夏休み
「ごめん。今度の旅行だけど、おれ、行けなくなった」
夜、家族全員が揃っている夕食の席で、氷魚は思い切って宣言した。
「なんで?」と、真っ先に訊いてきたのは水鳥だった。
「部活で、星祭りに行く用事ができたから」
氷魚は事前に用意していた理由を口にする。
「いさなちゃんに誘われたの?」
直球を投げてきたのは母だった。
「――まあ、そんな感じ」
氷魚が言うと、母と姉は揃って生暖かい笑みを浮かべた。見ていると、お尻の辺りがむずむずするような笑みだ。
「そっかそっか。氷魚は家族じゃなくて女の子を取るのね」
水鳥がわざとらしく深くうなずく。
「言い方! そういうんじゃないからね」
誤解もいいところだった。そこは勘違いしないでほしい。
「じゃあ、どういうのよ」
「――それは、その、星祭りにまつわる不思議な話を調べるためというか、なんというか」
「でも、デートでしょ」と水鳥は言う。
「違うよ」
氷魚は首を緩く横に振った。これだけは間違いなく断言できる。
「いさなさんとは、本当、そういうんじゃないんだ」
自分たちは協力して怪異に関わっているだけの先輩と後輩。いさなはきっと、そう思っている。
氷魚の言い方があまりに穏やかだったからか、水鳥と母は、戸惑ったように顔を見合わせた。
「まあ、その、なんだ」
と、父が口を開いた。
「こっちは気にせず、氷魚は先輩とお祭りを楽しんできなさい。ああそうだ。この際、水鳥も無理に家族旅行に付き合わなくていいぞ」
「あたしは別に無理してないよ。五稜郭とか、行くの楽しみだし」
「水鳥、彼氏いないものね」
母が頬に手を当てて物憂げに言う。
「ちょ、母さん、それは今言わなくてよくない?」
「そうなのか? 気になる相手とか、いないのか」
「父さんそれ大学生の娘に訊くことじゃないでしょ。っていうかこれ、あたしも行かない方がいい流れ? 夫婦水入らずの方がいい?」
「いや、そんなこと……あるかな」
「あらやだ父さんったら」
母が照れたように笑う。それを見て、水鳥は、「ホントに行くのやめようかな」とため息をつく。
氷魚は改めて思う。
うちの家族は、仲がいい。
2週間があっという間に過ぎ去り、星祭りの日になった。
毎年思うのだが、ほぼ無限に続くと思っていた夏休みの日々は、どうして無情にも瞬く間に過ぎ去っていくのだろう。
そのくせ、今日は時間が経つのがやたら遅く感じる。朝から何度時計を確認したかわからない。
時間を潰すために残っている学校の課題をやろうとするもさっぱり身が入らないし、ならば映画でも観るかと母のDVDコレクションを漁ってもピンと来るものがない。
ひとりで留守番中ということなら『ホーム・アローン』と同じだが、今は夏真っ盛りだ。クリスマスの映画を観る気分にはなれない。
そうして、特に目的もなく家の中を徘徊するという、この上なく不毛な時間の使い方をしているうちにお昼になった。
キッチンでヤカンをコンロにかけた氷魚は、椅子に座る。
ひとりきりの家は、静かだった。
ぶつぶつ言っていた姉も結局両親についていった。今頃北の大地でおいしいお昼ご飯を食べていることだろう。一方こっちはカップ麺だ。
自炊という選択肢は最初からない。
氷魚は家族がいない3日間をコンビニ、『米櫃』のお弁当、カップ麺で乗り切るつもりだった。それにしたって、1日3食を考えるのは大変だ。
いさなは、お弁当作りも含めてこれを毎日やっているのだ。学校に行きつつ、しかも仕事もこなしているというのに。
ご飯を作ってくれる母の存在が、この上なくありがたいと思う。
ふと、氷魚は天井の角に目を向けた。
真白が道場で退治して以来、時の腐肉食らいは出てこなくなった。それでも、たまに部屋の角が気になって仕方がない時がある。
それだけではない。
眠る時も、時折、また猿夢を見たらどうしようという恐怖に囚われる。
もう大丈夫だとわかっているはずなのに。
怪異と関わるというのはこういうことなのだと思う。
一度浸食された日常は簡単には元に戻らない。自分の精神だってきっと変質している。変質ではなく適応かもしれないが――
いさなは平気なのだろうか。慣れているのだろうか。怖いとは、思わないのだろうか。
ヤカンがけたたましい音を立てて、氷魚の物思いを強制的に終了させる。
立ち上がった氷魚はお湯をカップ麺に注いだ。
そうしてカップ麺ができるまでの3分間、氷魚は絶対に部屋の角を見ようとしなかった。




