口の近くにあるスイッチで部屋の電気をつけた。
――どうしたの、いさな。眠れないの?
身を起こした彰也が目をぱちぱちさせて、やさしい声でそんなことを言ってくれるのを期待した。
でも、そうはならなかった。
わたしは、信じられないものを見た。
部屋の中央に敷かれた布団に、彰也が寝ている。
それはぜんぜんおかしくない。
でもね、そこから先がありえないの。
彰也の喉は真一文字に切り裂かれていて、血がとめどなくあふれ出ていたんだ。
そんなのぜったいに変でしょ。致命的に何かが間違ってる。
わたしは間違いの元を見つけたくて、視線を彰也から外した。
そして気付いた。
部屋の隅に、身を隠すようにして春夜がかがみこんでいたんだ。血に濡れた小太刀を手に持って。
限界だった。
目で見る光景に、頭が追いつかなかった。
へたりこんだわたしに、春夜は笑いかけた。悪戯がばれた時の顏みたいだったよ。
立ち上がって、散歩でもするみたいな足取りで近寄ってきた彰也は、わたしを見下ろしてこう言った。
「いいところに来たね。いさな」
どういうことって、わたしは思った。わけがわからなかったよ。
春夜の手には血に濡れた小太刀があって、彰也は首から血を流してる。誰がどう見ても、やったのは春夜だった。それのどこがいいところなのか、教えてほしかった。
でも、わたしは一言も喋れなかった。
「せっかくだから、俺が影無になるところを見ていってよ。――凍月、出てきてくれ」
わたしが春夜の視線をたどると、彰也の身体――影から『何か』が這い出してくるのが見えた。
最初は猫くらいの大きさだった『何か』は見る間に大きくなり、やがて大型犬くらいの大きさになった。
禍々しさと神々しさが同居したような姿――わたしが初めて見る、凍月だった。
「なれなれしく俺の名を呼ぶな」
重々しい、お腹に響く声だった。
わたしは恐怖に震え上がった。
わたしでもはっきりわかるくらいの妖気、そしてなにより、凍月はひどく怒っていた。
春夜は、まるで動じてなかった。
「つれないことを言うなよ、凍月。彰也を選んだのは何かの間違いだよな。本当は俺を選ぶはずだったんだろ」
春夜は、親しい友達にでも話しかけるみたいに、凍月に向かって言った。
なにを言っているの、とわたしは思った。このひとは正気なのだろうか、とも。
凍月はふんと鼻を鳴らして「そんなわけねえだろ、阿呆」と吐き捨てるように言って、それからこう続けた。
「おまえみたいに魂が濁ったやつなんか、逆立ちしたって選ばねえよ。うぬぼれも大概にしろ、勘違い野郎」
「……言ってくれるじゃないか。だったら、次の影無はどうするんだよ。俺以外に誰かいるのか。いないだろう」って、春夜は苛立った声で言い返した。
春夜のあんな声を聞くのは初めてだったな。
自分を否定されたのが、よっぽどおもしろくなかったんだろうね。肯定しかされてこなかった人だから。
「いるさ。おまえの後ろにな」
凍月は青い目をわたしに向けて、とんでもないことを言った。
「うそ」と、わたしの口が勝手に動いてた。
わたしが影無なんてありえない。
誰にもなんにも勝てないわたしが影無なんて、悪い冗談としか思えなかった。
「嘘じゃねえ。次の影無はおまえだ。いさな」
凍月のその言葉を聞いた春夜は、首をねじってわたしを見たの。
わたしはぞっとした。
春夜は笑ってた。でも、目に感情がなかった。
「そうか」とわたしに向き直った春夜は小太刀を逆手に握りなおした。
「彰也だけで済むと思ったんだけどな」
春夜はわたしを殺すつもりだとわかった。
春夜はそういうことが躊躇なくできる人間なのだと、その時に気づいた。
自分が影無になるために彰也を殺した。それでもなれなかったから、次はわたし。
わたしは、ここで春夜に殺されるのかなと思った。あまりにも突然すぎて、実感がわかなかった。
でも、結果的にわたしは死ななかった。
小太刀を振ろうとした瞬間、わたしの目の前から春夜が消えたの。
大きな音がして、見れば春夜が部屋の端っこでうつぶせに倒れていた。壁が壊れていて、すごい勢いで叩きつけられたんだってわかった。
「痴れ者が。二度も俺のねぐらを奪わせるかよ」
春夜を吹き飛ばしたのは、凍月だったの。大きな腕でね。かっこよかったよ。
凍月は、その青い目でわたしをまっすぐに見据えた。
「遠見塚いさな」
そうして、厳かにわたしの名を呼んだんだ。
いつの間にか、わたしの身体の震えは止まっていた。
「汝、我に己の影を差し出すか」
凍月はわたしに問うた。
影無になる覚悟はあるかと。
覚悟なんてできてない。わたしには彰也みたいな立派な志もない。
わたし以上に影無にふさわしい人なんて、きっといっぱいいる。春夜はありえないとしても、雅乃とか、いっそ兄さんでもいい。
とにかく、わたしじゃ無理だ。断ろう。
そう思った。
でも、でもね。
首を横に振ろうとしたとき、彰也の笑顔が頭に浮かんだんだ。
穏やかな笑みだった。
大丈夫だと、言ってもらえた気がしたよ。
彰也の笑みがわたしに力をくれた。
「はい」と、わたしはうなずいた。
わたしの影を、あなたに捧げます。




